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2012年6月13日 (水)

おっす、おら宇宙人

塾の生徒たちにテキストの文章を音読させるとなかなかおもしろいことが起こります。コテコテの大阪風になる者もいますし、たまにきれいな共通語イントネーションで読める者もいます。でも、ほとんどが微妙に関西なまりなんですね。私自身もそうです。NHKのアナウンサーのような読み方ではなく、「橋の端を箸を持って走った」と読むときには、大阪弁になっとりまんな。日本全国均一化していく中でやはり方言の要素は残っていくのでしょうね。

テレビで『ブリンセストヨトミ』をやってましたが、あの中の大阪弁はなかなかつらいものがありました。原作の設定を変えてまでも綾瀬はるかを出したかったようですが、それ以外は大阪が舞台なら大阪出身の俳優をキャスティングすればよいのに、あえてそうではない人ばっかり出してきたのは何が狙いだったのでしょうか。西宮出身の堤真一を使いながらも、大阪をきらって飛び出したという役なので関西弁ではありませんでした。そのくせ、必然性のない部分でなぜかときどき関西なまりになっています。大阪を捨てきれない心の奥底を微妙に表した演出やね、と思っていたら、綾瀬はるかまで、関西訛りになってしまったところがありました。あれは何だったのでしょうか。中井貴一などはましなほうですが、みんな妙なイントネーションのえせ大阪弁を話す中で、綾瀬はるかも影響を受けてしまったのか。関西弁の威力、おそるべし。同じころに『阪急電車』もやってましたが、こちらのほうは関西出身の人が多かったせいで違和感がありませんでした。中谷美紀は開き直って関西弁を使っていないし、宮本信子は関西出身ではないのに、西宮の芦田愛菜を相手に上品な感じで抵抗なしでした(ただ、映画そのものは途中でギブアップしてしまいましたが)。

関西を舞台にしたドラマに関西人をなぜ使わないのか。関西人でなければ、あの「気色悪さ」はわからないのでしょうね。とはいうものの、リアルすぎる方言では通じなくなります。純正鹿児島弁のドラマは字幕なしでは理解できません(大河ドラマの『翔ぶが如く』では、やってたような)。時代劇にしても同じことが言えます。どの地方の農民も、「もうがまんなんねえだ、おらたち一揆やるだ」という言い方をします。これは方言ではなく、江戸時代の農民だったら、こんな感じ?という「役割語」です。江戸時代の、しかもその地方のことば通りにしなければならないとなったら、脚本家はお手上げでしょう。ある程度それらしく言えば、まあいいかと許せます。武士は「かたじけのうござる」「しからばこれにておいとまつかまつる」とか言ってほしいのに、いくら暴れん坊将軍でも「ワイルドだぜぇ」と言ってたら、どっちらけです。大河コントの『江』は、志村けんの「そのほう、年はいくつじゃ」はいつ出るの、というレベルだったので最後まで見ずに「脱落」したのですが、中身は着物を着ている現代ドラマで、台詞もそんな感じだったような気がします。「うっそー、お姉ちゃんたら、だっさーい」みたいな。西川先生推奨の『平清盛』も、平安末期のことばをそのまま使い、当時の発音でリアルにやるべきだと言われたら、作るほうも見るほうも困ってしまいます。

でも、この『平清盛』、じつはけっこうおもしろいのですけどね。ところどころ『ちりとてちん』のノリが出てきてマンガになるところがあざといのですが、オウムやサルの使い方など、ちょっとした細かい部分で笑えるところもあって、じっくり見るとなかなかのものです。「青墓」という土地の描き方や、「こ○き」発言など、NHKらしからぬ大胆さもあって、伝統的大河ドラマとはひと味ちがいます。戦場にゆく男たちではなく、家に残る女性の視点で描こうとした「太閤記」もかつてありましたが、『平清盛』では、武将の家庭人としての側面やどろどろした人間関係の描写に力を入れています。そのあたり、ちょっとかったるい面もありますが、ドラマとしては悪くありません。視聴率が低いのは、派手な合戦シーンや単純明快なヒーローを求める人が多いのかなあ。親子関係のことでチマチマなやむ、粘着質なシーンなんて見たくないのでしょう。「リアルすぎて伝わらない」というところでしょうか。とんねるずの「こまかすぎて伝わらないモノマネ」というのはすごくおもしろいのでわたしは好きなのですが、関係ありませんね。

予想もしないことを見せられる感動というのもあるのですが、逆に期待しているものを見たいという気持ちもあります。吉本新喜劇など、全編それです。また、これはこういうものだという思い込みを裏切られると不愉快になります。大河ドラマはこういう描き方をするものだという思い込みがわれわれにはあるのでしょう。アメリカの映画に出てくる宇宙人はなぜか英語で話します。日本に来た場合は、なぜか日本語で「われわれは宇宙人だ」と言います。なぜ「われわれ」なのでしょう。「わたしたちは」でも「おれたちゃ」「拙者どもは」ではなく、なぜか「われわれ」です。一人で来た場合は、どう言うんでしょうね? たぶん、この手の映画のいちばんはじめのものが「われわれは…」だったのでしょう。最初にやったものが踏襲され、これはこういうものだと思われるのです。そんな「思い込み」のあるものを途中で変えるのは勇気がいります。実は、根拠のあるものではなく、単に踏襲しているだけにすぎないものであっても、途中で変えると、そのことを知らない人に批判されたりします。

古い映画では江戸時代の既婚女性はお歯黒をしていましたが、今のテレビでお歯黒を見ることはありません。途中で変わったわけですが、おそらく変だと思った人も多かったでしょう。ところが、今またお歯黒にもどすと「気色悪ーい」とか言って批判する人が確実にいるはずです。江戸時代までは手と足を交互に出すのではなく、右手右足を同時に出す「なんば歩き」をしていたはずだから、と言ってそういうふうに歩き出したらどうでしょう。すごく違和感があります。ゲームやマンガでの織田信長の南蛮風のスタイルも今では定番になりましたが、たしか黒澤明の『影武者』でやったのが初めてだったような気がします。えー、ほんまかいな、と思うようなことでも「世界の黒澤」なら許されるのです。なまこを最初に食ったやつがえらいように、最初にやったやつがえらいのですな。卵も最初に立てたやつつはえらいのですが、それはなんの役に立つ?

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