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2011年6月 9日 (木)

光年のかなた②

みなさんは「学生寮」で暮らしたことがありますか。

僕は大学の初めの2年間を教養部生専用の学生寮で過ごしました。

T北大学には学生寮がいくつかありまして、僕としては、「比較的新しい鉄筋コンクリート建てで、しかも完全個室であるM寮」に入りたかったんですが、くじ引きか何かわかりませんが選考にもれて、「築三十有余年の木造2階建てで、しかも二人部屋であるところの有朋(ゆうほう)寮」に回されました。消防署の「早く建て替えろ」という再三の勧告を無視し、大学当局の「建て替えてあげようか、鉄筋コンクリートに、プライバシーが守られる一人部屋に」という誘惑も頑強に拒んで、草茫々の敷地内に泰然として屹立する古式ゆかしい質実剛健な自治寮でした。

つまり、汚い寮でした。

隣接する中学校の先生が授業中、窓から我が三神峯(みかみね)有朋寮を見下ろし、「見たまえ諸君、まるでゴキブリホイホイのようではないか」と言ったとか。

なにい。寮がゴキブリホイホイなら、わしらはゴキブリか? 

悔しいが言い得て妙だ。

そんな寮ですから、遠くから初めてこの木造の細長い建物を望んだとき、「あれは養鶏場かな? 寮の近くに養鶏場があるのかな?」と一瞬思ってしまったのも無理からぬことです。

近づくにつれて養鶏場ではないらしいとわかってきたものの、「倉庫かな? 倉庫だよね?」という希望的観測を捨てることがなかなかできませんでした。

やがてすべてが理解され、その養鶏場のような倉庫のような時代錯誤な建物のそばにたどり着いたときには、ものを考えるのもイヤになり、「ここに2年間住むのね」という情けない諦念だけが頭の中をぐるぐるしているのでした。

しかし、そんな僕がはるか後年、寮が取り潰されたあとの更地を見て茫然自失、寂しさのあまり不覚にも落涙することになろうとは。寮とは不思議なものです。

寮にはいくつかのサークルがあり、寮生は必ずいずれかのサークルに所属することになっていました。サークルといってもいわゆるテニスサークルなどのような活動をするわけではなく、言ってみれば「班」ですね。ただ、人数を均等に割って第何班というふうに分けられるのではなく、ちゃんとサークルの特徴やメンバーを紹介した冊子を渡され、自分で所属したいサークルを選べるのです。

僕は『砂時計』という名前のサークルに所属することになりました。なぜそこを選んだかというと、入寮が遅かったため、人気のあるサークルが埋まってしまい、人気のなかった砂時計を寮委員長に勧められたからですね。要するに、僕としてはどこでも良かったわけです。

委員長といえば、入寮する際には、ちゃんと委員長による面談がありました。「この寮は学生による自治寮です」と言われたことしか覚えていませんが。そして、自治寮というのはつまり何を意味するのかということもよくわかりませんでしたが。

自治寮とはいえ、大人(つまり学生でない人)がいなかったわけではありません。

まず、公務員炊夫さんが3人いて、当番で宿直を務めてくださっていました。この炊夫さんたちのことを考えると本当に今でも頭が下がります。仙台弁で「おじんちゃん」と呼ばれていましたね。

それから、炊事の手伝いをしてくれるパートのおばんちゃんがいました。

最後に、寮内の清掃をしてくれる方がいました。雨の日なんか、何も考えていない寮生が自転車やバイクで帰ってきて、水をぽたぽた垂らしながら廊下を歩くので、この痛ましい木造建築を守るために、ひたすら油をひきまくってくださっていました。だから、寮の廊下はやけによく滑りました。

しかし、この人たち以外にいわゆる大学から派遣された寮長のような存在はおらず、寮費の管理から何からすべて寮生が運営していました。上述した寮委員長というのも寮生です。寮委員会には、委員長=BOSS、副委員長=SUB、会計幹事=GEL幹、厚生委員、あと何でしたかな、庶務みたいなのと印刷係みたいなのがいました。委員長と副委員長が同じ部屋で、あとは各委員が二人ずつ同じ部屋になります。委員会は、BOSSの名前を冠して「◎◎内閣」と呼ばれ、任期は4ヵ月でした。

僕は確か「第99期山田内閣」の厚生委員だったと思います。第98期だったかな? よく覚えていません。いずれにせよ、当時、寮は築32年だったということですね。

厚生委員の主たる仕事はトイレットペーパーの配備です。これを怠ると、深夜でも容赦なく「厚生! トレペねえぞ!」という怒声でたたき起こされます。敵は必死でお尻をおさえ便意をこらえながら厚生委員の部屋まで怒鳴り込みに来ている状態ですから、相当真剣に怒っています。したがって口ごたえは許されません。僕はうっかり者で忘れん坊なので、よく怒鳴られました。

寮生(尻をおさえながら)「ふざけんなよ、西川、てめえこの前も忘れてただろう!」

ぼく(目をこすりながら)「そういうきみはこの前も夜中にうんちに行ってたねえ」

などという牧歌的な場面がよく展開されていました。懐かしいなあ。

トイレットペーパーの備蓄がなくなると大学の本部にもらいに行きます。巨大な段ボール箱につまったトイレットペーパーを運ぶので、このときだけはタクシーに乗ってもよいということになっていました。もちろんトイレットペーパーをゲットした帰りだけです。領収書をもらって、ゲル幹のところに持っていくと、お金をわたしてくれるのです。

ゲル幹というのはかなりしっかりしていました。なんせ膨大な額の寮費の管理をしていましたから、有能でないと務まりません。任期の終わりにはちゃんと会計監査が入るのです。監査役ももちろん寮生です。1期前のゲル幹と2期前のゲル幹、合わせて4人が監査をするのですが、これが大仕事です。2晩ぐらいやってたんじゃないかな。へとへとになってました。

厚生委員時代、よく隣のゲル幹部屋に遊びに行きました。どの部屋も基本的に鍵らしい鍵はついていないのですが(下手につけようものなら破壊される)、ゲル幹の部屋だけ立派な鍵がついていました。

なぜなら大きな金庫があったからです。ゲル幹が金庫を開けるときは、必ず部屋から追い出されるので、中を見たことはありませんでしたが、どうも500万ぐらいはあったらしいです。

「万が一、寮が火事になったらどうするか?」

先輩が、ゲル幹の心得を教えてくれたことがあります。

「壁を破壊して金庫を外に放り出すんだ。こんな薄い壁すぐに壊れるからな。」

なんせ油をひきまくっている木造建築ですから、火がついたら、3分程度で燃えつきるだろうと言われていました。重たい金庫を持ち出す暇はない、ということですね。それにしても、そんなすぐに壊れる壁で大丈夫なのか? 鍵をつけても意味ないのでは?

「こんな汚い寮のこんな汚い部屋に500万あるなんて、誰も思わないだろ?」

まあ、そのとおりなんですが、さてそれでは、そんな汚い寮の汚い部屋にどうしてそれほどの大金がうなっていたのか?

実は、寮って、泊まれるんですよね。すごく安く。

もちろんふとんは煎餅だし、汚い大部屋ですが、一応泊まれるんです。で、相当昔に、がんがん他の大学生を泊まらせて儲けたらしいんです。当時の厚生委員で、後にT北大学の教授になった人が、そう自慢していたそうです。

が、僕が厚生委員になった頃には、そのようなことは全然ありませんでした。厚生委員の仕事はトレペの配備。あと、クリーニングの受付というのもありましたが、すでに有名無実化しつつありました。

それでも厚生委員になったときに業者の人から「これでジュースでも飲んでよ」と500円わたされ、激しく思い悩んだ記憶があります。

「これがあの有名なリベート・・・・・・」

こうして人は穢れていくのか、と本気で考えて悶々としました。

あの500円はどこにいったのかなあ? しばらく机の引き出しにしまっていたんだけど、たぶん極貧に陥ったときにつかっちゃったにちがいない。

そうやって僕は穢れてしまったんですね(>_<)

          つづく。

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