「レミーのおいしいレストラン」という映画の話の続きです。
前回は、荒唐無稽な物語の設定について書きましたが、受験生へは「好意的に読め」というメッセージを送りました。物語の設定にけちをつけ始めると、芸術にはすべてけちがつくからです。かの西郷竹彦先生の言を借りるなら「現実を踏まえ、現実を超えるのがフィクション」です。
今回は、この映画においてスパイス的な存在である「アントン・イーゴ」なる料理批評家の話。
料理人を志す主人公のネズミの憧れであるシェフ・グストーは、この批評家の酷評がもとで憔悴し命を落とします。はからずもその批評家イーゴとレミーの料理対決となるわけですが、結果はレミーの圧勝。
レミーが作った「ラタトゥイユ」は、イーゴの心を強く動かし、「シェフに讃辞を述べたいと思うのは何年ぶりだろう」とまで言わせます。
この映画の原題でもある「ラタトゥイユ」は、フランスのごくありふれた家庭料理で、「おふくろの味」というやつだそうです。
日本にはすぐれた料理漫画「美味しんぼ」があるので、素朴な料理が舌の肥えた批評家を唸らせるという展開はさして目新しくないのですが、私が心惹かれたのはイーゴの独白です。
不確かながらだいたいのセリフを。
「批評家というのは気楽な稼業だ。辛口の批評は書くのも読むのも面白いし、商売にもなる。しかし、批評家の批評は、三流と言われる料理よりも存在価値がないことも認めるべきだ。」
おいおい、ネズミの可愛さにひかれてこの映画を観る子どもがこれを理解できるわけないよな。と思いつつ、この独白に価値を感じました。
母が「批評家にだけはなってほしくない」と口癖のように戒めて言っていたのを思い出しました。
辛口の批評というよりも、「けなす」だけが目的の批評もどきがなんと多いことよ。
相手を批判しけなすことで相対的に自分の価値を上げる。そういう輩の多いことよ。
世間がなかなか認めない価値を口にするには勇気が必要。
だれかの業績を妬んでこき下ろすのは痛快で溜飲が下がるものです。
批評の対象に愛情を持たずに非難し批判するのは独善的で、単なる悪です。
自戒をこめて。
勇気をもって、価値を見いだし、ほめることが育てる側には必要なのだと改めて思い至りました。なんか、日本の不況脱出のカギも、もっとみんなで「ほめ合う」ことのような気がしました。
こういうことを書くと、「夢想家」「いい子ちゃん」「偽善」のようなそしりもありそうですが。
イーゴがレミーのラタトゥイユをほおばった瞬間に少年時代を回想する場面、友だちにいじめられてべそをかいて家のドアを開け、母親のラタトゥイユをほおばる場面に、なぜか大いに共感しました。こういうのに弱いなあ。いかにも、なのに。
パリの夜景がとても美しく、それだけでもこの映画の価値は十分な気がします。
]]>入試が始まり、希っ子たちも次々と人生初めての中学入試に臨んでいます。
希学園では、「当日激励」を行っています。大学入試や高校入試を受ける人たちとはちがい、中学入試はまだ11歳・12歳の可愛い可愛い子どもたちです。
入試当日にどういう声をかけるか。100人を超える入試激励から、私と生徒1人だけの入試激励までさまざまな当日激励の場を経験しましたが、これほど難しいものはないように思います。
国語の先生として、一つアドバイスを。それは、
「文章は好意的に読め!」
です。なんか「!」などつけてエラソーな感じで恐縮ですが、戦いに臨む人へのアドバイスが、
「~た方がいいかなあ」「~してみれば?」
のような及び腰であっては役に立たない。という信念のもと、あえて偉そうに書きました。ただしピンクの文字で。
ここでなぜか「レミーのおいしいレストラン」という映画の紹介です。
またまた子ども向きの映画か。という向きも我慢してお読み下されば幸い至極です。
山下師匠のように30字要約はおこがましいので、50字くらいならなんとかなるかも。いや、古い文体の方が圧倒的に短くなるので、その手で要約をいたしてみますと、
「人語を解し嗅覚味覚に優れたる鼠、仏蘭西にありけり。食物を調理すことを志し人を助け仏蘭西料理店を開くに至る。」
となりましょうか。漢字って便利!「フランス」が3字で書けるんですから。
閑話休題それはさておき。
なんせ設定が荒唐無稽。ネズミが料理をしちゃいます。ついつい私などは、「いったい脚本家は、どうやってネズミが料理をする必然的・合理的な状況に持っていくのだろう」というところに興味を持ちました。
そもそも、「ありえないこと」が起こるのが物語にはつきもので、私などは小さい頃それがいやで童話などを読まなかった経験があります。魔法なんかがあれば強引なストーリー展開ができるからです。
この映画でも、非常にご都合主義的な展開、いわば「ツッコミどころ」が満載で、
「おいおい、どんくさいはずのリングイニ(主人公のネズミの手足となる人間)が、いきなり光GENJIばりにローラースケート履いて超人的な動きを見せて接客しとるやんけ!」
なんてことになります。
でも、そういうことは枝葉末節として、お話全体として描こうとしている主題のようなものを観ようとしなければ、映画そのものが楽しめない。
批判的に文章を読むことも、読解力を養う過程では必要な面もありますが、こと中学入試という場面で出された文章に対しては、作者や筆者、もっと言うと問題作成者の意図にそって読むことが求められているのですから、批評家の自分は押さえておいて、まずはよい観客となって読む方が、出題に対して素直な気持ちで臨めるのではないかと思います。
批評家というと、この映画には実に興味深い人物「アントン・イーゴ」なる孤高の批評家が登場しています。この人物が実によいスパイスとなってこの映画の味を引き立てています。その人物のどこに私が惹かれたかは次の回で。
受験生の皆さんが実力を遺憾なく発揮することを望みつつ。
つづく
]]>あけましておめでとうございます。
今年も、地球は太陽の周りを回ります。太陽までの平均距離がざっと1.5億㎞なので、直径3億㎞の円周上≒約10億㎞を365日で一周するわけです。時速に換算すると10万㎞以上!
凄く速い乗り物に乗り合わせた乗客同士で、今年も少しでもよい席をと奪い合いがあるわけです。「宇宙船地球号」といううまいことばを考えたのは誰だったでしょうか。そういう視点で考える一年の初めでありたいもんです。
電車や路線バスなどでは、乗っている客同士で連帯感なんてあまり生まれないもんですが、長距離のバスや海外路線の飛行機などに乗って降りると、到着地でうろうろしていて、ばったりあったときに「あ、同じ便に乗ってた人!」なんて不思議な親近感を持つものですし、邦人のあまりいない異国の地で会った日本人には、同胞よ!と言いたくなるような感情を持つものです。
人類が連帯するためには、地球規模の危機や地球外生命体との遭遇なんてイベントが必要なのかもしれません。でも、そんなイベント実際にはあってほしくないので、そこでSF映画やパニック映画の役割があるのかもしれないなと考えています。
「アポロ13」という映画がありました。主演は人によって好みの分かれるトム・ハンクス。
前回のレビューでは、人物の「たい」に注目するという話をしましたが、この映画もストーリー自体はシンプルで、「月へ行きたい」が「地球へ生きて帰り(帰らせ)たい」に大きく転換するところが見所でしょうか。
トム・ハンクス主演の他の映画では「ターミナル」「キャスト・アウェイ」が私の好きな映画です。でも、この映画ではゲイリー・シニーズの渋い演技も見てほしい。この人は、トム・ハンクスといくつかの映画で共演しています。ゲイリー・シニーズは「ミッション・トゥ・マーズ」という映画で月どころか火星に行く宇宙飛行士の役で主演を果たしています。
地球から約38万㎞のところにある月。今年の大晦日から元日にかけて、ほんの少しだけですが「月食」があったことをご存じだったでしょうか。地球の影がわりとくっきり映るくらいの距離なんですね。地球一周が4万㎞ですから、地球を九周半くらいのところなんで、結構いけそうです。40年以上前にアポロ計画のサターンロケットは月へ5回も人を送り込んでいたわけですし。当時のアポロに搭載されていたコンピューターの性能は、現在掃除機や炊飯器などの制御に使われているコンピューターチップ程度で、ニンテンドーDSに入ってるチップの方が何千倍も高速度で大容量だとか。
どうして今の技術がありながら再び月へ行かないのか? その疑問はこの映画を観てもすっきりしません。技術じゃなくて政治・経済の問題なんでしょうか。
アポロ13号は11号の成功を受けて月へ飛び立つ3番目の宇宙船です。
「金メダリストは末永く覚えられるが、銀メダルの選手は記憶に残らない」
アメリカ本国でのアポロ熱はすっかり冷め、注目されなかった13号。そのあたりの描写に、なぜまた月へ人を送らないか、という答えはありそうなんですが、それでも疑問は残ります。
夢にお金がかけられない時代なんだ、という答えなら、少しさびしい気がします。
※前回のブログで映画「ファインディング・ニモ」を2000年の映画だったと書いていましたが、2003年公開の誤りでした。
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