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2013年4月 5日 (金)

西尾維新は回文

どういうところに対して「おもしろがる心」を持てるかが、国語力のちがいにつながります。たとえば金太郎と桃太郎の共通点は何でしょうか。どちらも「×太郎」である、というレベルなら、あっそう、で済んでしまいます。でも、どちらも鬼退治をしているんですよ、と言われたら、ちょっとおもしろくは感じないでしょうか。桃太郎は架空の人物だけど、吉備津彦命がモデルです、と言われても、ああそうですか、です。ところが、吉備津彦命は三人の家来を連れて、いまの岡山のあたり、鬼ノ城というところにいた温羅(うら)という鬼を退治し、その祟りを鎮めるために吉備津神社の釜の下に温羅を封じたということになっています。『雨月物語』の「吉備津の釜」にも、この釜をめぐる神事のことが出てきます。吉備津彦命の三人の家来の中に犬飼健というのがいます。当然、桃太郎が連れて行った犬のモデルですが、五・一五事件で殺された犬養毅首相の祖先です。あの人は、きびだんごをもらって桃太郎についていった犬の子孫だったのですね…。なんて言うと、ちょっとおもしろいなと思いませんか。

金太郎は実在の人物でしたが、息子と言われる坂田金平は江戸時代の浄瑠璃に登場する架空の人物です。怪力の持ち主で、その強さのイメージから、精のつく食べ物であるごぼうと結びついて、「きんぴらごぼう」と呼ぶようになったと言います。金時も金時豆の語源になっているので、親子ともども食べ物の名前と関係があるんですね…。と聞けば、やっぱりちょっとぐらいはおもしろいと思えませんか。こういうものをおもしろがる心があれば国語はのびると思います。

実在するかどうか、と言えば小説の登場人物の名前がひとむかし前と変わってきました。むかしはリアリティを持たせるためだったのか、意外に平凡な名前も多かったようです。井上ひさしの『一週間』という小説には、入江一郎なる人物が登場します。終戦直後、ハバロフスクの捕虜収容所に入れられた主人公が、元軍医・入江一郎の手記をまとめるように命じられ、その際に、表に出したらとんでもないことになるレーニンの手紙を手に入れる、というような話です。で、入江一郎って、どこかで聞いたことのある名前です。実際にはどうか知りませんが、いかにもよくありそうな名前です。長井代助とか野中宗助なんてのも、実在するかどうかはともかく、いかにも平凡な感じの名前です。時任謙作となると、名字にある種のニュアンスがあります。主人公が悩み苦しみから解放されて、時の流れに身を委ねようとする決意を志賀直哉は「時任」という名字にこめたのでしょう。しかし、「時任」という名字そのものは存在します。

ところが、最近の小説、特に推理ものやラノベ系では、架空であることを強調しすぎるような名前がよく登場します。最原最早(さいばらもはや)のように、明らかに違和感ありまくりのものから、病院坂黒猫のように、もはやそれは人の名前ではない、というようなものまで。マンガなら、むしろフィクションであることを意識させるジャンルなので、たとえ竜崎麗華とか白鳥麗子であっても、そんなものだと思っていましたが、小説になると、うーんという感じです。フィクションであることの強調なのか、それとも、実在の人物名にすると、文句を言われるからか。その登場人物は私だと言い出すようなストーカーにつきまとわれたくないということなのか。たしかに、リアルな名前だと、うっかりテスト問題に使えないこともあります。いい役回りならともかく、かたき役とかいじめられ役だったりすると、文句を言われそうです。同姓同名でなく、下の名前が同じだけでも、からかいの対象になったりすることもあるでしょう。

作家の名前自体が「入間人間」とか「日日日」になっていると、あざとすぎていやですね。入間人間の作品そのものは悪くはないのですが。「日日日」は「あきら」らしいですな。「日」を三つ組み合わせれば「晶」だから。って、それは「八十一里喚鶏」を「くくりつつ」と読む万葉仮名よりも、まだパズル度が高いぞ。ペンネームがキラキラネームになっとります。「今鹿」の「なうしか」は言われんとわからん。「龍飛伊」の「ルフィ」は意外に読める? (ちなみに今年の祝賀会のアトラクションは『ワンピース』のパロディでした。あの中の洒落たセンスのギャグはすべて私が考えたものですが、おやじギャグの部分は算数のO方先生の提供です。本人の名誉のためにイニシャルにしますが、「O」は「オー」ではなく「オ」と読みます。)「凸」の「てとり」はテトリスから来たのでしょうか。「黄熊」の「ぷう」とか「金星」の「まぁず」は…。

しかし、むかしの作家も、「くたばってしまえ」をもじったと言われる二葉亭四迷なんかはペンネームというより雅号で、こういうのはおふざけが前提の場合もあるのでしょう。直木三十五にしたって、三十一歳のときに「三十一」と名乗って、毎年増やしていき、三十五でめんどくさくなってやめたということですから、じつはいい加減と言えばいい加減です。小松左京は京大時代に京都の左京区に済んでいたからでしょう。『相棒』の「杉下右京」は「小松左京」のパクリなのかなあ。亀山薫も神戸 尊も甲斐享も「か」で始まって「る」で終わったりしていて、名前には凝っているようなので、ちょっと思いつきですが、書いてみました。筒井康隆は本名のようですが、筒井道隆とは無関係ですね。司馬遼太郎も「司馬遷にはるかにおよばない」からつけたものだし、「阿久悠」は「悪友」ですから、いい加減な名前に分類できるかもしれません。江戸川乱歩は本名が平井太郎ですから、そのままではあの作品は書けません。『お勢登場』とか『押絵と旅する男』なんて、平井太郎では読む気が起こりません。エドガー・アラン・ポオのもじりであることはあまりにも有名ですが、乱歩の作品の中に「御納戸色」という名前の作家が登場します。コナンドイルのもじりですね。外国人の名前を日本風にもじるのはよくあります。谷啓はダニーケイだし、益田喜頓はバスター・キートン、久石譲はクインシー・ジョーンズ、松任谷由実が別の人に曲を提供するときの呉田軽穂はグレタ・ガルボですね。その友達の女優、藤真利子は作家の藤原審爾の娘ですが、微美杏里とも名乗っております。ビビアン・リーですな。「私、エリザベスよ」と言ってたのは山田花子です。

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