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2015年7月 2日 (木)

1ドルは360円

五年生の授業のとき、「風呂敷」ということばが出てきましたが、やっぱり知らない生徒がいるのですねぇ。「先生、フロシキってなに?」「フロシキ知らんのか、ロシアの食い物やないか。カレーパンみたいになってて…」そうするとおそるおそる「それピロシキとちゃいますか」と言う者がいます。これが六年生なら、すかさず「そら、ピロシキやがな!」とつっこみがはいるのですが…。五年生、まだまだ鍛え方が足りないなと思いました。

ということで、またまたさりげなく前回のつづき、と言っても前回が相当むかしのことになってしまったのですが、白とか黒とかの話でした。素人も「しろうと」と言い、「玄人(くろうと)」と対比されますね。この二つのことばはどちらが先にできたのでしょうか。何も知らない「素」のままの人を「しろうと」と言ったので、その反対を「くろうと」としたような気がします。犯人のことをクロと言い、無実の人はその反対だからシロ、ということみたいなので、こちらは黒のほうが先かもしれません。と書いていて、妙なことに気づきました。「しろ」と「くろ」って、ことばの形の上からも対比ができます。どちらも「○ろ」という形なんですね。漢字で書くと気づかないのですが、かな書きすると、ひっかかることがたまにあります。「鼻」も「花」も「端」もすべて「はな」と書いたら「はしっこ」という意味の共通点でくくれます。その「はしっこ」のことを古くは「つま」と言いました。着物のはしっこも「褄」ですし、奥さんの意味の「妻」や刺身の「つま」も、そえるものという要素でくくれます。昔の日本の東西の端は、「あずま」つまり関東地方と「さつま」つまり「薩摩」です。「あずま」がもともと「あつま」だったと考えると、どっちも「つま」なんですね、偶然かもしれませんが。

で、話をもどすと「いろ」ってことばも同じような形で、「○ろ」のパターンですね。日本人の感覚の中では、もともと「いろ」と言えば「しろ」と「くろ」しかなかったのかもしれません。明暗や濃淡の感じが大事であって、あざやかさはどうでもよかったのではないか。そのうち「あかるい」のは「あか」で「あわい」のは「あを」となったのでしょう。「青」はグリーンも含みますし、黒馬の名前なのに「あお」と付けたりします。相当いいかげんですね。

こんなことを書いている文章がありました。「白い」「たいへん白い」「もっと白い」のうち、どれが一番白いか、というような内容です。「たいへん」や「もっと」が付くと、レベルを表すことになり、そのレベルには際限がなくなり、よりいっそう白いものの存在が考えられる。それに比べると「白い」は比較の対象外の白さになるから、これが一番だ、という、わかったようでわからん文章でした。白は色の中では彩度がなく、明度のみですが、「最も明るい」も考えたらわけがわからんようになります。明るさに限度があれば、「最も明るい」という規定はできますが…。

名前を聞いてもピンと来ない色があります。スカーレットとかバーミリオンとかの洋風の名前にも、なじみが薄いのでわかりにくいものがありますが、和風のものにもよくわからない色があります。「はなだ色」とか「生成り色」とか言われても、ピンときません。「葡萄色」と書いて「えびいろ」と読むことを「今でしょ」の先生が言ってましたが、これだって、どんな色かわかりにくい。「御納戸色」なんてまったく意味不明です。江戸川乱歩がコナンドイルをもじって探偵小説の作家名として使っていましたが。「浅葱色」は田舎侍をさすことがありました。「浅黄色」ではなく、薄い葱の葉の色ということなので、緑がかった藍色でしょう。江戸へやってきた田舎侍が、羽織の裏地に浅葱色の木綿を使うことが多く、江戸っ子に馬鹿にされたようです。

ところで、時代小説でそういう色を描写する際に「グリーン」とか「ピンク」ということばを使ったらどうでしょうか。「緑」と表現しようが、「グリーン」と表現しようが、同じ色のはずですが、時代小説・歴史小説でそういうことばが出てくると、なにか違和感があります。基本的には現代語で書かれた小説なのですから、理屈の上からはおかしくないはずです。もちろん会話で織田信長が「ぼくってさ、プライドが高いもんね」みたいな口調でしゃべったら、台無しです。かといって、当時の尾張のことばそのままでは読んでもらえないでしょう。会話以外の文、いわゆる地の文でも、「ニュアンス」なんてことばを使われると、いささか抵抗があります。作者が外来語起源であることに気づかずに、うっかりと「ダブる」と使った場合はどうでしょう? 読者も気づかなければ「スルー」してしまうかもしれません。でも、歴史小説はやっぱりそれらしい雰囲気で、格調高く書いてほしいですね。「信長は死んだのでR」なんてのは論外です。

だからといって、「古くさいことば」を使うと、若い読者を獲得できないでしょうし、書き手のほうもどんどん若くなっていきます。明治のころに書かれた、明治時代のことばを使ったものと今のものとでは、かなり雰囲気が変わっているかもしれません。歴史考証にしても、江戸時代生まれの人が生きていた頃には、日常生活のちょっとしたことでも正確だったでしょう。最近、時代小説が復活しつつあって、「捕物帖」的な作品も増えてきていますが、どこまで正確なのでしょうか。少なくとも、現代語の会話は勘弁してよ、と思います。昔の岡本綺堂とか野村胡堂とかは、ペンネームからしてものものしい。半七さんや銭形平次の口調は、いかにもそれらしいし、吉川英治や山岡荘八もさすがに、雰囲気があります。でも逆に、『のぼうの城』を明治時代の人間が読んだらどうでしょうか。ふざけているのかと怒ったかもしれません。とはいうものの、時代による変遷はやむをえません。読者も変化します。ただ、昔は常識だったことに関する知識がなくなっていくのは、どうしようもないとはいうものの、作る側にしてみたら厄介かもしれません。落語でも、「時そば」を演じるときに、昔は十二支で時刻を表し、寺のつく鐘の音で時刻を知らせていたんですよ、九つは十二時のことですよ、と説明しなければなりません。このあたりはオチに結びつくことなので、説明するのもやむをえないかもしれませんが、話の途中で「いくら」「二円」「大金やなあ」なんて部分が出てくると笑ってしまう人がいます。笑うところでもなんでもないのに、なぜなんだろうと思ってたら、どうやら「二円」という金額が値打ちのあるものだと知らないからなんですね。「車のハンドルはいくら?」「180円」「なんでや」「半ドルやから」という小話は今では通用しなくなりました。

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