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2013年9月18日 (水)

青葉茂れるはげあたま

王子さまとお姫様があてもない死の旅をしているとするなら、あの歌は「道行き」だったのですね。浄瑠璃や歌舞伎で、男女が死にに行く場面です。「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えていく、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなり」というやつです。荻生徂徠が絶賛した文章ですね。徂徠の言うとおり、たしかに「あれ数ふれば」のあたりからは、名文中の名文です。

徂徠は煎り豆を噛んで古人をののしるのが楽しみだと言ったことでも有名です。「豆」に縁があるのですかね、「豆腐」がらみの話があります。其角が「梅の香や隣は荻生惣右衛門」という句を作っていますが、其角の家の隣で徂徠は塾を開いていました。そのころ、あまりの空腹で、金もないのに豆腐を注文して食べてしまいます。豆腐屋は許してくれたのですが、その豆腐屋は赤穂浪士討ち入りの翌日に火事で焼けだされます。徂徠が新しい店を贈ろうとしたところ、義士に切腹をさせた徂徠からの施しはいらないと言われます。徂徠が法の道理と武士の道徳について語ると、豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという話で、浪曲・講談・落語で演じられます。たいしておもしろい話ではないのですが、志の輔のがなかなかいい。

話を前回の続きに無理矢理もどすと、リアリズムでなくても、誤解の上に成り立つ美があれば、それでいいのですね。『南総里見八犬伝』では伏姫を取り返すべく、金碗大輔が鉄砲をかついで八房と伏姫のいる富山に向かったものの、八房ともども伏姫もうちぬいてしまいます。時代設定は1450年ぐらいです。1543年の100年前ですね。馬琴は、鉄砲の伝来時期を知らなかったのでしょうか。でも、そういう細かいことを無視して楽しめばよいのですね。

ただし、誤解と言っても、たとえば歌詞の聞き間違いはだめです。「異人さんに連れられて行っちゃった」を「ひいじいさんに連れられて」と勘違いしたら、意味不明の設定になってしまいます。「川は流れてどこどこ行くの」の「どこどこ」は「何処何処」でしょうが、なんとなく擬声語・擬態語の「ドコドコ」のようにも聞こえると思ったとたん、笑ってしまいそうになります。「矢は放たれた」なんてことばも「洟垂れた」に聞こえてしまうんですね。別にダジャレにするつもりはなかったのに「結果的ダジャレ」になってしまう。

「結果的早口ことば」というのもありますね。「老若男女」をつづけて十回言わされたら、何回目で「にゃんにょ」になるでしょう? 一回目からいきなり「りょーなくなんにょ」と言ってる人もいます。「きゃりーぱみゅぱみゅ」なんか、アナウンサー泣かせでしょうね。「手術室」などは「しじつしつ」のようにごまかしても許されるそうですが、プロなら「摘出手術」はまちがわずに言ってもらいたい。「低所得者層」とか「土砂災害」「骨粗鬆症」「貨客船万景峰号」も原稿にあったら、いややなと思うやろなあ。「かきゃくせんマンギョンボンごう」なんて、いやがらせとしか思えません。「マサチューセッツ州」なんてのも言いにくそうです。

「追加予算」を「おいか予算」と読んだり、「生憎の雨」を「ナマニクの雨」と読んだりするのは単なるKYでした。麻生さんは「踏襲」を「ふしゅう」、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んで笑いものにされましたが、アナウンサーだって、「訃報」を「とほう」、「西瓜」を「にしづめ」、「浪速」を「ろうそく」と読んだ人がいたそうです。「旧中山道」という横書きの原稿を「1日じゅう山道」と読んだというのは伝説になっていますし、シューベルトの『鱒』を「しゃけ」と読んだ人もいたそうです。徳川綱吉を「とくがわあみきち」と読んだというのは誤読というより単なる無知。「我田引水」を「われたゆみみず」とか「冷奴」を「つめたいやつ」とか…これはウソです。

早口ことばで「坊主が屏風に上手に…」というのがありますが、あれはたまにそのあとが「坊主の屁をこいた」になる人がいます…いませんか。でも、錯覚してしまうことがあるかもしれません。パロディにしてやろうと思っているわけでなく、「言いまつがい」ですね。二つのものがごっちゃになるのは「的を射る」と「当を得る」、「言わぬが花」と「知らぬが仏」など、形がもともと似ているので、ついうっかり言いまちがえてしまう。「言わぬが仏」って、ものを言わないのは仏様になっているからだと思うと、正しいような気もします。

まちがいではありませんが、歌の途中で歌詞がわからんようになってごまかす、というのもよくありますね。たいてい「なんたらかんたらで~」と言ってごまかします。むかし鶴瓶が「飛び散る火玉は走るこだま」とか「垣根の垣根の曲がり角、焚き火だ焚き火だ落ち葉焚き、帰ろうか帰ろうよ」と歌って、上岡竜太郎に「火事になるわ」と突っ込まれてましたが、こんな歌、最近は歌わんようになったのかなあ。鶴瓶は、「夕焼け小焼けで日が暮れて」という歌詞は合っているのですが、メロディが『赤とんぼ』になってるというのもありました。酔っ払うと、勝手に歌詞を変えてしまい、気に入るとなぜかそこだけ繰り返して歌うおっさんもいます。米米CLUBの『浪漫飛行』の「トランク一つだけで浪漫飛行へ In The Sky」の歌詞をしつこく「浪漫飛行でいいんですかい?」と歌うおっさんとか、井上陽水の『夢の中へ』の「はいつくばってはいつくばって一体何を探しているのか」を「タイツ配ってタイツ配って一体何を探しているのか」と歌うおっさんとか。

『替り目』という落語で酔っ払いのおっさんが、わけのわからん歌を歌うところがあります。「一でなぁし、二でなし、三でなし、四でなしかぁ。五でなし、六でなし、七でもありませんよ、八でもなければ九でもないなぁ~い。十が十一、十二、十三、十四、十五、十六……」と歌って、「この歌止まらんなあ、さっぱワヤやねぇ」と枝雀は言うてました。「青葉茂れる桜井の里のわたりの夕まぐれ木の下蔭に駒とめて世の行く末をつくづくと忍ぶ鎧の袖の上に散るは涙かはた露か」は落合直文の作詞ですが、七五調の五の部分をすべて「はげあたま」に替えてぶちこわしにするという話を覚えているのですが、はて、どこで読んだのやら。

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