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2014年7月27日 (日)

けつねうろん

自分のことを「ワシ」と言うのは、スポーツ選手、それも関西系の野球選手に多いようです。なぜか清原は「ワシ」のイメージです。実際に「ワシ」と言っているのを聞いた記憶はあまりないのですが、記事になると「ワシ」と言っています。その昔の大投手、金田正一さんは、たしかに「ワシ」と言っていました。その「伝統」があって、記者が勝手にイメージをつくって書いているような気もします。清原が「ワシ」で桑田が「ぼく」と区別されているのは、「差別」なのかなあ。

「ワシ」というのは、なんとなく年寄りくさいイメージがあり、子どもが使うと抵抗があります。幼稚園児が「なんじゃ、ワシのことか」とか言ったりすると、なんだかなあ。女性語としても違和感がありますね。でも、「おまえ百までわしゃ九十九まで」というのは、「おまえ」は夫、「わし」は妻です。「おまえ」は本来敬語なので、妻が夫を呼ぶときのことばのはずです。女の人だって、「ワシ」と言ってもよいのですね。そういえば、北林谷栄という女優は若いころから老け役をよくやっていましたが、信州のおばあちゃんを演じたときなど、自分のことを「おれ」と言ってましたね、「おら」ではなく。それが非常にリアルでした。「おれ」は男女ともに使われるんですね。「おれ」に謙譲のニュアンスを持つ「ら」がついて「おれら」になり、「おいら」とか「おら」に変化していったのでしょう。

外国の小説を翻訳する場合、「おれ」「ぼく」「わたし」のどれにするのか、決める基準は何なのでしょうか。たまにチャンドラーが読みたくなることがあります。べつに「チャンドラリアン」ではないのですが。乾いた文体が心地よいのですが、訳者によって多少のちがいが出てきます。村上春樹はさすがに読みやすい。軽い感じです。で、フィリップ・マーロウの一人称は「わたし」と訳していますね。同じハードボイルドでも、ハメットのサム・スペードは「わたし」という感じではないような気がします。なんとなく「おれ」が似つかわしい。マーロウのほうが、情的なので「わたし」という言い方が合うのでしょうか。でも、原文ではどちらも「I」で、区別がつきません。

日本の小説でよく出てくる「心中」ということばも英訳できないようです。強いて言えば「ダブル・スーサイド」となって、直訳すれば「二重自殺」です。だいたい、「イエス」が「はい」で「ノー」が「いいえ」だというのも、まちがいなのですね。「あなたは…しますか」で「ノー」と言えば、「いいえ、しません」ですが、「あなたは…しませんか」で「ノー」と言うと「はい、しません」になるのですから。「book」と「本」が対応するわけでもありません。「book」にある、「切符などの一つづり」という意味が「本」にはありません。

同じことは、日本語の中の方言でも言えそうです。関西弁の「しんどい」は「疲れる」とイコールではなく、「骨が折れる」「大変だ」のニュアンスが含まれます。「あー、しんど」は「ああ、疲れちゃった」でもそれほど変わりませんか、「きみが灘受けるんか、そらしんどいな」は「疲れちゃった」ではありません。京都と大阪でも「しんどい」の意味は微妙にちがうかもしれません。そもそも関西弁とか東北弁とか、まとめて言うことがありますが、大阪弁と京都弁ではあきらかにちがいます。最近は使わなくなりつつあるようですが、京都と言えば文末の「どす」が有名です。「これ、何どすか」と刀を指さすと、「ドスどす」という、わけのわからん答えが返ってきますね。大阪は「だす」でしょうか。地域気象観測システムは「アメダス」と言いますが、天気予報で「アメダスによりますと…」と言ったところ、「大阪弁で言うな」と文句が来たとか。大阪では「アメダス」でも、京都では「アメドス」と言います、と言ったら信じる人がいるかもしれません。

「来ない」は大阪では「けえへん」と言う人が多かったように思いますが、京都では「きやへん」または「きいひん」でしょうか。「きやへん」の方が古いことばかもしれません。「行かない」も京都では「行かへん」、大阪では「行けへん」と言ったような気がします。「できる」なら、京都は「できひん」、大阪は「でけへん」でしょう。どうも、京都では打ち消しの「へん」の前がイ段になると「ひん」に変化するようですね。京都の塾生のお母さんと話していると、やたら「はる」を使います。「うちの子、よう勉強しはるんです」とか、「道に犬のうんこさん、落ちてはる」とか。大阪では尊敬語のニュアンスですが、京都では丁寧語なんですかね。まさか「犬のうんこさん」を尊敬してないでしょう。まあ、「さん」をつけてる時点で、すごいなあと思いますが。むかし、三宮教室では「何しとん」と言っている子がいました。神戸と言うか、播州弁ですかね。同じ希の塾生でも、微妙にことばの感じがちがうのがおもしろい。

各地の方言のちがいを表すことばに、「なにわの葦も伊勢の浜荻」というのがありました。室町時代初期の連歌集『菟玖波集』の「草の名も所によりて変わるなり難波の葦は伊勢の浜荻」から出たことばなので、相当古いことわざです。私は小学生のころ聞いた桂米朝さんの落語で知りました。同じ落語で「長崎ばってん江戸べらぼう神戸兵庫のなんぞいやついでに丹波のいも訛り」なんてことばも紹介してくれます。「神戸のことばは日本一きたない」てなことを言うんですね。たしかに「なんぞいや」だものなあ。しかも、実際には「なんどいや」という発音になります。播州弁はザ行がダ行になってしまうんですね。織田作之助の「夫婦ぜんざい」を播州の人が発音すると「でんだい」になります。神戸のあたりは、ほんとうは播磨ではなく摂津ですが、神戸の西のほうに昔から住んでいる人は、そういう発音になるそうです。「どうどうをどうきんでふいてもでんでんきれいにならん」というのは「銅像を雑巾でふいても全然きれいにならん」の意味ですね。大河ドラマの黒田官兵衛もきっとそういう発音だったのでしょうな。

コテコテの大阪人はダ行がラ行になり、「淀川の水」が「よろがわのみる」になったらしいので、播州から摂河泉三国、紀州にかけてはザ行・ダ行・ラ行がいいかげんだったのでしょう。親戚の神戸のおばちゃんは「のど」のことを「のぞ」と言っていましたし、和歌山のおっちゃんは、座布団を「だぶとん」と言い、いっしょに風呂にはいったときは「かだら洗うちゃろか」と言ってました。なんだか石けんを「まだら」につけられそうでした。

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