« 栄光の文化ゼミナール~光年のかなた⑦~ | メイン | 終電車の風景 »

2011年10月20日 (木)

最後まであざとく

だじゃれは「駄」なのだから、おもしろくないものと相場が決まっているのですが、それでもたまにクスッとしてしまうことがあります。「一点の差ですって? なに言ってんのさ」は、書かれているのを見ても気がつきません。聞いた瞬間もすぐにはわからないのですが、気がつくとなんかおかしいですね。「ふとんがふっとんだ」「コーディネートはこうでねえと」と、どこがちがうのでしょうか。音が似ているだけで全く別のものを結びつけるところがポイントになるので、当然意外性がなければなりません。かといって、ナチュラルでないと、あざとさが前面に出てきてしまうのでしょう。「あなたはキリストですか」「イエース」、「百円玉食うてみい」「ヒャー、食えん」はやはりナチュラルです。

「あざといですよ」ということを強調すれば逆にまたおもしろくなってくるのも不思議です。「エッグは『なにご』や」「英語やろ」「たまごや」「……」「ストロベリーはなにごや」「いちご?」「英語や」「……」「コーヒーはなにごや」「英語? ひょっとしてアラビア語?」「コーヒーはしょくごや」。ここまで重ねれば笑えますが、これはだじゃれそのものではなく、「繰り返しによる笑い」「裏をかくことによる笑い」の可能性があります。いずれにせよ、音のぶつかりあいが、だじゃれであり、私たちは意味の病にかかっているために、ときとして、だじゃれによって、新鮮な発見をすることがあるのかもしれません。まさに「かっぱかっぱらった」の詩ですね。

「汚職事件」が「お食事券」に聞こえるのに気づくと、なぜか感心してしまいます。だじゃれのつもりでなくても、そう聞こえるようなことがあるのですね。「北海道といえば、おなじみ大泉…」と書かれていれば、「ああ大泉洋ね」と思うのですが、ラジオなどで耳で聞いているだけだと「ああ、アンビシャスね」と思ってしまうのは「ナチュラル」ですよね。「『おーい、お茶』って、反対は『少ないお茶』か」と思ってしまうのも同様です。「教皇選挙」の「コンクラーヴェ」は、ほとんどすべての人が「根くらべ」を連想したはずです。

糸井重里がやっている「言いまつがい」も、そんな風に言い間違える「フロイト的」理由があるのでしょうが、けっこう笑えます。「スパゲティカルボナーラ」を「スパゲティボラギノール」と言ってしまうのは、「カルボナーラ」はなんだかよくわからないことばなので、言うことに自信がないのでしょう。無意識のうちに、音が似ていて、しかも知っていることば(しかし意味はやはりよくわからない)「ボラギノール」と言ってしまうのだろうと推測するのですが、如何。「赤ワインには、ボラギノールがはいってて、体にええらしいで」というのは、知ったかぶりをしたいのですが、如何せん知識が伴わない。ポリフェノールとボラギノールは音としてもかなり似ているので、この「言いまつがい」は納得できます。「うちの孫、アメリカにホームレスしてまんねん」というお婆さんは、「ホームステイ」より「ホームレス」のほうが身近なことばなのでしょう。遊んでいる子供たちにお母ちゃんが「おまえたちはいいね、毎日がエブリデイで」と言うのは、なにの「言いまつがい」なのでしょうか。でも、言いたいことはなんとなくわかるのが不思議です。

二つの連続する単語や文節で、音が交換されることもありますね。「てっこんキンクリート」や「あつはなついなあ」と言ってしまうやつです。「おかあちゃん、風呂はいるからパツとシャンツ用意しといて」「はいこれ、パツとシャンツ」二人とも気がついていないことがあります。国会の答弁で「補正予算」が「よせいほさん」となってても、だれも気づきません。「クロネコヤマト」を「ヤマネコトマト」と言ってしまうのは、後半の「ヤマ」を前に持ってきたために消えてしまった分を、なんとか帳尻を合わせようという心理が働いて、後半にも実際に存在することばを続けてしまうのでしょうかね。

書き間違いというか、パソコンの変換ミスもよくあります。「汚職事件」が「お食事券」に勝手に変換されてしまっても、夢中になってキーをたたいていると気づきません。さすがに最近はパソコンもかしこくなって、「茹で卵」が「茹でた孫」になったり、「フランス料理」が「腐乱す料理」になったり、「取引先」が「鳥引き裂き」になったりするような、むちゃくちゃな変換はしなくなっているようですが。消去したり書き足したりしながら編集していくために、意外に脱字も多いようです。「学園長杯争奪テスト大会」だからよいのであって、「学園長争奪テスト大会」ではだめでしょ。そんなもの争奪したくありません。ところが不思議なことに申込用紙にそういう風に書いてあっても気づかない人が多いことも事実です。逆に脱字どころか、余分な字があっても気づきません。申込用紙の下の方に点線があって、そこに「キリトリマセン」と書かれていると思わず切り取ってしまいます。一行の最後の方に「そんなことはありま」とあれば、次の行に「ん。」と書いてあっても「そんなことはありません」と読んでしまっています。つまり、書いてあるものが見えず、書いていないものか見えるのですね。

脳というのは、いいかげんでもあり、すごいとも言えます。ないものをあると見なしたり、あるものを見ないふりができたり、場合によっては自分自身で信じ込んでしまうというのは、機械にはできないことです。それを利用したトリックアートなどもよく見ます。ということは、脳はだまされやすいということでもあるわけで、こんなふうに、人間というものは「思い込み」で勝手に決めつけていることが多いのです。ですから読解の文章や設問を読むときも思い込みは禁物ですね……と、強引に「国語」に結びつける落ちは、どういうものでしょうか。「あざとさ」が過ぎますね。しかし、この文章の最後の段落を読みかけた瞬間、こういう結びになりそうだと予感した人はいなかったでしょうか。そういう人も「思い込み」をしていたのかも……。

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク