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2012年4月18日 (水)

ブロッケン現象

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上の写真をご覧ください。

写真中央に人の影(私)があり、まわりにうっすらと虹の輪ができているのが、おわかりでしょうか。

カメラマン(私)がへぼであるために大変わかりにくくて恐縮ですが、実はこれこそあの有名な「ブロッケン現象」です。

ブロッケン現象という言葉は小学生のときから知っていたものの、それがどういうものかよく知らなかったため、このときはこれがブロッケン現象であると気づかず、「おお、おれのまわりに虹が・・・! お、おれ降臨?」などとうろたえてしまった私ですが、得意の早合点でした。

さらに恥を忍んで打ち明ければ、何もかもがあやふやでうろ覚えの私は、この文章を書くにあたって「ブロッケン現象」という言葉が出てこず(ど忘れです、ど忘れ)、「ドッペルゲンガーだったっけ?」などと首をひねっていたのでした。尊崇する師匠であるY田M平先生(ほめほめ)に写真を見せると、「おやブロッケン現象ですね」と言ってくれたので、ああそうだった、危なかった~と、先ほど胸をなでおろしたところであります。

この写真は、後立山連峰(鹿島槍ヶ岳や白馬岳があるところ)を縦走中に撮影したものです。尾根の東側は雲ひとつなく、西側には濛々とガスが立ちこめているという不思議な光景のなかを歩いていて、ふと気づきました。

美的センスがないので、山登りをしてたくさん写真を撮ってきても、あまり人に見せられるようなものは残っていません。この写真の直前に撮影したのは、あまり美しくない、大きなクマの糞です。大きさがわかるようにわざわざ横に携帯電話を置いて撮影したんですが、当然のごとく誰も見たがらないので、お蔵入りです。

山登りをしていると、素人カメラマンのおじさんがたくさんいますね。私の叔父にも素人カメラマンがおり、よく美しい花や風景を撮っているようです。雑誌に投稿して掲載されたりするとうれしいみたいですね。

きっとそういうのも楽しいんだろうなあと思いますが、自分ではそういうことをしたいとはあまり思いません。

荒木経惟さんという写真家がいらっしゃいますよね。サリーちゃんのパパみたいな髪型の人。あの人が使い捨てカメラで撮った写真を見たことがあります。それも、電車の中から、駅でドアが開いたときに撮った写真ばかりなんですが、それを見たときにはほんとうにびっくりしました。当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが、どれもこれもめちゃくちゃかっこいいんですよね。そうか、素人カメラマンは美しい被写体をさがしてそれを美しく撮るけれど、プロってそうじゃないんだなと思いました。

何という人か名前は忘れましたが、生花のコンクールで賞をとった人の作品を見たときもほんとうにびっくりしました。腐りかけの花を生けてたんです。そうか、きれいな花をきれいに生けるだけじゃないんだなと思って。

そういうの見たら、「美しい」写真を撮ろうという気力が湧いてこなくなりました。だいたいカメラって高いし。重いし。テントと寝袋と水だけでもたいがい重いのに。

もうひとつ、理由があります。

写真を撮ることに夢中になると、「そこにいる」ことに集中できない気がするというのが理由その2です。山に登って、美しい風景を見たり頂上にたどり着いたりすると、それはもちろんうれしいんですが、僕にとってはそれがいちばんのポイントというわけではありません。僕の最大の幸福は、山のなかにいるぅ~と感じていることです。写真を撮るということは、その場所から自分を引き離して、風景を対象化してしまうようなところがあり、「そこにいる」ことの幸福感がそのぶんだけ薄れてしまうような気がします。

ひとりで山に登るのが好きなのは、ひとりきりの方が「そこにいる」ことの幸福感が強くなるからです。「孤独な幸福」とでもいえばいいでしょうか。

山登りの記憶をたどっているとき、見たはずのない光景が頭にうかぶということがあります。記憶が変質しているとかあやふやだとかいうことではなく、原理的に見ることのできないはずの映像が記憶として残っているのです。「山の中にいる自分」の映像です。これは僕がけっして見なかったはずの光景なんですが、なぜかそういう光景が想起されてしまうんです。

これは山登りに限ったことではありません。記憶をたどるときそういうことが頻繁にあります。みなさんはそういうことはありませんか? よ~く考えたらあるんじゃないかなあ、僕だけじゃないんじゃないかなあと思うんですが、まあ、押しつけがましく「みんなあるはずだ」などと言うのはやめておきましょう。

この「まちがった記憶」はなぜ生じたんでしょう?

わたしの視覚的記憶力があまり優秀でないことがまず挙げられるのではないかと思います。見たものを、見たままに記憶することがひどく苦手です。言葉を介して記憶したことがらでないと、すぐに忘れてしまいます。山にいて幸福感が満ちあふれているときに、僕は「ああ、山にいるぅ」と言葉で思い、目をとじて、山にいる自分の幸福そうな姿を漠然と思いうかべてしまいます。これがポイントですね。このとき僕の頭の中にひろがっている風景は、目を閉じるまえに見えていた風景ではなく、勝手に再構成された、さっきまで見ていた風景の中に自分がいる風景なんです。たぶん、こっちの記憶が残ってしまうんですね。言葉とセットになっているから。

やはり僕は言葉の人なのだ。残念ながら、詩人や小説家になれるほど堪能なわけではありませんが。

言葉の使い方がおかしかったり、一方の(あるいは双方の)理解度が低かったりするために、誤解が生じて、ものごとが円滑に進まなくなっているような現場に居合わせると、よく思います。

みんな国語という教科を大事にしようよ! 読解力をつけようぜ!

きみたちみんなの読解力と表現力が向上すれば、その問題は即解決するぜ!

ま、もちろん、僕の読解力と表現力が不十分なためにまずいことになっていることもあります。

というわけで、日々、教えつつ学ぶわたしでした。(というように「僕」と「わたし」を混在させているのも、一般的にはあまり推奨されない書き方ですね。)

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