授業中の会話
ぼく(プリントを配りながら)「来年の1月、灘中の2日目にはまちがいなくこの詩が出題される!」
塾生「また言うとる」「前にも同じこと言うてたがな」
ぼく「今度こそまちがいな~い! なぜなら昨日夢のなかで神様がそうお告げになったからだ!」
塾生「前にもそれ言うとったな」
ぼく「白い服を着た、髪の長い人やった」
塾生「はいはい」
ぼく「『あなたはキリストですか?』って聞いたら『イエス』って言うてた」
塾生「・・・・・・」
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ぼく(プリントを配りながら)「来年の1月、灘中の2日目にはまちがいなくこの詩が出題される!」
塾生「また言うとる」「前にも同じこと言うてたがな」
ぼく「今度こそまちがいな~い! なぜなら昨日夢のなかで神様がそうお告げになったからだ!」
塾生「前にもそれ言うとったな」
ぼく「白い服を着た、髪の長い人やった」
塾生「はいはい」
ぼく「『あなたはキリストですか?』って聞いたら『イエス』って言うてた」
塾生「・・・・・・」
前回、ホームズ派とルパン派がいたという話を書きましたが、その後十三の事務系職員の若い女性で、ジェレミー・ブレッドのホームズシリーズのDVD集めてます! という人が現れました。ホームズのイメージにぴったりなんだそうです。僕の友人も確か同じことを言ってました。やはり、ジェレミー・ホームズは人気が高いですねぇ。
これってすごいことですよね。ふつう、人気のあるマンガや小説を映画化ないしドラマ化した場合、イメージがちがうっっ、という非難がごうごうとまきおこるんですけどね。
金田一耕助なんていくつも映画化されましたが、あまりぴったりの人っていなかった気がするんですけど。
石坂浩二はちょっと清潔感がありすぎかなあ? 金田一耕助ってもっとばっちい人だったはず。
僕は個人的に『悪霊島』?でしたっけ、鹿賀丈史のが好みでした。岩下志麻の女学生姿にはびっくりしましたが。
渥美清の金田一耕助というのもありましたが、「おにいちゃん、こんなところで何してるの?」とか言いながら倍賞千恵子が出てきそうでこわいですね。
藤沢周平に『用心棒日月抄』というとてもおもしろい連作があり、僕の知る限り、2度テレビドラマ化されていますが、2度めにドラマ化されたときの主演が小林稔侍でずっこけました。いや小林稔侍さんが悪いんじゃないんですが、最初にドラマ化されたときは村上弘明だったんですよ。それが小林稔侍? いったいどんな主人公なんだ?
歴史上の人物を演じるのも大変そうです。人それぞれに勝手なイメージを持ってるでしょうから、みんなが認めるキャスティングというのはなかなか難しいでしょうね。
かつてはNHKの大河ドラマをよく見ましたが、織田信長の役はだれがいちばんよかったかという話を友人とよくしました。『おんな太閤記』のときに藤岡弘さんがやってたのが怖くてでも怖いだけでもなくてなかなかよかった気がしますね。役所広司の信長はどうなんでしょう。もっと美男子でなければ信長っぽくないような。緒形直人の信長にいたっては、う~ん。あの人っていつまでも垢抜けなくて不思議。このときは配役がすごくて、確か明智光秀の役をマイケル富岡が演じ、徳川家康の役を郷ひろみがやって、びっくり仰天。でもマイケル富岡の追い詰められ方がよくて結構好きでした。かなり古いですが『黄金の日々』で石田三成の役を近藤正臣がやっていたのもすごくよかったですね。神経質そうな感じで。
先日、テレビで『陰陽師』やってましたけど、確かに安倍晴明役って野村萬斎しかいないって気がします。キツネ顔だし。ずっと前に野村萬斎が『釣り狐』という演目を踊っているのをテレビでみましたが、彼が出てくるとすごい勢いで空間が締まりますね。生花なんかでもほんとうにいいものは、磁場とか重力場とかいった言葉がぴったりで、それが置かれた空間の構造を変えてしまうような気さえしますが、舞踊は動きがあるのでより劇的で、迫力があります。
日本舞踊の発表会で照明のアルバイトをしたことがありますが、やはりえらい先生のは全然ちがいました。しかし残念ながら、僕のスポットがうまくあたらなくて悪いことをしました。いやはや。
大学にいたころの知り合いに、朝鮮舞踊をやってる女の子がいて、あまりに動きがきれいなのに感心してしばらく僕もならったことがあります。鶴橋に教室があって、行ってみるときているのはおばちゃんばかりでした。「女舞しかやってへんけど?」ということで、なぜかひとりオモニたちにまじって踊ってました。バランス感覚がすごく悪いためいつも先生に「男のくせにふらふらするな!」と叱られていました。もちろん、チマチョゴリ着たりはしませんでしたが。
日舞と朝鮮舞踊はまず重心の高さがちがいます。日舞はかなり低いです。やはり農耕民族だからかな?と思っていました。それから、件の女の子によれば、日本のは日舞にしろ歌舞伎にしろ、決めのポーズといいますか、そのぴたっと停止したところの美しさを見せるんだけれど、朝鮮舞踊は動きそのものの美しさなんだとか。これもなるほどと思いました。そこに空気がある、と感じさせるような動きですね。
日舞にしろ朝鮮舞踊にしろ、修練を積んだ人の動きはすばらしいです。
僕は舞踊の才能が皆無なんでもう踊りをならうことはありませんが、国語の授業だけは修練を積んで、より良いものにしていきたいと思っています。
これを読まれている方で、いま塾選びをされている方がいらっしゃいましたら、ぜひ希学園の授業を見学にいらしてくださいまし。
と、むりやりまとめてみるのであった。
アルセーヌ・ルパン シリーズ
小学生向けに、怪人二十面相とかシャーロックホームズとかアルセーヌルパンのシリーズが出ていて、かなり高い人気を誇っていました。
で、子どもたちはだいたいホームズ派とルパン派に分かれるんですね。
理屈っぽいやつとか理系のやつはたいがいホームズ派だったような気がします。
大学時代に一緒に住んでいた理学部の友人は圧倒的にホームズ派でした。彼はテレビでジェレミー・ブレッド?が主演したホームズのシリーズもずっとみてましたね。『太陽にほえろ』で「山さん」の役をやっていた露口茂が吹き替えをしていました。長いパイプを吸っていて、神経質そうな、ちょっと病的な感じで。あれは阿片だよね、ろくなもんじゃねえな、とか言いながらみてたような気がします。
僕はもうまったくホームズなんかは読まず、ルパンでした。
大人になってから、「ルパンのシリーズはおもしろかったから、子供向けでなく大人向けのを読んでみたいものだ」と思って、堀口大学訳のやつを買いました。
堀口大学といえば、
泣き笑いしてわがピエロ
秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり。
0(オー)の形の口をして
秋じゃ! 秋じゃ! と歌うなり!
なんていうかっこいい詩を書いている人ですから、この人の訳ならまちがいないと思ったんですね。
ところがですね、まず題が『強盗紳士』になっていてですね、なんだか不吉な予感が。
ルパンは「怪盗」だったはずだが・・・・・・。強盗ルパン・・・・・・。出刃包丁とか持ってそうで嫌だな。口のまわりに丸いひげとかはやしてたりして。
しかもですね、中をちらちらみてみると、ルパンが自分のことをですね、
「わし」
と言っているんです。あのおしゃれできざなルパンが「わし」! ありえない! 仁義なき戦いじゃないんだ! どうなっとるんだ、堀口大学!
というわけで、長い間読まずに放置してしまいました。
読んでみたらまあそれなりにおもしろかったですけれど。
やはり訳は大事ですね。
『愛と青春の旅立ち』は確か直訳すれば『士官学校』でしたっけ。まあ、そんな地味な題だったらあんなにヒットしなかったかもしれません。いずれにせよ僕はみていませんが。
『星の王子さま』も本来の題には「星」というのはないですね。小さな王子、かな。でも、これは圧倒的に内藤濯の『星の王子さま』という訳が定着しちゃいましたね。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルがすごく定着してしまいましたが、村上春樹が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というそのままの題で新訳を出しましたね。かなり気に入らなかったんでしょうか。『おおきな木』という絵本は直訳すれば『与える木』とでもなるべきところだったんでしょうが、村上春樹の新訳でも『おおきな木』ですから、やはり『ライ麦・・・・・・』は相当気に入らなかったんだろうなあ。
だいぶ前に村上春樹が、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は関西弁で訳したらぴったりだと思うと言っていたので楽しみにしていたんですが、新訳は残念ながら関西弁じゃなかったですね。ちぇっ。
直訳でも素敵な題はあります。
アンリ・コルピの『かくも長き不在』なんて良かったですねえ。すごくいい映画だったし。
やたらと「泣ける映画」や「泣ける小説」をもてはやす風潮がありますが、どうなんでしょう。『かくも長き不在』はべつに泣ける映画ではありませんでしたけれど、とてもいい映画で、深く深く感動しましたがね。
北村太郎という詩人が『ぼくの現代詩入門』という本の中で、森川義信の『あるるかんの死』という詩を紹介していまして、確か「深い沈黙に引き込まれるような感動」といった意味のことを書いていたと記憶しています(例によってあやふやな記憶ですが)。
この表現がすごくいいなあと思います。「泣ける」映画や文学より、「深い沈黙に引き込まれる」映画や文学の方が僕は好きです。
『かくも長き不在』をみたあとは、だれとも何もしゃべりたくない、ずっと黙っていたい気持ちになったように記憶しています。
前に書いた『白痴』を読んだときもそうでしたし、それこそ森川義信の『あるるかんの死』を読んだときも、シルヴァスタインの『おおきな木』を読んだときもそうでした。
「泣ける」話って、結局浅いんだろうと思うんです。なぜ「浅い」と感じるかというと、答えが書かれてしまっているからだと思います。
映画にも文学にも答えはいらないんじゃないかなと僕は思うんですね。重たい問いかけがあればそれでいいんじゃないかなと。重たい問いかけを心に残してくれる作品が良いように思います。
僕がシルヴァスタインの『おおきな木』や『ぼくを探しに』をほんとうに好きなのは、そういうところです。『おおきな木』よりも『ぼくを探しに』の方が読んでいてちょっと泣きそうになってしまい、そしてそのぶんだけ『おおきな木』のほうが好きなのは、『ぼくを探しに』には答えが少し顔をのぞかせているからじゃないかな。
ところで。
だいぶ前にビール酒造組合の広告について書きましたが、最近また新しいのが出ていますね。阪急電車のドアのところに貼ってありますが、こんなのです。
10代の飲酒。
どんなに価値観が多様化しても
全員一致で×です。
前回はですね、「勧められたらきっぱり断ろう/自分はまだ未成年なんで」というのが全然きっぱり断ってないんじゃないかということで茶々を入れてみたわけですが、今回はべつに揚げ足をとるようなところはなさそうです。
さすがに、「なに、10代の飲酒? ということは10歳未満ならいいのか?」というのは屁理屈が過ぎるように思います。
というようなことを考えていて、ずっと昔にみた、『路』というトルコ映画の一場面を思い出しました。
ユルマズ・ギュネイという人が獄中から監督したとかいうことで話題になった作品です。
クルド人の政治犯が一時的に仮釈放されて自分の生まれ育った村に帰ってくるんですが、5歳か6歳くらいの男の子たちにタバコをお土産にあげるんですね。すると、その子たちがいそいそとそのタバコをふかしている、そんな場面でした。かわいくて笑ってしまうんですが、でもやはりちょっと暗然とした気持ちにもなる、印象的なシーンでした。
この映画もやはり重たい問いかけを残す、「沈黙系」の映画だったなあ、となつかしく思い出します。
厳密に言うと、アクセントとイントネーションはちがうのでしょうが、要するに日本語の場合は音の強弱というより高低ですね。最近は高低がどんどんなくなっていくような傾向にあります。とくに、外来語が妙なことになっていて、たとえば「ネット」は「網」の意味のときと「インターネット」の意味のときではイントネーションがちがってきます。「ファイル」もパソコンの場合には、書類をまとめる文房具のときとはちがいます。こういうことばがニュースに出てきたら、NHKのアナウンサーはどう発音するように教えられているのでしょうか。きちんと区別しろと言われているのかなあ。
NHK大河ドラマや、「そのとき歴史は動かなかった…」なんかのナレーションで違和感を感じるのは「河内」のイントネーションです。「天正何年、信長は河内へ進攻した」なんて格調高いナレーションなんですが、「か」が高い発音が関西人には気色悪いです。強くは発音するのですが、高くはないんですね、われわれは。あの発音では、「信長どこへ行ったー?」と聞き返したくなります。
大阪が舞台のドラマで登場人物が大阪弁を使っているという場合に、大阪以外の土地出身の人のイントネーションはつらいですね。もちろん、これはどの土地を舞台にしたドラマでも同じことでしょう。逆に、たとえば鹿児島を舞台にしたドラマで鹿児島弁をパーフェクトにやられると、意味不明です。鹿児島はもともとわかりにくい方言だったのに、関ヶ原で負けて以来、幕府の密偵をすぐに見破るために、わざといっそうわかりにくいことばにしたという話もあるぐらいです。大河ドラマで西郷と大久保が会話するシーンをリアル薩摩弁でやると、ドイツ語にしか聞こえないような気がします。純粋津軽弁はフランス語にしか聞こえないらしいです。
実際、幕末の志士たちの会話はどうだったのでしょうね。教養のある武士なら、単語そのものは書物を通じて知っていたでしょうから、なんとかなったかもしれません。だいたい、方言の中には、もともと都で使われていた古いことばも多いようです。たとえば岡山など中国地方で使われる「きょーとい」ということばなど、「こわい」という意味らしいのですが、「気疎い」という古語から出たものです。博多などでは「大便をする」ことを「あぼまる」と言うそうで、この「まる」もいわゆる「おまる」の語源になった古語です。方言の代名詞のような「だべー」「だんべ」だって、「べ」は「べし」が「べい」になって変化していったものですからね。ですから、困るのは単語そのものより、おそらく発音つまり訛りへのとまどい、聞き取りにくさにあったのでしょう。「す」と「し」がごっちゃになるような地方の人は、「寿司」と「獅子」と「煤」は区別できるのでしょうが、他の地方の人が聞いたら、わけがわかりません。江戸っ子だって、「ひ」の発音ができずに「し」になってしまうし、大阪人はその反対に「ふとんを敷く」とは言わずに「ふとんひく」です。「質屋」は「ひちや」です。江戸っ子が「買っちゃった」と言うのに、大阪人は「買うてもた」です。
これ、いわゆるウ音便ですね。「買う」+「た」で「買いた」が、東京では「買った」、大阪では「買うた」になります。ということで方言あつかいされ、参考書などではウ音便が無視されています。ところが、「ありがたい」+「ございます」のような、格調高いことばを使おうと思った瞬間、「ありがたくございます」が「ありがとうございます」となって、ウ音便を使わざるを得ません。江戸のことばはここまで成熟していなかったのですね。敬語が使えないことばです。また、「買う」は「買わない・買います・買う・買うとき・買えば・買え・買おう」のように、ワ行で活用します。「会う」「言う」なども同じで、これらは「買った」のように、「っ」つまり、いわゆる促音便になります。ところが、「問う」は「問った」とは言いません。ウ音便を借りてきて「問うた」と言うしかないのです。大阪弁なら、すべてウ音便でいけます。こういうところからも、江戸のことばの「未開性」は明らかですな、はっは。やつらに言っておきましょう。韓流スターの名前のようなウオンビンをばかにすなーい。
そうそう、時代劇の安易な田舎弁もいやですね。「おら畑耕してただ」とか「こうなりゃ一揆するしかないべ」のような言い回しがどの地方を舞台にしていても聞かれます。これは方言というより「役割語」ですね。こういう言い方をすれば、「江戸時代の農民」を表す、というような働きをしています。「わしはのう、こう言ってやったんじゃ」になると「老人語」、「あら、私はそうは思わなくってよ」と来たら「女性語」。ただし、じつはこれらは小説の中のみにしか見られないという指摘もあります。たしかに、実際の現代女性の話し方は文字にしてしまえば、男性のことばとほとんど変わりません。逆に、だからこそ小説では「女性語」にしないと、だれの会話かわからなくなるのでしょう。ステレオタイプは便利です。昔は「ハウ、インディアンうそつかない」とか「××あるよ」とか安易に使っていました。そう言えば、宇宙人もなぜか、のどのところを軽くたたいて、声をふるわせながら「ワレワレハウチュウジンダ」と言います。きっと、一人でやってきても「ワレワレハ…」と言うのですね。
最近あまりテレビのドラマを見ないのですが、ドラマの電話シーンの相手のことばの反復、というのはまだやっているのでしょうか。刑事ドラマで電話を受けた刑事が、「えっ、××町3丁目6番地で、はたちぐらいの女の人が何者かに殺されたって?」と聞き返すやつです。現実には絶対にありえないやりとりですね。食事のシーンでも、昔は口にごはんを入れたまましゃべるということはありませんでしたが、最近はリアルにやっているのでしょうか。現実にはごはんつぶを飛ばしたりしながらしゃべって、怒られたりするのですが、そこまではやらないのかなあ。向田邦子のホームドラマはその点、けっこうリアルな部分がありました。たしか西城秀樹は親子げんかのシーンでほんとに骨折してしまったのではなかったかな……。
ネタ切れといいますか、記憶障害といいますか、これまでに「小学生のときに読んだ本」として紹介した以外にもたくさん読んでいるはずなんですが、なぜかあまり思い出せなくて。
たとえば『大きい1年生と小さな2年生』という本を読んだことをおぼえていますが、どんな話だったか記憶にないんですよね。大きな1年生の男の子と、小さい2年生の女の子が出てくるんです。そのままですが。女の子は2人組でした。・・・・・・しかし思い出せるのはそこまでです。
それにしてもなぜ「大きい」と「小さな」なのかしら。形容詞あるいは連体詞に統一しなかったのはなぜなんだろう。
「大きい1年生」だと「い」の音がつづき、「小さな2年生」にすると「な」行の音がつづくけれど、そういうことが関係あるのかな?
ま、いいや。
とにかく、わたしの記憶があまりにあいまいであるため、今回は趣向を変えて、大学時代の友人が「小学生のときに読んだ!」とのたまっていた本を紹介してみましょう!
じゃーん、そうです、あの、
指輪物語 トールキン
です。すごいですねえ。僕なんて、そんな話があるということすら大学生になるまで知りませんでしたよ。読んだのは社会人になってからです。それも1度挫折しています。友人はそれを小学4年生のときに読んだと言っていました。すごい! いまは何科か不明のお医者さんになっています。
医者になりたてのころは注射がすごく下手だったらしく、電話でよく「針が血管に入らん」とぼやいていました。
いやいや友人の恥ずかしい過去を暴露するのはやめておこう(友人というよりほんとうは先輩だし)。
ちなみに希学園の卒塾生で4年生のときにやはり指輪物語を読んでいた子がいました。その子も賢かったですねえ。その割には6年生のときに「鳥なき里のにわとり」とかトンマなまちがいをしてましたが。
あのクラスは読書家が多くて、ある女の子はやはり4年生のときに、小学4年生でありながら、島田荘司の『占星術殺人事件』を読んでいました。ご存じない方が多いと思いますが、とうていここであらすじを紹介する気になれないくらい(紹介したらクレームがきそうな予感)スプラッターな、えぐい推理小説です。
『指輪』は、読まれた方はご存じでしょうが、はじめにうじゃうじゃと長い前置きがあるんです。物語に出てくるホビットなどの種族についての説明が。それがめんどっちくて僕はつい挫折してしまったんですね。
しかし、そこを乗りこえるとあとはもうノンストップです。実に幸せな読書体験が得られるでしょう。
僕が「幸せな読書体験」というのは、まさに寝食を忘れて没頭できるような読書です。
ドストエフスキーの『白痴』を読んだときがそうでした。あのときは、万年床に寝転がったまま夜明け近くまで読み耽り、疲れ果てて本を手に眠り、目がさめるとそのまま残りを読み続けたものです。
村上春樹の『ノルウェーの森』を読んだときもそうでした。あの日のことはよく覚えています。朝から庭で(大学時代は友人たちと一軒家を借りて住んでいたので)友人に頭を丸坊主にしてもらい(煩悩を断つため)、すっきりした気持ちでその日発売された『ノルウェーの森』を買いに行ったんですね。で、帰ってきてずっと読み耽り、深更、読了。感動にうちふるえながらふと横を見ると、鏡に自分の血まみれの坊主頭が映り(ひげそりで剃ってもらったんですが傷だらけになっちゃって)、なぜか知らないがなんとなく「早まった・・・・・・!」という気持ちに。自分でもよくわからない心の動きでした。
『指輪物語』は映画化されていましたが、映画はみていません。おもしろいはずがない!と力強く確信しているので。いや、おもしろかったという方もいらっしゃると思いますが、そこは好みの問題でして。
だいたいCGという手法が気持ち悪くて嫌いなんです。特撮もあまり・・・・・・。
カンフー映画も、ワイヤーを使ったアクションになるとしらけてしまいます。
でもあれは良かったです。ウォン・カーウァイの『東邪西毒』でしたか、『楽園の瑕』とかなんとかいう邦題になっていましたが、トニー・レオンがかっこよかったですね。
よく言われることですが、原作がおもしろくて映画化されてもおもしろいものって、ほんとうにないですよね。
カズオ・イシグロの『日の名残り』という小説があります。読まれた方いらっしゃいますか?
主人公はかつてイギリス貴族の持ち物だった屋敷に仕える初老の執事です。一人称で書かれています。
回想シーンが物語の中心です。今でこそその屋敷はアメリカ人の富豪に主人公の執事ごと買い取られてしまったのですが、かつてはなかなか華やかな社交の場になっていた、と。
まあそういう過去の回想が続くわけですが、よくよく読んでいくと、主人公の語っていることがウソだとわかってきます。とはいえ、ありもしなかったでたらめなできごとをでっち上げて妄想を語っている、というわけではありません。さまざまなできごとに対する主人公の解釈がウソなんです。
ウソというより願望といった方がいいでしょうか。もっというと、主人公自身が真実から目をそむけ、自分にウソをついているのです。それが一人称の語りの中で次第次第に読者に気付かれるように書かれています。読者には気付かれるんですけど、主人公だけは気付かないんですね。そういう書き方になっています。もう絶妙!
そうやって自分にウソをつきつづけて初老をむかえ、ようやく自分の紡いだ過去の物語(過去の主人に対する評価、同僚の女性に対する自分の思いなどなど)が真実とは異なっているのではないかと気づきかけていく。そんな物語です。
すごくいい話でした~。哀しかったです。
しかし、この哀しみは映画では表現し切れていなかったように思います。映画で描かれている哀しみは、小説にあった哀しみと全然ちがう~と感じました。
ひとことでいえば、浅かったように思います。
生きていくうえでの「真実」ってなんだろう、という切実な問いかけが映画には弱かった、あるいはなかったような。そうですね。哀しさが描けていないんじゃなくて、怖さが描けていなかったのかもしれません。真実から目をそむけて生きることの怖さです。
とにかくブブーでした。(映画をみておもしろいと思われた方ごめんなさい。もし原作を読まれていなかったらぜひ読んでみてください。)
ここまで書いて読み返してみたら、もともと『指輪物語』の話でしたね。いやはや。
現5年生・6年生の人は読まないように。もはやそんな時間はきみたちにはない!
中学生になってからゆっくり読みたまえ。
ということで。
にんじん ジュール・ルナール
出た~! ついにあの『にんじん』です。
これはねえ、ひどい話なんですよ。みなさん読まれたことがありますか?
お母さんが主人公のことをものすごくいじめるんです。はんぱじゃないですよ。兄や姉のことはかわいがるのに末っ子のにんじんにだけ、これでもかこれでもかとひたすらひどい仕打ちをつづけるんです。たしかに主人公もかわいげがない子どもなんですが、それにしても実の子に「にんじん」とあだ名をつけて、スープにおしっこ入れてのませるなんて、ありですか?
いくら言っても「にんじん」のおねしょがなおらないためにそういうことをするんですが、今だったら立派な虐待ですよねえ。
一方、父親はつねに見て見ぬふりです。妻にも子どもにもあまり関心がない人なんです。
私は、このひどい話をですね、母の薦めで読みました。
小学校4年生くらいでしょうか?
母が「おもしろいから読んでごらん」と言うので、ふんふんと素直にうなずいて読みはじめたわけですが、すぐさま目が点になりましたね。
なにゆえにわしの母はわしにこの本を・・・?
な、なにか深い意味が・・・?
いや、これはきっと最後に感動的な和解があるにちがいない!
母と子の心が通じ合う涙ちょちょぎれるラストが用意されているにちがいないのだ!
ところがぎっちょんちょんですわ。
母子の心は最後までまったく通じ合いません。
父親とは少し心のふれあいらしきものが生まれますが、「にんじん」が寄宿舎に入って別々に暮らすようになってから、手紙のやりとりを通じてかろうじて、という程度です。
どうも私の母は何かかんちがいしていたみたいなんですね。ちゃんと読んでいないんだと思います。
しかしですね。それにもかかわらずです。
この本はすごくおもしろいんです!
何がおもしろいかうまく言えないんですが、何度もくりかえして読みたくなる何かがあるんです。ストーリー的には読んでいて苦しいんですが、それとはべつの魅力がたっぷりあります。
あえて言えば、「詩情」という言葉がぴったりでしょうか。文章から南仏の雰囲気が濃厚に漂ってきますね。昆虫にあまり興味がなくてもファーブルを読めばその文章世界に引き込まれてしまうのに似ています。
小学生のころうまく言葉にできないまま感じ取っていたこの本の魅力は、そういうところにあると思います。
物語のおもしろさは、ストーリーだけじゃありませんね、はい。
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