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2016年8月 7日 (日)

変わる変わるよ話題は変わる

ほめることのないときのほめことばというか、短所が目につくとき、それを無理矢理長所として言いかえることがあります。地味すぎる服装を見て、「なかなかしぶいねえ」と言ったり、センスないなあと思うときに、「個性的な服装やねえ」と言ったりするようなやつです。性質でも、無愛想な人を「クール」と言ってみたり、頑固な人を「意志が固い」と言ってみたりすることもあります。「マザコン」と言ってしまえば身も蓋もありませんが、「母親思い」と言えば、とたんに感じよく聞こえます。「うるさく騒ぎまくる」子供も「なかなか元気があってよろしい」。「主体性がない」人は「協調性がある」わけですし、「能力がない」やつは「可能性を秘めている」のです。「下手な絵」ではなく「味のある絵」ですし、「ありがちな展開」のドラマは「王道」を行っており、「行き当たりばったり」は「臨機応変」です。「うさんくさい」人は「謎めいている」し、「無名」の作家は「知る人ぞ知る」です。「デブ」と言わずに「かっぷくがいい」と言いましょう。「腐った」ご飯は「熟成された」ご飯です。まあ、長所はうぬぼれると短所になり、短所は自覚すると長所になるわけで、表裏一体、結局は同じことです。プラスの表現をされれば、言われた本人はまんざらでもないでしょうし、お世辞とわかっていてもうれしくなるのが人間の常です。

いま「お世辞」と書きましたが、これは「おせじ」と読むのでしょうか。それとも「おせいじ」? 「世」の音読みとしてはたしかに「セ」と「セイ」があり、いわゆる呉音・漢音・唐音のちがいでしょう。要するに、時代によって発音が変わった、というやつで、いつ日本に入ってきたことばかということで区別するのでしょう。ふつう「お世辞」は「おせじ」のはずですが、たまに「おせいじ」と言う人がいます。郷ひろみは「けっしておせーじじゃないぜ」と歌っていました(古い!)。メロディの都合で長く伸ばしただけかもしれませんが。伸ばすかどうかで別の単語になるというのは英語にはないのでしょうか。「地図」と「チーズ」は日本語としては明らかにちがうもので、ちがう発音をしているつもりになっていますが、日本語を習いたてのアメリカ人なら、「地図」を「チーズ」のように発音するかもしれません。「角」と「カード」はちがいますし、「蔵」と「クーラー」もちがいます。もちろん外来語でなくても、「鳥」と「通り」は明らかにちがいます。「長音」という概念は英語にはあまりないのかなあ。発音記号で長く伸ばすというのは確かにありますが、「コンピューター」も「コンピュータ」のほうが発音に近いようです。最後の長音の表記がなくなったのは、昔のパソコンのスペックの低さのせいだとは必ずしも言えないかもしれません。一音のことばなら、関西人は長音化して、「目ェ」「手ェ」「毛ェ」と言うのですがね。

外国人の中にも、日本語の達者な人がいます。アーネスト・サトウは佐藤愛之助と名乗ったりもしていますが、れっきとしたイギリス人の外交官です。幕末史にはよく登場してくる有名な人物ですが、日本語がうまいですねと言われたときに、「おだてともっこにゃ乗りたくねえ」と江戸っ子口調で言ったとか。「もっこ」と言うのは縄や蔓を編んで作った、土を運ぶための道具ですが、死刑囚を刑場まで運ぶときにも乗せていったとか。「そうであるなら、なるほど、もっこにゃ乗りたくない」と三遊亭圓生が言っていました。ただ、アーネスト・サトウの発音がどれだけ流暢だったかは今となってはわかりません。デイブ・スペクターのほうがうまいかもしれない。

長年、日本に住んでいたり、何十年も日本語を話しているわりに、いつまでたっても発音がうまくならない人もいます。フランソワーズ・モレシャンなんて人は、外人タレントの走りでしたが、いかにもフランス人の話す日本語という感じでした。アグネス・チャンも片言っぽいですね。ひょっとしたら、二人とも本当はなめらか極まりない日本語が話せるのに、わざと「下手」をよそおっているのかもしれません。日本人は外国人が話す「片言の日本語」が好きなんですね。「完璧を好まない」という独特の美意識もあるでしょうし、「外人に日本文化がわかってたまるか」という「優越感と劣等感」もあるのでしょう。流暢すぎる日本語を操ったり、日本語のダジャレを言ったりしたら白けてしまいます。だから、デイブ・スペクターは嫌われるのですな。

もともと日本人は日本文化を世界に類を見ない独特のものだと思いたがる傾向が強いようです。たしかにコピーよりオリジナルのほうがいいに決まってはいますが、でも日本文化と言っても多種多様です。関西と関東でちがうし、京都と大阪でもちがう。もっと言えば、自分の家の流儀ととなりの家の流儀とではちがうことがあります。自分の家のやり方が世間一般だと思っていて、じつはそうではないことに気づいたときの恥ずかしさ、というのがよく話題になるぐらいです。すき焼きなんてのは家ごとにちがっていると言ってもよいかもしれません。納豆といえば、関西人のきらう最たるものでしたが、このごろでは納豆好きの関西人も多くなっています。子供のころ初めて食べた納豆には砂糖がはいっていましたが、あれは子供向きに母親がそうしたのでしょう。ということで、私はしばらくの間、納豆には砂糖を入れるものだと思い込んでいました。そのうちに唐辛子を入れるとうまいことに気づいたのですが、いやいや唐辛子ではなく、辛子でしょ、と言う人もいます。ひょっとしたらタバスコが一番と言う人もいるかもしれません。豆腐には醤油ではなく塩をかける人もいますし、ごま油と塩という人もいます。オリーブオイルに塩という、おしゃれな人もいます。

納豆と豆腐は入れ替わったという説がありますね。納豆のほうが豆の腐ったやつで、豆腐は豆をかためたやつですから、名前は確かに入れ替わっています。松虫と鈴虫もいつのまにか入れ替わったと言われています。「秋の野に人まつ虫の声すなり我かと行きていざとぶらはむ」という、よみ人しらずの和歌では、「ひとを待つ」と「松虫」の掛詞が使われていますが、この「松虫」は「鈴虫」だったということになります。でも、鈴虫は鈴の音のような鳴き声だから鈴虫と言うはずです。「あれ松虫が鳴いているチンチロチンチロチンチロリン、あれ鈴虫も鳴き出したリンリンリンリンリーンリン」という歌もありますが、どちらの音も鈴といえは鈴です。どんぶり鉢にサイコロをほうりこむ博打も「チンチロリン」と言いますが、これは関係ないか。いずれにせよ、入れ替わったのならそれはいつごろなのでしょうか。ある日を境にすぱっと入れ替わるわけではないでしょうから、入れ替わる境目のあたりでは両方の言い方が混在していたのでしょうか。どっちをさしているか曖昧で話が通じないということもあったかもしれません。まあ、松虫と鈴虫がそんなに話題に出てくるとも思えませんが。

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