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2022年9月の2件の記事

2022年9月28日 (水)

今こそ島への愛を語ろう①~台湾その1~

 只居ても腹は減る也春の雪   井月

 今は昔の話ですが、何もしたくなかった私は、ずるずると七年半近く(十八歳から二十五歳まで!)仙台にいました。「何もしたくなかった」というのは、今となってはそう思うという話で、仙台にいた頃の自分は、わしにはやりたいことがある! と信じていました。「ほしいものがほしいわ」という当時のパルコのコピーふうにいえば、「やりたいことがやりたいのだ」って感じでしょうか。「で、何がやりたいのだ」と自問すると、そのときどきで場当たり的な答えしか出てこないという、なかなか不毛な青春ではありましたが、開き直って、この不毛さこそ近代的自我の証やんけ!とかいーかげんなことを言うてました。一応演劇はやってましたが、あらためて考えてみれば、ほんとうに舞台がそんなに好きだったのか疑問です。なんだか多少の縁があってやることになったので、これこそわしのやりたいことだと思い込もうとしていたようなところがあります。
 絶対にしたくなかったのは仕事、つまり働くことです。就職しないまま大学を卒業してぼんやりしていると親からの仕送りも途絶え、やむなくアルバイトをして糊口をしのいでいましたが(親には「ふーてん」と呼ばれていました、当時は「ぷーたろう」といういい方もありました)、働かなければ生きていけないとはまたなんという不条理かと正直思っていました。旧約聖書の、アダムとイブがエデンの園を追放される話なんか読んで、やはり昔の人も「働かざる者食うべからず」という説教臭い命題に不満があって、それでこんな話ができたんだろうなと思っていました。
 サルが木の実や昆虫を食べたり、ライオンがシマウマを食べたり、ミミズが土を食べたりするのは労働でしょうか。栗本慎一郎(古い!)は労働だといってたような記憶があります。それを労働とみるならば、確かに「働かざる者食うべからず」を不条理というわけにはいかないでしょうが、彼らがやっていることは人間の労働とはずいぶんちがうような気もします。だって彼らは食うために苦労して働いているわけではなく、ただ苦労して食っているだけです。こういってよければ、彼らにとっては、「食べること」=「働くこと」です。さらにいえば、「食べること」=「働くこと」=「生きること」です。ぴったり重なっています。に対して、「働かなければ食べていけない」とか「食うために働く」といってしまった瞬間、「食べること」と「働くこと」は分離してしまいます。飛躍をおそれずにいえば、人間の不幸の少なくとも一部分は、目的と手段が分離してしまったことに起因しているのではないでせうか! いや、目的と手段だけではないかもしれません! 本来ひとつに重なっているべきことを何かの便宜のために分けて考えるようになったのがすべての不幸の源なのでは!? すいません、飛躍してますね、きっと!
 一方で、大学のサークルでマルクスの『資本論』を読んだりもしていて、マルクスの労働観にも惹かれるものがありました。マルクスは、頭の労働と手の労働が分離することによって労働は苦痛なものになるという意味のことを書いています(おお、ここにも「分離」が!)。工場で機械にとりついて働いている人々、生産計画に参画できずただただ手を動かし続けるだけの労働を強いられている人々のイメージですね。逆にいえば、それが分離していなければ労働は苦痛なものではないということになりましょうか。働くことは単なる苦痛ではなく、喜びにもなりうるということですね。当時の僕は働く喜びを知りませんでしたが、頭の労働と手の労働を分離させてはいけないという考え方は心に残りました。
 仙台に住んでいたにもかかわらず、仙台にゆかりのある詩人、尾形亀之助のことを当時知らなかったというのは、かなりの痛恨事です。亀之助を知ったのは、何かを諦めて帰阪し就職してからのことです。もっといえば、塾講師の仕事に本格的にやりがいを感じるようになった頃からです。それと同時に亀之助に惹かれ、少し遅れて井月の俳句に出会いました。
 亀之助ははっきりと「働かなければ食べていけないとはこのことかと、餓死して見せたっていいのだ」と、かなり振り切った(というか、いかれた)ことを書いています。井月は、ご存じの方は少ないと思いますが、幕末にどこからともなく尾羽打ち枯らした浪人の風体で長野の伊那に飄然姿を現し、そのまま死ぬまで伊那に住み着いた俳人です。

 落栗の座を定むるや窪溜り   井月

 書は後に芥川龍之介をして「神韻あり」とまで言わしめたほど、俳句の宗匠としても一流だったので、はじめのうちは大事にされたようですが、いつまでも居続けるのでだんだん疎まれるようになり、晩年は「乞食井月」と呼ばれ、近所の悪ガキに石をぶつけられるような存在になっていたそうです(後ろから石をぶつけられて頭から血を流しながら、ふり向きもせずに歩き続けていたという話です)。

(中略……いろいろ書いたのですが読み直して削除しました、てへ。井月も亀之助も毒が強すぎます)

 夏深し或る夜の空の稲光  井月

 僕が井月の言葉づかいで好きなのは、たとえば、冒頭の句の「只居ても」とか、この句の「或る夜」とかです。何もしたくなかった井月、何もしなかった井月、自分の人生を俯瞰していた井月を感じます。「只居ても」の句は、一茶の「むまそうな雪がふうはりふはりかな」を下敷きにしているのかなとも思いますが、なんというか、一茶には健全な食欲があるのに、井月は空腹は感じても健康な食欲は持たなかったのではないかという気がします。春の雪を見て一茶の句を思い出しはしても、「むまそうな」とは思わなかったのではないかなと思います。

 えーと、何の話でしたっけ? そう、台湾の話でした。何で井月の話なんかしてるんでしょう? 台湾に行った話をしようとしていたのですが、どう切り出していいかわからずすごく遠いところから話し始めたらこんなことになってしまいました。というわけで、台湾の話は次回、その2で!

2022年9月11日 (日)

有栖川宮詐欺事件

歌舞伎では、演者は違っても、基本的なセリフや動きは以前からのものが踏襲されます。ところが、たまに、その型を大きく変える人が出てきます。いわゆる「型破り」というやつです。落語にも講談にも『中村仲蔵』という演目があります。歌舞伎の世界では、血筋がものをいうのですが、そういう背景のない中村仲蔵という役者が、なんとか出世をして、『忠臣蔵』五段目の斧定九郎という役をふられます。これがあまりいい役ではありません。五万三千石の家老の息子なのに、どう見ても山賊の風体で、だれも見てくれません。なんとか工夫をしようと思って、神参りをつづけたある日、雨に降られて、そば屋で雨宿りしていると、浪人が駆け込んできます。その姿にヒントを得た仲蔵は、芝居の当日、前もって頭から水をかけ、その水を垂らしながら見得を切ると、場内は水を鬱打ったような静けさになります。失敗したと思った仲蔵は、江戸から逃げだそうとしますが、師匠に呼ばれて行ってみると、師匠は、あまりにすばらしさに客が声を失ったのだと仲蔵の工夫をほめてくれる、というストーリー。新しい「型」が生まれた瞬間を描いたお話です。

「忠臣蔵」の元になった赤穂浪士の事件についても、新発見があったと、所ジョージの番組でやっていました。討ち入りをした一人、近松勘六の家臣の家に伝わる文書が見つかったとか。吉良邸に討ち入って上野介の首をとったのですが、実はこれで終わったわけではないというのです。その首を高輪泉岳寺へ持って行ったのは、単に亡き主君にお目にかけるためではなく、最終目的は墓石を主君に見立て吉良の首に手を下させるということでした。脇差を墓の石塔に置き、名乗ってから焼香をし、脇差を取って上野介の首に三度当て、脇差を元にもどして退くという「儀式」を一人ひとりがやったというのです。つまり、墓石を生きている主君に見立てて、吉良の首を取らせたということです。浅野内匠頭の辞世の歌は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」というもので、「風にさそわれ散っていく花も春を名残惜しいと思っているだろうが、もう二度と見ることのない春を名残惜しく思う私はどうすればよいのだろうか」というような意味でしょう。吉良上野介を討ち果たすことのできなかった無念さがにじみ出ていますが、浪士たちの行動はその無念の思いに対する「返し」の行為だともとれます。

古文書一つで定説や解釈が変わることがあるのですね。もちろん、これだけでは決定的証拠とはいえないかもしれず、傍証も必要でしょう。ただ、歴史学者が証拠にこだわるのも、こういうことがあるからです。小説家なら「空想」で自由に考えられるでしょうが、学者はそうはいきません。残っている文献から、ある程度「推理」できることでも裏付けがないと、「空想」だと言われます。その意味で、たとえば井沢元彦の『逆説の日本史』は、歴史学者から見たら「空想」になるのでしょう。いくら合理的な解釈に見えても「定説」にはなりにくいのですね。

ただ記録に残してはまずいものなどは文書として残らないのが当然で、そういうものは「推理」するしかないでしょう。今の時代でも、たとえば「モリカケ」や「桜を見る会」の真相がどうなっているかはわかりません。あったと言うからには証拠をださなければなりませんし、ないと言うほうは「悪魔の証明」で、ないものは証明できないと言います。殺人事件でも冤罪があるぐらいですから、「真相」というのは容易にわかるものではありません。信長殺しの真相は永遠の謎かもしれません。大河ドラマで光秀を主人公にすると聞いたときには「真相」をどうするつもりかと思いましたが…。

あのドラマでは、新型ウィルスの影響やら、濃姫役の沢尻エリカの降板やら、いろいろトラブルがありました。沢尻エリカの代役は誰がよいか、というアンケートもよく見ましたが、なんと「安倍晋三」という答えもありました。長い髪のかつらをかぶった安部さんの姿を思い浮かべると笑えるのですが、意外に似合っていた気がしないでもありません。歌舞伎では男が女を演じるのはあたりまえですが、アップの顔が映し出されるテレビではなかなか苦しいものがあります。女が男を演じるのも同様ですが、昔、大河ドラマの『太平記』では後藤久美子が大塔宮を演じていました。きりっとした若武者という感じで評判は悪くなかったと思います。

この「大塔宮」というのは、後醍醐天皇の皇子である護良親王のことですが、「大塔護良親王」をどう読むかが問題です。「だいとうのみやもりながしんのう」で覚えていたのですが、後藤久美子は「おおとうのみやもりよししんのう」と呼ばれていました。「大塔」を「おおとう」と読むと、いわゆる湯桶読みで、やや不自然ですし、高野山の「根本大塔」も「こんぽんだいとう」ですから、「だいとう」と読みたくなります。ところが、何かの史料で「応答宮」と書かれているのが見つかって、「おおとう」が正しいということになったようです。「護良」も「良」を「なが」と読むのはよくあります。比較的新しいところでは、昭和天皇の皇后は「良子」と書いて「ながこ」だったはずです。ところが、これも何かの史料で、「護良」の兄弟でやはり「良」の字を使っている人がいて、これにたまたま「よし」というふりがなが書かれていたそうな。兄弟で読み方がちがうことはないだろうということで、「もりよし」に決まったようです。

よく幕末から維新のころを描いたドラマで、官軍の行進にあわせて「宮さん宮さん お馬の前にひらひらするのは何じゃいな あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃ知らないか トコトンヤレトンヤレナ」と歌うのがあります。日本最初の軍歌であり、日本最初のマーチでしょう。作詞は品川弥二郎、作曲は大村益次郎ということになっています。この歌詞に登場する「宮さん」は有栖川宮熾仁親王です。和宮と婚約していたのに、徳川幕府の公武合体政策によって、和宮は14代将軍家茂と結婚することになります。最終的には、徳川家をつぶしたい薩長の挑発に乗ってしまった旧幕府軍は戦端を開き、戊辰戦争が勃発します。このときに熾仁親王は自ら東征大総督となることを志願して、勅許を得ます。その新政府軍が東海道を下ってゆくときに歌われたのが「宮さん宮さん」ですね。のちに詐欺事件として名前が使われることになるとは、宮様、夢にも思っていなかったでしょう。

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