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2010年4月 6日 (火)

蛙は何匹?

一つの文章をどう受け取るかということについては、話の送り手と受け手との間に共通の了解が必要だし、多くの受け手も同じように受け取るのがふつうです。そうでなければ新聞は成り立ちませんよね。「阪神、巨人に快勝」という記事を見て、「巨人が勝った」と思う人はいません。ところが、そういう伝達の次元からさらに一歩踏み込んで、たとえばどういう教訓を導き出すか、というレベルになると個人差が生じます。

ワシントンがさくらの木を切ったことを正直に告白した、という話の内容そのものは、みんな同じように理解できるでしょう。ところが、ここで勝手なことを考えるバカモノが出てきます。カンカンになっていた父親が簡単に許すのはおかしい、きっとワシントンが「オレが切った」と言ったときには、まだ手にオノを持っていたにちがいない、そのオノを見て父親はビビりながら「べつにええよ…」と言ったのだ……。そして、そういう考えをする人はその前提ですべてを理解しようとします。「ワシントンはとんでもない不良なので、きっと将来ろくでもない人間になったにちがいない」と。

一つの可能性しかないと決めつけてしまうのは国語のできない人の典型的なパターンで、家族団欒のシーンの描写で父親が登場しなければ、きっと死んだにちがいないと決めつけてしまうようなアホタンでしょう。でも、こんなまぬけな「解釈」をしない人でも、ひょっとしたらワシントンの話から、「なるほど、そんなに正直な少年だったワシントンも、のちには『政治家』というウソつきになったのか、人間というものはわからんのう」という「教訓」を引き出すかもしれません。これはなかなか鋭い着眼点で、おもしろい解釈なのですが、これしか思いつかないのは「独断と偏見」です。一般的な解釈ができたうえで、「待てよ、しかし、この話はこういう風にも解釈できるのではないか」と考えられたら相当のものです。「独断と偏見」しかできない人は、それが人々の共感や感嘆をかちとる場合には「天才」と呼ばれるでしょうが、ほとんどの場合は単なる「非常識」です。

とはいうものの、詩や俳句となると、内容の理解そのものも難しい。たとえば「古池や」の句でも、「古池」って、どこにあるのですか? 山の中? 荒れ果てたお屋敷の庭の池? 実はどこかのお寺の池であり、池を見つめて句を思案している芭蕉の耳に、近くの隅田川に飛び込んだ蛙の水音が届いたのだ、二つのちがう情景をつなぐために「古池に」ではなく「古池や」の「や」が用いられたのである……という、あっと驚く解釈もあります。では「蛙」は何匹でしょう? 一匹? 二匹? その蛙の種類は? まさか食用ガエルではないでしょうが……。

こんな話もあります。芭蕉の弟子の去来が「岩鼻やここにも一人月の客」という句をつくりました。師匠が、この句はどういう意味だと聞いたら、去来は「月があまりきれいなので見ながら歩いていて、ある岩の突き出た場所までくるとそこにも月見をする風流なひとがいた、というものです」と答えた。すると芭蕉は、「ちがう、この句は、月に浮かれて岩場を歩く人に対して、『ここにも一人月見をする風流人がいますよ』と名乗り出たのだ」と言ったそうな。作者の去来はそれを聞いて、思わず「なるほど」と納得してしまった……というのも変と言えば変です。作者が自分の作った真意を否定されたうえ、別の解釈のほうがよいと感心しているのですから。もっとちがう解釈もできるかもしれません。「私が月を見ていたら岩鼻も月を見ていた。ああ、ここにも月の客がいたんだな」「月を見ているのは岩鼻だけではない。ここにも月を見ている私がいるぞ」「満月だから岩鼻にそれを見に行って、横を見たらもうひとりいたぞ、よく見たらそれはサルだったぞ」……。

要するに、人によって細かい部分のイメージは違うのです。でも「古池や」の句では、「静寂」ということは感じられるでしょう。いやいや、静寂を突き破る蛙の水音の力強さに生命というものの偉大さをオレは感じたぞ、なんて人はふつうはいないでしょうね。そのあたりの「常識的解釈」が国語という科目では要求されます。小学生や中学生に独創的解釈を求めようなんて無謀なことは考えていません。詩人や作家を養成するわけでもありません。昔あった「クイズ百人に聞きました」です。大胆な言い方をすれば、いちばん多い答えが正解、というのが国語です。あなたはどう思いますか、とか真実の解釈は何か、とかを尋ねているのではなく、その言い回しや文脈はどう解釈するのが最も自然で常識的か、ということがわかりますか、と聞いているのです。

「詩の問題はきらいだ。人によって感じ方はちがうのが当然なのに、同じ答えを要求するのはけしからん」とねぼけたことを言う人がいますが、「あ、ほんまやー」と思ったあなた、多くの人の感じ方ができず、また理解できないというのは、よほどの天才か、あるいは感覚的に欠陥のある人なのですよ。あなたはどっち?

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