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2013年3月22日 (金)

彼は死んだこと

忠臣蔵は何度も映画化されていますが、東映の忠臣蔵の映画で浅野内匠頭を介錯した武士を演じた人のお子さんが、その昔塾生で来られていました。お子さんをお迎えにくるときのお父さんはさすがに芸能人らしく「カッコイイ」印象でしたが、お話しさせていただくと、実に謙虚な感じで、すばらしいお父さんでした。某野球監督のお子さんも塾生として来られていましたが、本人は実は野球よりサッカーが好きとか言うとりましたな。有名人の子供だけではなく、来ていた本人が将来有名人になるということは十分にありえます。各方面で活躍してくれることを期待していますが、東大に行った教え子の某くん、数学者になって本を出したそうです。『4次元以上の空間がなんちゃらかんちゃら』というトポロジーを扱ったものを私のところに送ってきよりました。そんな意味不明の本を送られて、私はどうしたらよいのでしょう。困ったものです。古本市場に持って行ってたたき売ろうとしたら、表紙の裏に「山下先生へ」という献辞があって売ることができませんでした。残念です。

有名小説家の子供や孫で芸能界で活躍するケースもありますね。芥川比呂志は芥川龍之介の友人菊池寛から名前をもらっています。緒形拳が弁慶をやった大河『源義経』では頼朝をやっていました。『春の坂道』の柳生石舟斎はきっと本人はこんなんやったやろなという感じで、印象に残っています。弟の也寸志は作曲家ですね。森雅之は有島武郎の息子で、黒澤明の映画によく出ていました。坪内ミキ子は坪内逍遙の孫だとか。国木田独歩の孫で国木田アコという人もいました。檀ふみと阿川佐和子はそれぞれ檀一雄、阿川弘之の娘で、いっしょにCMに出たりしていましたな。高見恭子は高見順の娘です。吉行和子は吉行エイスケの娘で、兄が吉行淳之介、妹が吉行理恵、母親のあぐりさんをモデルにしたNHK朝ドラもありました。飯星景子は『仁義なき戦い』の飯干晃一、桐島かれんは桐島洋子の娘だし、山村紅葉が山村美紗の娘であることはあまりにも有名。石原良純は作家の息子と言うべきか、政治家の息子と言うべきか。後者なら小泉孝太郎やDAIGOと同じ範疇になってしまいます。夏目房之介はよくテレビにも出ていましたが、芸能人ではないですね。

こういうのは遺伝なのか、家庭環境なのか。作家は自分の思いを書きことばで表現するわけで、孤独な作業です。一方、俳優は他者になりきって、人前で演じ、他の役者と協力して作り上げていく作業なので、両者はちがうといえばちがいます。でも、なんらかのパフォーマンスという点では同じです。ひょっとしたら、作家は才能さえあれば人前で演じたいという気持ちが心の底にあるのかもしれません。むかしは文士劇というのもありましたし。三島由紀夫でさえ映画に出ています。司馬遼太郎原作で岡田以蔵を勝新太郎が演じたものですが、薩摩の田中新兵衛の役で腹を切り、次の年じっさいに割腹自殺を遂げました。作家の中にも俳優の中にもナルシズムのようなものがあって共通しているのかもしれません。そうであるなら、遺伝子の影響もありそうですが、親の作品が映画化されたりして、芸能界とのつながりがあると、小さいころから、そういう世界に対する関心が生まれる可能性もあります。もしそうなら、環境のせいでしょう。両方の要素が結びついているとも考えられます。

国語ができるかどうかは遺伝子もあるかもしれませんが、家庭環境が大きいような気がします。親が国語的なことに関心があれば、自然に子どもも関心を持つようになりそうです。たとえば、ことば数とか常識に関しては親の影響が強いであろうことは容易に想像できます。ことばのもつ微妙なニュアンスを親が使い分けていれば、子どももだんだん気づいてくるでしょう。「興味」と「関心」はどうちがうか、と言われても説明はなかなかできません。「私は国語に関心がある」と「私は国語に興味がある」は同意でしょう。でも、母親が子どもの成績表を見てカリカリきているのに、父親がのんきにテレビで阪神戦を見ていたら、「あんた、子どものことに関心ないの?」と言うはずです。ここでは「興味」はなんか変です。「興」に「おもしろがる」というニュアンスがあるからでしょう。

最近読んだ小説で、妙に落ち着かない感じのものがありました。話の運びが唐突すぎることもあったのですが、たとえば「大学四年の頃に卒業旅行と称して、五島列島を訪ねたときの話をしてくれた」なんて表現が随所に出てくるんですね。「称して」とわざわざ言っているのだから、ほんとうは卒業旅行ではなかったんだな、と思ってその先を読み進んでも、どう見てもふつうの卒業旅行のようです。「称する」というのは、明らかにうその場合にも使います。「病気と称して休む」のように。うそでない場合は、公然と呼ぶとか名付けて呼ぶというニュアンスです。「元服して義経と称する」のような感じです。だから、わざわざ「卒業旅行と称して」と表現したからには、なにか裏があると思わざるをえない。にもかかわらず、そうではないから肩すかしを食ってしまい、読むリズムがこわされるのでしょう。

プロの作家でもそういうことがあるのですから、ふつうの人が「心配」と「不安」の区別がつかなくても、「しかし」と「ところが」のちがいが説明できなくてもしかたがありません。でも、国語の問題で「彼は死んだこと」という形で答えたら、なんか変だなと思う感覚はあるでしょう。「彼が死んだこと」か「彼は死んだということ」ならよいのですね。「彼が言ったこと」と「彼が言ったということ」とでは微妙なちがいがあることに気づけるかどうかです。「こと」を「事実」と解釈すれば、どちらも同意ですが、「こと」を「内容」と解釈することもできることに思いが及べば、書き分けようとするはずです。「説得すること」と「説得させること」では主体が明らかに変わるのに、そういうことをまったく気にしないで書く子どもがいます。その言い方はおかしいよ、と言ってくれる人がいるかどうか、というのは国語の力にかなり大きな影響を与えているような気がします。ことばだけでなく、人は悲しいから泣くとは限らないというような、数学的な論理とはちがう論理が人間にはあるといったようなことも家庭で身につけていく要素が大きいでしょう。もちろん子ども本人が、好奇心とかおもしろがる心を持てるかどうかにもかかわってきますが。

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