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2022年11月 4日 (金)

古墳に墓参り

有栖川宮詐欺事件とは、二十年ぐらい前に、有栖川宮の名を詐称して偽の結婚披露宴を開催して、招待客からご祝儀をだましとったという、ちょっと笑えるような事件です。有栖川宮家は跡を継いだ弟の代で断絶しているのですが、平成の時代でも有栖川宮という名前の威力は大きかったのですね。芸能人など、なんのつながりもないのに、宮様から招待されたと思って出かけていった人が結構いたようです。ちなみに有栖川有栖という、ふざけた名前の小説家がいますが、もちろん本名ではありませんし、有栖川宮とも何のつながりがあるわけでもありません。自分の通っている同志社大学の近くに有栖川邸跡があったので、それをペンネームにしたらしい。下の名前は、「不思議の国のアリス」も意識したようです。

ところで、有栖川宮率いる東征軍の行進は「ナンバ歩き」だったのでしょうか。これは、右手と右足、左手と左足をそれぞれ同時に出す歩き方で、よくわかるのは歌舞伎の「六方」ですね。弁慶が同じ側の手と足を動かして花道を飛ぶように歩いていきます。江戸時代の忍者や飛脚は、一日に50里の距離を走ったと言います。単純に一里を4キロと考えても、200キロになります。フルマラソンが、42.195キロで、走ったあとフラフラになっているのですから、これは驚異的な距離です。ただ、左右の手足が同時に出るナンバで走ると、体をねじらないし、大きく手も振らないので、余計な力を使わずにすんで疲れにくいそうな。

秀吉の「中国大返し」のときもナンバだったのでしょうが、幕末から明治のかけての軍隊となると、外国式の軍事調練をしていそうです。ということは現在のように、右手と左足、左手と右足を同時に出す行進だったのでしょう。東征軍は「ナンバ歩き」ではなかったと考えるべきかもしれません。「外国式」と言いましたが、政府軍ならイギリス式、幕府軍ならフランス式という違いがあったようです。ただし、フランス軍というのは実は弱かったそうです。ナポレオンだけが突出して強かったのかなあ。それ以降、普仏戦争も第一次大戦も第二次大戦も負け続けています。「戦えば負けるフランス軍」などと悪口を言われますが、どれも相手がドイツで強すぎたから、ということもあるでしょう。

日本では戦国時代最強と言われたのが上杉謙信率いる越後兵ですが、対抗する甲斐の武田兵にしても共通する弱点がありました。彼らは基本的には農民なので、稲刈りの時期は使えなくなるということです。戦争が長引いても、秋になると兵をひかざるをえなかったわけです。弱かったと言われる尾張の兵を率いた信長が勝利を収めていくのは専業武士団を作ったからであって、それまで武士の実態は農民だったのですね。そのあたりは大河ドラマの『鎌倉殿の13人』を見ているとよくわかります。源頼政の挙兵が失敗したあと、伊豆国の国司の座は平時忠に移り、目代として山木兼隆が赴任します。大河の初めのほうで、北条時政は義時を連れて、兼隆に挨拶をするためにやってきますが、兼隆の代わりに対応したのが後見の堤信遠でした。そのとき、時政は手土産として野菜を持参するのですね。ところが、信遠は野菜を踏みつけて、ナスを時政の顔に擦りつける、という場面がありました。自分の土地でとれた野菜をもっていくあたり、武士の本質は農民だったのだと感じさせられます。だからこそのちに刀狩までして「兵農分離」をしたのでしょうね。

「一所懸命」ということばが示すとおり、武士が土地に命をかけたのもうなずけます。名字が地名になるのも土地との結びつきを表すためだったかもしれません。そうすると、徳川幕府の命令による移封は彼らにとってはつらかったでしょうね。江戸期になると、そこまでの土地との結びつきはなかったでしょうし、移封後の年月が重なるにつれて、その土地の気風と結び付くということはありました。上杉家は秀吉の時代に越後から会津120万石に移され、関ヶ原で敗れたあと、米沢三十万石に減封されます。苦しい財政を建て直したのが、十代目藩主の上杉鷹山ですね。「為せば成る為さねば成らぬ何事も成らぬは人の為さぬなりけり」は、鷹山が子供にのこした言葉です。米沢という土地との結び付きから生まれた言葉でしょう。上杉家は今でも残っています。ちなみに、現在の上杉家の当主は有名な宇宙工学博士ですね。

秀吉の軍師と言われた黒田官兵衛の家はもともと備前国の福岡というところの出なので、関ヶ原の戦功で筑前国を与えられたとき、それまで博多と呼ばれていた地域に城を築き、祖先の地にちなんで福岡城と名付けます。那珂川をはさんで城下町のほうを「福岡」、反対側を商人の町として「博多」と区別していたのが、明治になって統合されます。そういういきさつのせいか、博多の人々は黒田家をあまり好きではなかったと言います。黒田家とは土地との結び付きがうまくいかなかったということとでしょうか。

八幡太郎源の義家の弟である新羅三郎義光の子孫が甲斐に土着したのが武田氏で、常陸国で栄えたのが佐竹氏です。秀吉の時代には五十万石を超える大大名として認められますが、のちに関ヶ原で中立的な立場をとったために、出羽国への国替えを命じられます。こうして佐竹家は江戸時代を通じて、久保田藩を支配することになります。久保田藩が秋田藩と改称されるのは、実は明治になってからですが、その秋田県の知事を務めているのが佐竹敬久さんですね。つまり昔の殿様の子孫が、今でも県のトップになっているわけです。そういえば井伊家の子孫も彦根の市長になっていましたね。

そう考えると、江戸時代はけっして古くありませんし、歴史の流れというものは途切れずにずっと続いていることがわかります。昔からの連続性ということで言えば、たとえば古墳は単なる遺跡ではなく、天皇家にとっては祖先の墓ということになりますね。エジプトのピラミッドとは、ここが決定的に違います。もちろん、一般庶民が先祖の墓参りをするように天皇が仁徳天皇のお墓に毎年墓参りに行くということはないでしょうが…。いや、行っているのでしょうか? いずれにせよ、一般庶民とちがって、天皇家は先祖のお祀りも大変なようです。

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