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2017年4月 1日 (土)

名字は「ああああ」

略語といえば、「マクドナルド」問題もありますね。東京では「マック」で大阪では「マクド」。「マック」は「~の子」という意味だから、それだけでは「マッキントッシュ」か「マックイーン」か「マッケンジー」か、何の略かわからないのに対して、「マクド」は「マック・ドナルド」であることが推定できるので、略語としてのレベルは高い。大阪の勝ちです。長いことばのどの部分をとってくるかはあまり規則性がないようです。「尼崎」は「尼」で「がさき」にはなりませんが、「池袋」は「ブクロ」、新宿は「ジュク」、「二子玉川」は「ニコタマ」です。では「天下茶屋」は「ガチャ」でしょうか。そこに住む人は「ガッチャマン」と呼ばれる、というギャグを合格祝賀会の劇で使いましたが、あまり受けなかった…。

思いがけない略語というのもあるようです。略語であることを知らずに使っているものは結構多く、たとえば「ボールペン」でさえ「ボールポイントペン」が元の形だとか。「教科書」は「教科用図書」、「切手」は「切符手形」、「軍手」は「軍用手袋」だそうです。よく使う「特訓」も、よく考えれば「特別訓練」の略語です。「割り勘」などは略語だろうなとはわかりますが、元の形が「割り前勘定」であることには気づきにくい。「自賠責」を「自動車損害賠償責任保険」とは言いたくないですね。「電卓」は「電子式卓上計算機」でしょうか。「馬券」も正式には「勝馬投票券」らしい。「食パン」が「主食パン」というのは卑怯な気がしますが、たしかに「食べるパン」ではおかしい。古いところでは「魚雷」は「魚形水雷」、「空母」は「航空母艦」で、四字熟語の中から妙なところをとってきています。

固有名詞では「天六」「上六」「谷九」なんてのもあります。「学習研究社」は「学研」が正式名称になったのかなあ。「関西電力株式会社」の「関電」は「感電」を連想させるし、ひょっとして「関東電力」と思われるかもしれないので、あまりよい略語ではないようですが、やむをえないのでしょうね。英米の人名でも略語があります。ロバートがボブとかボビー、ロブになったり、さらにバートとかバーティーなども短縮形ですね。マイケルもマイク、マイキー、ミッキー、ミックになったりします。日本では名字と名前の一部をとってきて、キムタクみたいにすることがあります。この略し方は一昔前にはなかったのではないかなあ。名前のほうの「タク」はよいのですが、名字は漢字で書いたら「木村」ですから、これを「キム」と略すのは抵抗があったはずです。漢字ではなく音のイメージでとらえるようになってきて登場した略し方かもしれません。マツケンやホリケン、マエケンは従来型、シムケンやタムケンはニュータイプですね。でも、不思議なことに高倉健はタカケン、渡辺謙はワタケンにならずに、ケンサンです。マツジュンとは言うのに、オカジュンと言わないのは、これいかに?

みのもんたをミノモンにしても意味がないので、これはなしでしょうが、勝新太郎のカツシンはありなんですね。何か規則性があるのかないのか。ンで終わらなくても、長谷川京子のハセキョーとか豊川悦司のトヨエツというのもあります。ミスチルは言いやすいが、セカオワなんて言いにくい。エ段の音のあと子音のkが来るだけでもひっかかりがあるのに、そのあとa・oの母音が連続して、さらに実質aに近いwaなのでいわば母音三連発。普通なら略語にならないのに、誰かが通ぶって略したのでしょうね。もともと長すぎて寿限無と変わらないので、略すのもやむをえないかもしれません。でも、セカオザのほうが略語としての品格はありますな、だれも知らんけど。

こういう省略形になっても固有名詞という扱いになるのでしょうかね。固有名詞という概念はどうもあまりかしこくないようで、なぜ普通名詞とわざわざ区別しようとしたのでしょうか。個体につける名前が固有名詞で、種類につける名前は普通名詞とする、という区分はまったく無意味です。「日本」は国名なので固有名詞ですが、「日本人」はどうなのでしょうか。英語なら一文字目が大文字になるから固有名詞とするのでしょう。でも、「サクラ」のように「種類名」は普通名詞なので、「日本人」も普通名詞になるはずです。「アメリカ」は固有名詞ですから「米国」も固有名詞のはずです。では「日米」は? これが固有名詞であるなら「日米関係」という名詞は? 同じく「日本風」はどうなのでしょうね。「日本食」は? これが固有名詞で「和食」が普通名詞であるとするなら、ばかばかしすぎます。

他と区別するために個人を呼ぶものが固有名詞であるとするならマイナンバーとか背番号はどうなのでしょうかね。単なる数字であって名詞ではないとすることもできますが、数字だって場合によっては「個性」をもつことがあります。どこかの学校の先生が「18782+18782=37564」を「いやなやつが二人いたら、みなごろし」とか言って問題になったことがありました。「777」なんてのは好まれる数字ですから、数字にだって個性があるといえます。ましてや自分の姓名であれば個性そのものかもしれません。

ただ「夫婦別姓」を主張する人の理由に、名前は自分の個性だというのがありますが、それはどうもなあという気がします。新しい名字になっても、その人の個性が消えるわけはないでしょう。とってつけたような理由を言うのではなく、名字が変わるのはいやだからだめだ、と言ってくれたほうが、よっぽどすっきりします。夫婦別姓が古くからあった例として源頼朝と北条政子を持ち出す人もいますが、政子は平氏ですから、本来は平政子で、「北条」はいわゆる名字ということになります。一方の頼朝の源は氏の名ですね。頼朝の名字は何だったのでしょう。「源」はあくまで「源氏」の一族であることを表すもので、名字ではありません。叔父の行家などは「新宮十郎行家」と呼ばれましたし、先祖の満仲も「多田満仲」と呼ばれたので、これは一種の名字と見てよいでしょう。住んでいるところやゆかりのある土地の名が名字になるわけですね。ということは「伊豆頼朝」とか「蛭ケ小島頼朝」とかの名字があってもよさそうですが、なぜか「源頼朝」です。名字を名乗らないのは、うちが「本家」だという意識ですかね。清盛の家も平です。藤原氏の場合は多すぎて、どれが本家かわからなくなってしまったのかもしれません。道長の子孫も九条、二条、一条、近衛、鷹司に分かれて、藤原と名乗らなくなります。ということは、いま藤原と名乗っている人は直系ではないということでしょうね。

これは前にも書いたような気がするのですが、夫や妻の名字を名乗るのがいやなら、夫婦別姓ではなく、新たに「ファミリーネーム」を作ればよいのになあ。ただ、変な名字を作る人もいそうです。「ああああ」とか「うん〇」とか。ファミコンでも規制されてたなあ。

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