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2010年1月25日 (月)

シネマレビュー(3)その2

「レミーのおいしいレストラン」という映画の話の続きです。

前回は、荒唐無稽な物語の設定について書きましたが、受験生へは「好意的に読め」というメッセージを送りました。物語の設定にけちをつけ始めると、芸術にはすべてけちがつくからです。かの西郷竹彦先生の言を借りるなら「現実を踏まえ、現実を超えるのがフィクション」です。

今回は、この映画においてスパイス的な存在である「アントン・イーゴ」なる料理批評家の話。

料理人を志す主人公のネズミの憧れであるシェフ・グストーは、この批評家の酷評がもとで憔悴し命を落とします。はからずもその批評家イーゴとレミーの料理対決となるわけですが、結果はレミーの圧勝。

レミーが作った「ラタトゥイユ」は、イーゴの心を強く動かし、「シェフに讃辞を述べたいと思うのは何年ぶりだろう」とまで言わせます。

この映画の原題でもある「ラタトゥイユ」は、フランスのごくありふれた家庭料理で、「おふくろの味」というやつだそうです。

日本にはすぐれた料理漫画「美味しんぼ」があるので、素朴な料理が舌の肥えた批評家を唸らせるという展開はさして目新しくないのですが、私が心惹かれたのはイーゴの独白です。

不確かながらだいたいのセリフを。

「批評家というのは気楽な稼業だ。辛口の批評は書くのも読むのも面白いし、商売にもなる。しかし、批評家の批評は、三流と言われる料理よりも存在価値がないことも認めるべきだ。」

おいおい、ネズミの可愛さにひかれてこの映画を観る子どもがこれを理解できるわけないよな。と思いつつ、この独白に価値を感じました。

母が「批評家にだけはなってほしくない」と口癖のように戒めて言っていたのを思い出しました。

辛口の批評というよりも、「けなす」だけが目的の批評もどきがなんと多いことよ。

相手を批判しけなすことで相対的に自分の価値を上げる。そういう輩の多いことよ。

世間がなかなか認めない価値を口にするには勇気が必要。

だれかの業績を妬んでこき下ろすのは痛快で溜飲が下がるものです。

批評の対象に愛情を持たずに非難し批判するのは独善的で、単なる悪です。

自戒をこめて。

勇気をもって、価値を見いだし、ほめることが育てる側には必要なのだと改めて思い至りました。なんか、日本の不況脱出のカギも、もっとみんなで「ほめ合う」ことのような気がしました。

こういうことを書くと、「夢想家」「いい子ちゃん」「偽善」のようなそしりもありそうですが。

イーゴがレミーのラタトゥイユをほおばった瞬間に少年時代を回想する場面、友だちにいじめられてべそをかいて家のドアを開け、母親のラタトゥイユをほおばる場面に、なぜか大いに共感しました。こういうのに弱いなあ。いかにも、なのに。

パリの夜景がとても美しく、それだけでもこの映画の価値は十分な気がします。

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