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2010年1月 1日 (金)

浦島太郎

入試の時期ですが、なんら関係なく。
前回、浦島太郎について、ちょっと書いたので、そのついでということで。
「土産の玉手箱で老人になる話」なのですが、乙姫様の土産なのに、なぜそんな悲惨な結果になるのか、不思議に思ったことはありませんか。
乙姫様は悪意を持っていたのでしょうか。玉手箱の煙の正体はいったい何だったのでしょうか。
白い煙が出た、ということは要するに玉手箱には形のあるものは何もはいっていなかったということでしょう。では、何がはいっていたのか。
浦島太郎は、竜宮城で過ごした時間はそんなにたいしたことがないと思っていたのに、故郷にかえってきたときには、とんでもなく時間がたっていました。ということは、何百年という時間を失ったわけで、結局乙姫様は「失われた時間」をかえしてくれたのですね。
しかし、何百年という時間をもらっても、ふつうの人間なら死んでしまう。事実、浦島太郎は見る見るうちに老人になってしまった。そのままなら人間の寿命を通り越して死んでしまうでしょう。
だからこそ、乙姫様は浦島太郎を鶴の姿に変えてくれたのです。「鶴は千年、亀は万年」ですからね。
もう一つ、論理的に考えて疑問に思うのは「こぶとりじいさん」です。「小太り」ではなく、「瘤とり」です。文法的には、こぶを鬼にとられたのだから「瘤取られじいさん」と言うべきだという人もいますが、鬼をつかってこぶをとらせたのだから、まちがっちゃいません。大阪城を建てたのは大工さんではなく豊臣秀吉です。それより「はなさかじいさん」のほうが変です。
話がそれました。問題にしたかったのは、翌日となりのじいさんが行ったときに、なぜ鬼たちは昨日のじいさんだと思ってしまったかというです。
となりのじいさんはこぶをとってもらうために行ったのですから、当然こぶがついているはずですね。ところが、昨日のじいさんはこぶをとられているのですから、まちがえるわけがないではありませんか。別人であることは見ただけですぐわかるのに、鬼たちはなぜ昨日のじいさんとまちがえたのか。
ここから導き出される論理的帰結は、昨日のじいさんは両頬にこぶがあったのではないか、ということです。右と左にこぶがあったのを、たとえば右だけとられてしまった。つまり、左のこぶは残ったままです。そして、となりのじいさんは左にこぶがあった。だから、鬼たちはまちがえたのだ。どうだね、ワトソンくん。

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