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2013年6月 8日 (土)

土岐はいま天が下知る五月かな

永六輔が書いていましたが、ある礼儀作法の師匠がやってきたときに、貴族たちが茶漬けを出して、となりの部屋からこっそり見てた、という話があります。えらそうに礼儀だの作法だのと言ってても、だれも見ていなければ茶漬けをガサガサとかきこむだろう、それを見て笑ってやろう、という貴族の陰険さです。案の定、師匠はガサガサとかきこんで食べていったので、やっばりねと言いながら出てきて、ふと箸を見たら先の方が数ミリ濡れていただけだった、という話。永六輔は、その師匠もすごいけど、箸の濡れ方に気づいた貴族もすごいと書いてました。でも、そういうことに気づくことができるからこその貴族なのかもしれません。

頓阿は、古今伝授というものを藤原定家の血筋から受け継いでいます。古今和歌集の解釈の秘伝ということらしいのですが、細川幽斎も受け継いでいます。関ケ原の合戦で、自分の城を石田三成の軍勢に囲まれて絶体絶命のピンチに陥ったとき、そのことを知った天皇が勅使を出して囲みをとかせたということがあります。幽斎が死んでしまうと古今伝授を伝える者がいなくなるということだったのですね。うまい具合に、幽斎は生き延びるのですが、だいたいが世渡り上手の人です。室町幕府に仕えて、義昭を将軍にかつぎあげたあと、いつのまにか信長の家来になっており、信長が死んだときには秀吉と仲良くなって、関ヶ原の頃には、家康の味方をして、結局肥後熊本五十四万石の基を築いた人です。細川護熙さんの先祖ですな。

秀吉が詠んだ「奥山に紅葉踏み分け鳴く蛍」という句を記録せよと言われた連歌師の里村紹巴が「蛍は鳴きません」と言って、言うことを聞かない。だいたい、「紅葉」と「蛍」では季節も合わないし、鹿なら紅葉を踏み分けられるけど、蛍が踏み分けるというのもおかしいんですね。要するに無茶苦茶ですが、秀吉はそれでも書けと言う。そこへ幽斎がやってきて、「いや、蛍も場合によっては鳴くことがありますよ。こんな歌があります。『武蔵野の篠をつかねて降る雨に蛍よりほか鳴く虫もなし』」。秀吉は「そら見よ」とうれしそうに言うので、紹巴はやむなく記録して、後日、「あれは何という歌集に載っている歌ですか」と幽斎に問うと、「あれはわぬしの首をつぎたるなり」、つまり、とっさに幽斎が作ったのですね。あれ以上秀吉に逆らうと、おまえの首はとんでいたぞ、ということです。出典は何だったのでしょうか、たしか白陵の高校入試に原文が出ていて、授業でやったことがあります。その文章には出ていなかったのですが、幽斎が下の句をつけて、「奥山にもみじ踏み分け鳴く蛍しかとは見えぬ杣のともし火」とした、という話もありますし、幽斎ではなく、曽呂利新左衛門のエピソードとしているものもあるようです。

話を古今伝授にもどすと、これがまた、わけがわからない。「古今集に出ている歌」として、普通はばらばらにしか歌を見ませんが、たとえば「春」という部立てでは、春に関する歌をランダムに並べているのではありません。「雪の中に咲く花」というテーマの歌がやたら続くなあと思っていると、徐々に季節が移り変わっていくことに気づきます。いつのまにか雪が消えて、花が満開になり、さらに進んでくと、いつのまにか花が散っていく、というように微妙な季節の移り変わりに沿って歌が並べられています。絵巻物のように、イメージが変化していく様子を味わって読むべきものですね。ということは、こういう歌集はそれぞれの歌を個別に味わうのではなく、編集者のアレンジのすばらしさを味わうものなのです。つまり、古今集には編集者の意図が強く反映されており、古今伝授もそれにかかわるものではないでしょうか。「物名」の部立てにある「三木三鳥三草」というのが、昔から意味不明とされていて、古今伝授でも、その部分を「秘伝」としているとか。三つの木や三つの鳥にかこつけて、何かを伝えようとしているのではないか、紀貫之らがなんらかの暗号をこの部分に秘めているのではないかと考える人もいるようです。藤原定家の子孫である冷泉家には何か伝わっていないのかなあ。表に出ると日本の歴史がひっくり返るような重大な秘密だったりして。もしそうなら、勅使を出してまで古今伝授を守ろうとした天皇も、当然そのことを知っていた可能性があります。もともと、ことばには魂がこもるという言霊信仰がありましたが、とりわけ和歌というのはそのことばをとぎすましたものですから、そういう「秘密」が隠れていても不自然ではありません。

いろは歌でさえ暗号になっているという、有名な話がありますね。同じ音を繰り返さず、意味の通じる内容にしているというだけでもすごいのに、七五調四句を七音ずつに区切り直すと、「いろはにほへと/ちりぬるをわか/よたれそつねな/らむうゐのおく/やまけふこえて/あさきゆめみし/ゑひもせす」になります。各句の最後が「折句」になっているという人がいるんですね。拾っていくと、「とかなくてしす」つまり「とが(罪)なくて死す」ということばが浮かび上がります。では、無実の罪を着せられて死んだのはだれか。梅原猛説では柿本人麻呂ですが、もっと「トンデモ」なことを言う人もいます。もう一度「いろは歌」を見てみると、最初の音が「い」、七音にならない最後の「ゑひもせす」は「ゑ」で始まり、「す」で終わっています。この三つの字を並べると「いゑす」になります。罪なくして死んだ、いちばんの大物といえば「イエス・キリスト」に決まってるじゃ、あーりませんか。この強引な結びつけにはしびれますね。天海=明智光秀を前提とした徳川埋蔵金の話にも、同じパターンがあります。明智家発祥の土地である土岐市と、北陸の明智神社、日光東照宮、徳川幕府の本拠地東京、徳川家ゆかりの静岡、幕府財政の基になった金山のある佐渡の六つの場所を結ぶと、ダビデの紋章になる、という「アホちゃう?」というやつです。その形になるように、六つの場所を強引に選んでいるのに、六角形のかごの目になった、と喜ぶ「説得力のなさ」が馬鹿馬鹿しくてすばらしいです。しかも、それが綺麗な六角形ならともかく、相当いびつなので、もうちょっと考えて選べよー、と思います。でも、なんとか「かごの目」を出さなければならないんですね。これは「かごめかごめ」の歌が徳川埋蔵金のありかを示している暗号になっている、という説ですから。

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