« 頭がすっきりする本 | メイン | リオデジャネイロは東京弁 »

2012年5月16日 (水)

読書の話~頭がすっきりする本②

前回、「頭がすっきりする本はないかしら」という話題から、「対話形式で物を考える」という話題を経由し、「対話」について書かれたバフチンの本を読むぞ~と思いついて話が終わりました。

そのとき、グールドの『人間の測りまちがい』を再読していたので、これを読み終わったらバフチンの本を読もうといったんは決めたんですが、結局、せっかちな私は、グールドをうっちゃって、さっそくバフチンの『小説の言葉』にとりかかりました。で、本日の昼過ぎ、阪急電車京都線準急の中で読了しました。

この本は確か10年~15年ぐらい前(ひょっとするともっと前かも)に1度読んだことがあり、そのときからバフチンの言う『対話』という概念は引っかかっていたんです(良い意味で)。で、折にふれて考えようと胸に刻んだまま幾星霜、いつのまにやらほとんど忘れかけていた頃に、あらためて、考えたいテーマとして前景化したといいますか、浮上したわけです。

『国語まにあっくす』なので、少しだけマニアックな話をしますと、バフチンが「対話的」と呼ぶのは、登場人物同士の会話に限られません。たとえば、次のような文も「対話的」ととらえます。

「しかしタイト・バーナクル氏は、いつもボタンをきちんとかけていた、また、そうであるがゆえに重鎮であった。」(ディッケンズ『リトル・ドリット』 訳;伊東一郎)

なぜこれが「対話的」な表現といえるのか、バフチンは次のように説明します。

「そこには実際には二つの言表、二つの言葉遣い・・・・・・意味と価値評価の二つの視野が混ぜ合わされている」

「全く同一の言葉が・・・・・・二つの視野に同時に属し、従って矛盾しあう二つの意味、二つのアクセントを有することさえしばしばある」

上のディッケンズの例にあてはめると、まず、「バーナクル氏は、いつもボタンをきちんとかけていた」という部分には何の問題もありません。ところが、その続き、「そうであるがゆえに重鎮であった」という部分には、ある特殊な(変な、という意味ではありません)物の見方が表れています。この物の見方(ボタンをきちんとかけている人は重鎮である)は、一般世論=一般的で卑俗な通念にのっとった物の見方になっています。作者は、形式的には、この物の見方に同調するような書き方をしていますが、実際のところは、この「そうであるがゆえに重鎮であった」という表現からは「皮肉な」調子が読み取れます。つまり、一般世論とは異なる作者独自の見方が織り込まれているわけです。ここでは、作者の見解は「直線的」には述べられず、他者の言葉の中にまぎれこむように、いわば「屈折」されたかたちでにじみ出ています。ものすごく簡単に言うと、こういうこともふくめて、バフチンは「対話的」と呼んでいるわけです。

おもしろい! ・・・・・・ですよね?

バフチンは小説の文体論としてこの書物を著したわけですが、この「対話的」という概念の射程はもっと広いんじゃないかと僕は思います。論説的な随筆を理解するうえでもこの考え方は援用できるだろうと思うんですね。むしろ、そういったジャンルの文体なども全部ふまえて小説の文体が成立しているという話なので、論説的な文章にこの考え方があてはめられるのは当たり前といえば当たり前なんですが。

さて、この『小説の言葉』の中に、「論争的、弁明的」という言葉がくり返し出てきました。それで、なるほどと思ったんですが、どうも僕は「論争的・弁明的」に書かれた文章を読むと、(頭が冴えるかどうかは別として)、人と話をするときの受け答えが少し変わるような気がします。気のせいかもしれませんが、ちょっとだけ切れ味がよくなるような・・・・・・。どんな本が頭がすっきりするかというのはあまりはっきりしませんが、少なくとも、論争的・弁明的な意図が強く出た文章を読むと、受け答えという点での変化はある気がしますね。

ただ、本の話を離れて、ふだんから対話的に考えるということの効用を考えると、受け答えのときの切れ味だけに関わるわけではないような気がします。

対話的に考えることは、「他者の視線を内在化する」ことにつながると思います。

たとえば、記述ゼミナールの授業で演習をしますよね。子どもたちに記述問題をあたえてテキストに答えを書きこませます。そのときに「自分の答えをよく見直して、誤字脱字がないか確認しなはれ」と指示を出します。子どもたちはへいへいとうなずいて取り組むわけですが、机間巡視していると、実に誤字脱字が多い。見直しをしていないかというとそうでもない。もちろん見直しをさぼっている子もいますが、見直しをしていてなおかつ発見できない子がたくさんいるんですね。おもしろいのは、単に見直しをしたときと、僕に横に立たれて見直しをしたときでは、誤字脱字の発見率が変わってくることです。僕が横にいて答案を見ているとき、その見られているという意識の中で見直しをした子どもの誤字脱字発見率は上がります。

これは「直線的な」見直しではなく、意識において、「屈折した=他者の視線を経由した」見直しになっているからではないかと思います。誤字脱字に限らず、「この答えをあのこうるさい先生が見たらどんないちゃもんをつけよるやろ」と考えることはとても重要だと思います。講師の視野・講師の考え方をどの程度内在化できるか、学ぶことにおいてこれはとても大きいんじゃないでしょうか。

余談ですが、この本は私が買ったときには2800円だったのに、今じゃ平凡社ライブラリーから出版されていて、1200円ぐらいなんです。 まさかこの本が新書で出るなんて。新書になる前に1度読んでいるからよかったですが、高く買った本が、1度も読まないままに文庫化されたりするとショックで倒れそうです。最近、まさかと思うような本が文庫化されているので、年に数回倒れそうになります。

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク