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2010年1月17日 (日)

六代目

入試にかかわりなく、前回のつづき。前回最後に書いた「騎士」は「ないと」、「七音」は「どれみ」、「一二三」は「わるつ」と読むそうですが、なにか……?
ということで、名前の話ですが、昔は、おおまかにいって音読み系は通称、訓読み系は実名でした。前者を字(あざな)、後者を諱(いみな)といいます。
中国の人も、諸葛亮孔明のような呼び方をすることがあります。亮が諱、孔明が字です。どちらも「明るい」という意味の共通性があり、そういう名付け方をしたようです。
日本では木下藤吉郎秀吉の藤吉郎が字、秀吉が諱です。字と諱の間は、とくにつながりはないようです。官職名を字のように使って姓まで入れ、真田左衛門尉海野幸村とか長宗我部宮内少輔秦元親みたいな言い方もします。
では、なぜ諱を「いみな」と言うのでしょう。これは「忌み名」で、原則的にはできるだけ隠して、知られたくない名前なのですね(ハリー・ポッターの「名前を言ってはいけない人」も同じ考えかもしれません)。
「言霊(ことだま)信仰」というのがありました。今でもありますね。結婚式のときなど使ってはいけないことばがあります。「犬」「切る」「終わる」などはだめです。商売人も縁起をかついで、「すりへる」につながる「する」ということばをいやがります。「スルメ」は「アタリメ」です。入試が近づくと「落ちる」ということばをいやがるのも、同じ心理でしょう。
この考え方でいうと、ことばには魂がこもっているので、たとえば大昔の天皇は、正月には山に登って自らの治める国をながめて、「やまとの国はすばらしい」という歌を詠みました。本当にすばらしいのではなく、そう歌うことで、歌にこもった魂がそれを実現させてくれると考えたのですね。この風習はいまだに続いていて、正月の行事として天皇を中心とした歌会が催されます。
そして歌と同様あるいはそれ以上に霊力をもつことばが人の名前です。人の名前はその人自身をさし示すものですから、うっかり人に知られると、呪いをこめられるかもしれません。名前にこめられた呪いはその人自身にふりかかってくるはずです。ですから、本名を言わないで通称でごまかしたのでしょう。じっさい、坂本龍馬の諱はふつう知らないでしょう。社会のテストでうっかり「坂本直柔」なんて書いたらペケにされそうです。
明治になって新しい戸籍をつくるときに、字と諱のどちらにするか決めなければならなくなったときに、司法卿の江藤新平は字にしました。それでは軽すぎると言われて本人は「『にいひら』とでも呼んでくれ」と言ったそうです。板垣退助も字系の名前ですね。
西郷吉之助も「隆盛」は本人の名前ではなかったという話があります。ほんとの名前は隆永だったそうです。西郷が留守のときに名前を届けなければならなくなって、友人が「たしか隆盛だったような気がする」とか言って届けたのが正式の名前になったということです。つまり、それほど諱というものは知られていなかった。
さて、そういう魂のこもった名前なら、すばらしい人物の名前を受け継ぐことで、その人の才能や力量も受け継ぐことができる、と考えたのが「襲名」ですね。歌舞伎や落語家の世界ではよくあることです。あの「こぶ平」が「正蔵」になっただけで、なんとなく貫禄のようなものが出てくるから不思議です。
希学園も二代目の学園長が生まれました。その際、「二代目前田卓郎」を名乗るというのも「あり」だったわけです。あるいは新学園長が初代としてその名前を「大名跡」にして、将来において次の人とバトンタッチをするときに「二代目を名乗らせてください」と言われるなんて話、夢があるでしょう。
各科の先生も、そういう襲名をするとおもしろいでしょうね。「西川和人は三代目が名人だったね」とか「初代の西川和人はショボすぎたので、じつは歴代に数えないらしいぜ」とか。
講義中に、「五代目!」って声がかかったりするのもいいけれど、「六代目と同じ時代の空気が吸えるだけでも幸せだ」なんて言われる講師がいたらすごいなあ。

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