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2023年1月の2件の記事

2023年1月22日 (日)

「きらず」は卯の花

前回のタイトルは「ディスる」の「ディス」はまさか「ディス・イズ・ア・ペン」の略ではないわな、という意味でしたが、調べてみるとどうやら「ディスリスペクト」らしい。そりゃそうでしょう。「ディスカバー」や「ディスカウント」では意味が通じない。いずれにせよ「ディス」には打ち消しのニュアンスがあります。「ディスカバー」は「カバーを外す」すなわち「発見」ということですね。

略語にしたときに元の言葉とは形が変わるものもあります。「スマートフォン」の略なら「スマフォ」です。いやいや「スマートホン」の略です、と言われれば「あ、そう」と答えるしかないのですが。「パニクる」も「パニックる」でしょ、と言いたいのですが、たしかにこれは発音しにくい。江戸時代にもなかなか大胆な略語がありました。「ちゃづる」なんて、いったい何のことだかわかりませんが、漢字で書くと、「茶漬る」となって、なるほどです。「茶漬けを食う」を「茶漬る」。

無意味に見える言葉にも、実は意味があるというものであるなら言霊が宿っても不思議はありません。では、本当に無意味な口癖のようなものはどうでしょう。たとえば「逆に」「て言うか」「要は」「早い話」なんて、よく使いますが、ほとんどの場合、無意味なことばになっています。「逆に」と言いながら何の逆にもなっていない。「早い話」と言いながら、かえって回りくどい言い方になっていたりします。「えーと」とか「まあ」とかもよく使う人がいます。この二つはどう違うのでしょうね。「えーと」はすぐにことばが出てこない感じがします。実際に出てこないこともあるのでしょうが、あえて使うことによって、実はちょっと言いにくいというような雰囲気をつくり、ストレートな物言いを避けていますよ、ということを伝えている場合もあります。そうなると「まあ」と同様に、ズバリ言わない「婉曲語法」の一種と見なしてもよいのかもしれません。そうなってくると、全く無意味な言葉というわけでもなさそうです。

世の中には「意味がありそうで実はない」、あるいは反対に「意味がなさそうで実はある」なんて言葉があるようです。さらに言えば「無意味な話」というのもあるかもしれません。天気についての話題なんて無意味なようですが、場つなぎの役割を持っていることもあります。では「笑い話」なんてのはどうでしょう。たわいない笑い話、「あなたはキリストですか」「イエス」のレベルの。こんなのはワハハと笑って終わりで、無意味といえば無意味です。でも、たわいないからこそ、瞬間ではあるものの楽しい気分になれます。たわいないからこそ私は好きです。

怪談なんてのはどうでしょうか。聞いて何のメリットがないにもかかわらず心ひかれるものがあります。怪談がブームだと言われて久しく、YouTubeなどでも怪談ものが人気のようです。本の形でも地味に出続けています。『新耳袋』というシリーズものがありました。今風の怪談を百物語形式で集めた本なので、短い話ばかりですが、結構インパクトのあるものも多く、なかなか面白いシリーズでした。タイトルの元となったのは江戸時代の南町奉行、根岸鎮衛の書いた『耳袋』という本です。根岸鎮衛は臥煙出身だったという噂のある人物で、臥煙というのは文字通り「火消し人足」のことです。そういう人の中には乱暴な者も多かったようで、臥煙イコール無頼漢というイメージもあり、根岸鎮衛も全身に刺青を入れていたとか。そういう意味で、「遠山の金さん」に近いところがあって昔から小説やテレビの時代劇で題材とされてきました。落語の「鹿政談」にも登場します。

奈良三条横町で豆腐屋を営んでいた与兵衛さんが、売り物の「きらず」を食べていた犬を殺してしまいます。「きらず」というのは「おから」のことで、豆腐と違って切らずに食べるということから来たそうな。ところが犬だと思ったのは実は鹿、奈良で鹿を殺すと死罪になります。そのお裁きを担当した奉行が根岸鎮衛で、何とか助けてやろうと思い、鹿の遺骸を見て、「これは角がないから犬だ」と言います。ところが、鹿番の役人が「鹿は春になると角を落とします」と異議を唱えます。根岸鎮衛は、「幕府から下されている鹿の餌代を着服している役人がいるという噂がある。鹿の食べるものが少なくなって、空腹に耐えかねて盗み食いをしたのかもしれない。鹿の餌代を横領した者の裁きを始めよう」と言いだします。身に覚えがあった役人が、犬であることを認めて一件落着。根岸鎮衛が与兵衛に「斬らずにやるぞ」と言うと「マメで帰れます」と答える、今時通じにくいオチ。

ただ、奈良奉行を根岸鎮衛としたのは三遊亭圓生だったらしく、桂米朝は川路聖謨にしています。根岸は奈良奉行を務めたことがなく、川路は実際に務めたようで、講談でも川路になっています。いまの神田伯山が、この話は面白くないと言いながらやっていました。宮部みゆきの『霊験お初捕物控』のシリーズでも、主人公のお初の理解者として、川路が登場します。お初が解決した奇妙な出来事を川路が『耳袋』に記すという設定になっています。『耳袋』とはそういう本なので、さぞかしおもしろいだろうと期待して読んだのですが、怪談以外の豆知識みたいなものもいっぱい書かれており、ストーリー性のある怪談あるいは怪異談はそれほど多くはありませんでした。

中国には『捜神記』という本があります。4世紀ごろに書かれたもので、さすがに全文を読んだわけではありませんが、ジャンルとしては「志怪」と呼ばれるもので、この場合「志」は「誌」と同じなので「怪をしるす」という意味になります。ところが、これも必ずしも怪異談だけではないらしく、神話めいたものから、たたりとか予言に関する話以外にもとんち話やお裁きものも数多く載っているようです。「志怪」が進化すると「伝奇小説」と呼ばれるようになります。清代初期の『聊斎志異』となると、これは怪異談中心です。作者である蒲松齢は「聊斎」という号を名乗っているので、『聊斎志異』とは「聊斎が異をしるす」という意味になります。日本で「伝奇物語」と呼ばれるのも空想的、幻想的な傾向の強い物語ということで、平安時代の『竹取物語』『宇津保物語』『浜松中納言物語』などをさします。歌を中心とした『伊勢物語』『大和物語』などの「歌物語」との対比で使われることばです。でも、今なら「ファンタジー」と言うほうがぴったりかもしれないなあ。

2023年1月13日 (金)

「ディス(イズアペン)」?

前回の答えは「仏足石」です。お釈迦さまの足跡を石に刻み、それを前に置いてお釈迦様が立っている姿をイメージして祈ったそうな。こうすれば当然偶像をつくったことにはならないのでOKですね。お釈迦様は扁平足だったのか、平たい足跡の真ん中に円が描かれ、そこから放射状に線がのびています。足の指もなぜか長く、指の間に水かきのようなものがあったことを表すために魚の絵がかかれていたりします。インドだけでなく、日本にもあります。有名なのは薬師寺の国宝になっているもので、歌碑とともに安置されています。歌碑には五七五七七七の形式の歌が書かれており、これを仏足石歌と言います。

でも、いつのまにかイメージするのが面倒になったのでしょうか、仏像がつくられはじめます。立像だけでなく坐像もあり、涅槃像と呼ばれる、お釈迦様の寝姿をかたどったものもあります。寝姿というより、なくなったときの姿ですね。足の裏の模様を見ることもできるので、見る機会があれば是非どうぞ。大仏というと坐像を思い浮かべますが、大きな仏像であれば大仏なので、立像であってもかまいません。お釈迦様の身長が一丈六尺だったということになっているので、それに合わせた仏像を「丈六仏」と呼び、それより大きいものなら大仏です。坐像の場合はその半分の大きさですが、「一丈六尺」というのは約4.8メートルになり、いくらなんでもお釈迦様、そこまでデカいわけではないでしょう。ただし、時代によって「丈」「尺」の長さが変わるらしく、なんとも言えませんが。

有名な大仏といえば、なんといっても、奈良と鎌倉です。では、どちらが先にたったか、というしょうもないクイズがあります。答えはどちらもすわっているので「たって」いない、というもの。こういうばかばかしいクイズでもおもしろがる6年生は幼稚なのか純真なのか。では、今の奈良の大仏は何代目か、というとこれはきちんとした歴史クイズになりそうです。奈良時代に創建されたあと、源平合戦のころ平重衡によって南都が焼き払われ、後白河上皇の命令で重源により再建されます。ところが、室町時代にまたもや戦火に焼かれます。これは松永久秀ですね。『常山紀談』に、信長が久秀のことを「主家乗っ取り、将軍義輝暗殺、東大寺大仏殿焼失という三悪を犯した老人だ」と紹介したという話があります。そして綱吉のころに再建され現在にいたるので、三代目ということになります。ただし、江戸初期には木造銅板貼りで臨時にしのいだらしく、それを入れると顔は四代目だとか。

いずれにせよ創建当時のものではなく何度も修復されたものです。聖武天皇のころのものではなく、江戸時代のものだと言われても、ありがたく感じるのかと言われると困りますが、修復されたものであっても、人はみなありがたがって拝むのですね。いったい何が「ありがたい」のでしょうか。考えてみれば、銅か青銅かを素材にして、創建当初は金メッキをしていたようですが、要するに金属の塊にすぎません。それを素材にしてつくられた「形」を拝むわけですね。さらに言えば、その形にこもるであろう「魂」に祈るのでしょう。それは仏の魂であると同時に長い年月の間に積み重ねられた人々の思いがこめられたものです。いわば、形づくられた集合体の魂がありがたさの源なのかもしれません。

つまり、金属でできた像そのものがありがたいのではなく、人間の主観によってありがたさを感じているということですね。お経だって、ただの言葉です。それをありがたいと思うのは人の心です。逆に言えば、言葉で人をあやつることは意外に簡単だということでしょう。「呪」というのはそういうものです。この場合、「呪」は「のろい」ではなく「しゅ」と読みます。呪とは「ものの根本的なありようを決めることば」だそうです。最も短い呪は名前でしょう。固有名詞とはかぎりません。「先生」と呼ばれる人は、先生としてのふるまいを求められるし、自分でも無意識のうちに先生らしい行動をとろうと考えます。芸名もいかにも芸名らしい華やかな名前が多いのですが、その名に恥じないような行動をとろうとするでしょう。襲名という形で過去の立派な先輩の名前を譲り受けるのも、その人のようになりたいと考え、その人のようなふるまいをしていこうと思うのですね。「名は体をあらわす」と言いますが、体が名によって縛られるというほうがふさわしいかもしれません。古本屋兼拝み屋の京極堂が活躍する京極夏彦のシリーズにはいつも呪が登場します。というより、それがむしろ主題になっています。京極堂が憑き物落としをすることで、その呪は解かれ、結果的に妖かしも消えます。

子どものときにきつく言われたことばがトラウマになることがあります。これも呪でしょう。逆に、いい方向に自己暗示をかけることによって、自分自身が変わっていくこともあります。イメージトレーニングというのも同様でしょう。特に、日本人の場合、言葉を使って呪をかけるのが有効なのは言霊信仰のせいかもしれせん。また、真言というものがあります。「真実の言葉」という意味で、サンスクリット語では「マントラ」と呼ばれます。マンは「心」を意味し、トラは「解放」という意味らしいですね。たとえば「ノウマク・サンマンダ・バサラダン・センダン・マカロシャダヤ・ソハタヤ・ウンタラタ・カンマン」と唱えるだけで心が解放され、それがきっかけとなって最終的に災難や苦難から逃れられることになります。

ただ、日本人には真言の言葉の意味はわかりません。それでも威力があるのですね。極端な場合、お経の中身を知らなくてもお経のタイトルを唱えるだけでも効果があるとされてきました。「南無」「妙法」「蓮華経」と言うだけでもよいというのはすごいことです。ということは略語でもOKということでしょう。「あけおめ、ことよろ」なんてひどいことばでしたが、実は新年を祝う気持ちは言霊として十分宿っていたのですね。単独で「ことよろ」なんて言われても何のことだかわかりませんが。「あけおめ」とセットなら「今年もよろしく」だなとわかります。略語の中には元の形がわかりにくいものがありますね。筋トレなどはよく使いますが、「筋力トレーニング」なのか「筋肉トレーニング」なのか。「ディスる」の「ディス」は何の略なのでしょう。

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