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2016年5月 8日 (日)

李白は天才、李賀は鬼才

ジャイアンツの元監督だった川上が現役のころ、「ボールがとまって見える」と言ったという有名な話がありますが、実は別の選手のことばを新聞記者が川上のことばとして書いたとか。今だったら「捏造」ということで大騒ぎになるかもしれません。マリー・アントワネットの「パンがなければお菓子を食べればいいのに」も、実際には別の人が言ったことばらしいし、「お菓子」も実はパンより安い小麦で作られるもののことだという説もあるそうです。誤解されて伝わっていくこともあるのですね。酒呑童子も漂着したシュタイン・ドッチという西洋人で、その見慣れない姿形を都の人たちは鬼だと思った、という魅力的な話もあります。人の生き血を飲んだというのも、実は赤ワイン? これは小説になっていたのですが、ひょっとしたら、実際にそういうことがあって伝説が生まれたのかもしれません。

何にしろ、ちょっと時がたてばわからなくなります。戦時中のことさえわからない、というのが驚きですね。当時、大人だった人たちがどんどんいなくなっているのですから、実際に体験した人がいないと、わからなくなるのもやむをえないのでしょう。昭和の日常的な生活のことさえ、今の若い人たちにとっては知らないことです。たとえば「ダイヤルを回す」という言い方はもはや死語でしょうか。今どき、ダイヤル式の電話を見ることはありません。にもかかわらず、110や119はそのまま残っているのですね。緊急時なのでダイヤルが回る距離が最も短い1を基本にして、さらに誤りを防ぐために距離が長い0や9と組み合わせたのですが、プッシュホンでは全く無意味です。でも、いったん決めたことを変えるわけにはいかないので、そのままにしているのでしょう。「呼び出し電話」というのもありましたが、何のことかわからない人が多いでしょう。電話を持っていない人が、電話がある近所の家などに取り次いでもらって、電話を受ける「システム」です。だれもがケータイを持つ時代では、もはや完全な死語です。電話の設置場所も玄関をはいってすぐの下駄箱の上などが多かったのも、「呼び出し」の便宜を考えたものでした。黒電話の上にカバーをかけたり、レースのかざりをしたりして、電話というのは「豪華家電」だったのです。

高速道路の制限速度が100キロになっているのも、なぜかはもうわからないらしいですね。その設定にした理由が記録としては残っていないということです。記録がないとわからない、ということになったらもはや民俗学の対象ですね。今はかなりのものが情報化されているので、状況は変わっています。むしろ情報が多すぎるので、真偽を見分ける必要さえ出てきます。ウィキペディアなんて、その最たるものですね。ふつうは、文字化されることによって権威が生まれてくるので、みんな信じてしまうのでしょう。もっともネット上の文字でしかないウィキでは、権威は少ないようです。その点、いまだに新聞は権威を持っていると言えるでしょうが、それも少しあやしくなってきました。とくに朝日新聞によって、新聞の信頼度が疑問符付きになっています。朝日とサンケイを読み比べると、同じニュースのはずなのに、正反対のことが書かれているのが不思議です。さすがに、事実そのものが大きくちがうということはあまりありませんが、解釈や評価は全くちがいます。そういえば、朝日新聞は最近、ちょっとしたミスも訂正するようになりました。謙虚さも感じられますが、それにしても多すぎです。変換ミスが多いし、事実関係も違っていることもあります。記事の内容そのものには大きな影響を与えないミスも多いのですが、ほぼ毎日のように訂正があるというのはいかがなものか。「確認が不十分でした」と書かれていますが、「不十分」ではなく、確認をしていないのかなと思います。新聞記者の能力が落ちてきているのでしょうか。それとも、昔からこういうミスは多発していたのだけど、ただ表に出なかっただけなのでしょうか。

 昔はよかった、と思うのは、単なる思い込みで、昔だってひどいことはたくさんあったのに忘れているだけなのかもしれません。昔の人が優れていたわけでもなく、今の人が劣っているというわけでもないでしょう。天才的な人物は過去にもいただろうし、今もいるし、未来にも出てくるでしょう。最近、地下鉄の西中島南方、阪急の南方に行く用事がありました。「敵のいない駅、みなみかた」というやつですね。地下鉄は「にしなかじまみなみがた」で、「かた」ではなく「がた」らしい。それは置いといて、「南方」について検索しようとしたら南方熊楠という名前が出てきました。「みなかたくまぐす」です。これは天才ですねぇ。「歩く辞書」という表現がありますが、この人は「歩く百科事典」と呼ばれたのですから、けたがちがいます。分類すれば博物学者ということになるのでしょうか。子供のころ、100巻ぐらいある博物図鑑を少しずつ読んで覚え、家に帰ってから記憶をもとに書き写したという話もあります。何の植物だったか忘れましたが、元の絵と並べた写真を見たことがあります。見比べると、細かい部分までほぼ一致していました。20か国語ぐらいしゃべれたそうですが、それもすべて耳で聞いて覚えたとか。昭和天皇に御前講義をしたときに、何かの標本を献上しました。その標本がキャラメルの箱にはいっていたというエピソードが有名です。天皇も心ひかれたのでしょうか、「…紀伊国の生みし南方熊楠を思ふ」という歌を詠んでいます。

異様なまでの記憶力などは、ひょっとしたらアスペルガー症候群の可能性もあります。いずれにせよ、天才と呼ばれる人は常識人のはずがなく、他の人とちがったところがあるからこそ天才と呼ばれるのでしょう。そういう優れた才能は、「天才」とか「偉才」とか「鬼才」「奇才」「異才」「異能」などなど、いろいろ呼ばれますが、どれが一番すごいのでしょうか。「秀才」「俊才」「英才」は一般人の中で優れた人物という感じですが、「天才」となると、先天的に特別の才能を持っているというニュアンスが出てきます。「奇才」は普通の人にない能力を持っている感じがあり、「異才」「異能」は一風変わった独特な能力という感じです。「鬼才」は「異端」の要素がはいってきますね。だから、誰かのことを「鬼才」と呼ぶときには、正統派ではないという雰囲気が漂い、必ずしも全面的な評価をしているわけではなさそうです。最近では「その発想はなかった」というような発想をする人に対して使ったりすることもあり、軽く見ているか、ばかにしている感じもします。ある意味で、苦し紛れのほめことばなのかもしれないので、言われても喜んではいけないかも。

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