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2012年1月24日 (火)

点と線、と面

もうどなたも覚えていらっしゃらないにちがいない前回の予告にもかかわらず、ずるずると遅くなってしまいました。

「年末ぐらいには、いっちょ書きためておいた文章をババーンと掲載するか!」などと思っていたのですが、年末は入試対策第Ⅱ期の準備でなんだか落ち着かず、「しかたない、年が明けたら年始の挨拶をかねていっちょババーンと」と考え直したものの、正月はプレ入試の嵐が吹き荒れて慌ただしく・・・・・・というわけでずるずるしているうちにあまりにも入試が近くなり、のほほんとした緊張感のない文章を載せるのは気まずいなあと思って、さらに先延ばしにしてしまいました。

さて、入試はまだ完全には終わっていませんが(首都圏はこれからだし、関西もまだ続いています)、一応、一段落ついた感じにはなっています。

しかし、あれですね、僕が小学生のときに比べるとみんなすごく賢いし頑張り屋ですね。ほんとにえらいです。「何も小学生のうちからそんなに勉強させなくても、小学生はもっと遊ばせなきゃ・・・・・・」なんて言う人も世の中にはいるみたいですが、よく考えたら、十歳ぐらいの子が遊び惚けていたのなんて、昭和三十年代からこっちの話で、江戸時代の武士の子だって、町人の子だって、お百姓の子だって、結構いろいろ頑張っていたんじゃないですかね。「鉄は熱いうちに打て!」ですね!

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さて、それではだいぶ前に書いた文章ですが、どうしようもなくひまでひまでたまらないという人(そんな人はいないかもしれませんが)の暇つぶし用にどうぞ。

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以前にも書きましたが、僕はよく歩きます。のんびり散歩する風情ではなく、すたすたと歩くんですが、「脇目もふらず」ってことでもないんですよね。きょろきょろよそ見しながらすたすた歩くのです。

で、あるとき(だいぶ前の話ですが)、歩きながら、どうしてこんなに歩くんだろうなあと考えてみました。まず、僕が歩くのはどういうところかというと、基本的には駅間です。

たとえば、十三~淡路とか、茨木~正雀とか、烏丸~丹波橋、烏丸~桂、谷九~十三、谷九~北巽、西宮北口~JR芦屋などなど。

運動になるからという理由もあるんですが、いちばんのおもしろさは、点と点がつながって線になる感覚が好きってことだと思うんです。

たとえば、谷九から梅田まで地下鉄に乗るとしますよね。烏丸から桂でも、十三から淡路でも同じことですが、そうすると、電車に乗って、谷九という点から梅田という点まで、ぽんと跳んでしまうという感覚に近くなります。ある「点」から、次の「点」に、なんだか知らないけどぽんと着いてしまったって感じです。地下鉄だと特にそういう印象が強くなります。

でも、谷九からてくてくと歩いて梅田まで行くと、点と点を線で結んだという感覚ができるんですね。そういう空間感覚ができあがっていくのが好きなんです。

大学時代、長い休みに帰省するときはいつも各駅停車でした。仙台を始発でたつと、大阪には23時頃到着します。18時間弱電車に乗っているわけで尻が痛くてちょっとつらいんですが、このときもやっぱり、飛行機や新幹線に比べると、各駅停車の方が「線」が引けるような気がして好きでした。

ただ、このときはむしろ「鈍行でもいつのまにやら着いてしまうものなんだなあ」という不思議感の方が強かったかな。

7年半におよぶ学生&プータロー生活を終えたとき、原チャリで仙台から帰阪したんですが、これも楽しかったですねえ。ものすごく「線」でした。国道6号線で水戸まで走って一泊、翌日は東京に出て友人の家に二泊、で、1号線で一気に関ヶ原まで走り、駅の建物にもたれて一泊、次の日午前中に大阪まで戻りました。日焼けと排気ガスで全身が真っ黒になるし、1号線で長大なトラックに嫌がらせをされて怖かったし、1時間半おきにエンジンをやすませて道ばたで本読んだりして、なかなか大変でしたが、いい思い出です。またああいうことしてみたいな。

山登りも、ピークからピークへとテントをかついで歩く「縦走」というスタイルが好きなんですが、これもきっと同じことなんでしょうね。

点と点がつながって「線」ができてくると、今度は「面」です。

谷九から梅田まで歩くルートも一通りではありません。はじめはわかりやすい大通りを歩きますが、二度三度と通ると飽きてきます。そうすると今度はひたすら路地探訪ですね。路地から路地へとうろついていると、「線」が「面」に近づいていくような気がします。

さて。さらに考えてみました。

これって、この感覚って、文章を読むときの感覚に近いなあと思ったんです。

国語指導に関する話の中で「文脈を理解する」なんていう表現がよく用いられますが、文章を読みながら文脈を意識するというのは、まさに「点」がつながって「線」ができていく感じなんですね。

「伏線」という概念が端的でわかりやすいでしょうか。たとえば推理小説なんかで、登場人物のひとりが何気なくもらした一言が謎解きの鍵になっているみたいなことがありますが、あの「つながった」感じが、「文脈」というものの最も単純明快なかたちだと思います。

さて、論説的な文章を読むときに僕がよく子どもたちに注意するのは、はじめの1~3段落ぐらいを慎重に読みなさいということです。

論説的な文章では結論や主張が最後の段落に書かれていることが多いから、後ろの方が重要だという考え方もあり、もちろんそれはそれでまちがいというわけではないのですが、文章を読むうえで最も大事にしないといけないのは、実は冒頭の1~3段落ぐらい(だいたいの目安)です。

だいたいそのぐらい読めば、文章の方向性みたいなものが見えてきます。たとえば、ああ、この文章は読書について書いているな、「読書は素晴らしい」的な内容だな、みたいなことがわかります。僕はそれをその文章の「核心」と呼んでいます。

文章の続きは、この「核心」と関連づけながら読めばいいわけです。ただ、この「関連づけ」の仕方にも練習が必要です。

上述の例でいえば、

1 対比:「読書」と「テレビ」を比べてそのちがいを述べているところ

2 類比:「読書」と「旅」を重ね合わせて、共通点を浮き彫りにしているところ

3 因果関係:「読書」をするとどんな良いことがあるのかが書かれているところ

4 反復:「読書」の良さについて表現を変えてくり返しているところ

5 並列:「読書」の良さについていくつか列挙しているところ

といったあたりが、「核心と関連づけられるところ」ということになり、設問もこれら1~5のいずれかにからむようなものが多く出題されます。こうした「核心と結びつくさまざまな内容」について幅広く把握できている状態が、点から線、そして面へと視野が広がっている状態と言えるんじゃないかと思います。

いわゆる国語の得意な子というのは、今述べたようなことが「なんとなく」できてしまっている子ですが、こういう読み方をみんなができるようにするため、正しいトレーニングをくり返させ、コーチしていくのが我々国語講師の仕事ということになります。

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もうすぐ2011年度が終わって2012年度がはじまります。

新小6・新小5・新小4・新小3のみなさん、がんばりましょね。

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