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2010年8月の6件の記事

2010年8月28日 (土)

つじつまが合わない

またまた西川先生からパスが飛んできたのでここはしっかりつなげたいと思います。

「矛盾」の回の答えです。オチを説明するのは無粋なんですが。

>ところで栗原先生、前に書いてた「矛盾」の話の中の「矛盾」て何だったんですか?

「矛盾」ということば自体がこのエピソードで生まれたものなので、「お前の言っていることは矛盾している」と言うはずがないわけです。あしからず。

似たようなところでは、「地球は丸いのだ」なんかも、おかしいわけです。丸いということが一般的に知られるようになってから、「地球」という名になったはずでしょうから。

逆に、「英語は日本語や!」という一見矛盾した発言が正しいということもあります。

これは「『英語』という単語は日本語だ」と言い直せば矛盾していないのがわかりますね。

「矛盾」というと、

「貼り紙するな」という貼り紙

「静かにしろ!」という大声

「時間を大切に」という長い説教

なんてのもありますね。

ついでに、山下先生の書かれた6/30の回の「姓は安藤、名は慶三」なるタイトルで「?」となった方のために解説を。

これは、「自らことの姓名は、父は元京都の産にして、姓は安藤名は慶三、字を五光。母は千代女と申せしが……」という長い台詞の出てくる、「延陽伯」という落語からだと思います。やたらと漢語を使う女性をお嫁さんにもらうという話です。

こういう解説は「補足」ではなく「蛇足」というべきなんでしょう。再びあしからず。

2010年8月23日 (月)

強制終了

先入観や固定観念というものはだれしも持っているし、なかなか抜け出すことができません。ましてや「定説」などと言われると、無条件に信じ込むしかないのですが、「定説」って、ほんとに正しいのでしょうか。今まで「定説」とされていたことが、じつはまちがいでした、ということが何度もあったような気がするのですが。昔は「運動中は水を飲んではいけない」と言っていたのが、いつのまにか「飲まないといけない」に変わった、というようなレベルのものもありますし、自然科学や歴史の世界では枚挙にいとまがないのでは?

 むかし天声人語で「ほんとに地球はまるいのか」という内容のものがあり、あちこちの入試でよく出ていました。「学校で習ったのだから」という理由で地球がまるいと信じ込んでいるのは、「教会のえらい人たちが言っているのだから、地球はまるくない」と思っていた中世の人たちと変わらない、権威あるものを無条件に信じ込んで、いまでも「打倒ガリレオ」をやっているのではないか、という主旨の文章でした。では、教会の人たちにボコボコにされたガリレオは、そのとき何と言ったのでしょうか。「それでも地球はまわる」? いや、それもそう書いてある本を読んで信じ込んでいるだけでは? ボコボコにされたのだから、「いたい、いたい」と言ったという答えのほうが本当らしいような気もします。だいたい、有名人が言ったとされていることばはあやしいものが多いようです。ゲーテの死ぬ前のことば「もっと光を」は一見おっと思わせますが、じつは「暗ーい、カーテンあけてくれー」という意味だったとか。クラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス」も「少年よ大志を抱け」は名訳過ぎるという話もあります。そのあとに「このおいぼれのように」と続くので、これは「おれのようなじじいでもがんばっているのだから、おまえら若いもんはもっとがんばらんかい」のレベルで訳すべきだとか。「板垣死すとも自由は死せず」は板垣退助が言ったことばではなく、新聞の見出しだそうですが、そりゃそうでしょう、刺された瞬間、そんなかっこいいセリフははけまへん、私だったら「いたーい、いたーい、医者呼んでくれー」とさけぶと思います。

なにか一つのことが発見されて昔はこうだったんだと決めつけるようなこともよくありそうです。たとえばなんらかの理由でいまの文明がほろび、とんでもなく時間がたって、たまたま発掘された私の部屋だけを見て、「どう見てもこの部屋に住んでいた人は『おっさん』のようだが、小学生用のテキストがやたらある。むかしの人は『おっさん』になっても小学校へ行って勉強していたにちがいない」と結論づけたら、どうでしょう。私の部屋以外に同時代のものが発掘されなければ、それが「定説」になるかもしれません。「思いこみ」や「先入観」はこわいものです。「おっさん」である私に「先生、年いくつ?」と聞く不届きな生徒がたまにいますが、私は「18才」と答えます。「えー、うそー」とみんな言いますが、そのあとに「と、360か月」と続けると、納得してくれます(すんません、ちょっと少な目に言いました)。「何才と何か月」という言い方をすれば、「18才」はうそではなくなるのですね。ということは11才や12才の6年生とそう変わらない感じになるから妙なものです。きっと、彼らもちょっと年上の「おにいさん」ぐらいに思ってくれているのでしょう、はっは。

げんに、そういう「おっさん」をつかまえて、「マーシー」とか「やまぴー」とか、わけのわからん呼び方をされたことがあります。「……やまピーって、山下智久かオレは……って、そんなえーもんか」というのは「一人のりつっこみ」に分類されるでしょうか…。耕平ならコーちゃん、正(ただし)でター坊はわかるが、「やまピー」の「ピー」は何なのでしょうね、Pですか、「のりピー」のピーとはちがうの、「かきピー」と同じではないはずですが。むかし「サユリスト」というのがありました。吉永小百合の熱狂的ファンということですね。「コマキスト」というのは栗原小巻(のぞみの先生ではありません)ファンです。「イスト」は「主義者」なので、いちおう納得ですが、時代がたって、安室奈美恵の真似をする「アムラー」というのが出てきました。「アナウンス」は「アナウンサー」、「キャッチ」は「キャッチャー」になりますが、「アムロ」を「アムラー」にするのは無理があります。「アナウンサー」は「アナウンスする人」ですが、「アムラー」は「アムロする人」ではないので、よいのでしょうか。「アムロ」になりきれない残念な人は「アララー」と呼ばれたはずです。で、「ラー」が人を表す接尾語になったのか、このあと「~ラー」がやたらにはやりました。「マヨラー」は「マヨネーズ」大好き人間でしょうか。「ゲリラー」は何なのでしょう。腸の弱い人? (こう並べると、人のさいふをぬきとる人は「スリラー」、うまい、ざぶとん一枚、なんて言いたくなるのは「おやじ」ですかね)

まあ、こういうのは芸能界から出てくるのでしょうか。「ヤバい」という、「かたぎの衆」が使わないことばを肯定的な意味で使っているのをはじめて聞いたのはスマップの番組でした。それ以前から使われていたのでしょうが、それ以降、若者ことばとして定着してしまいました。さらにその応用編とも言うべき「ヤバクね」ということばも一時期よく聞きました。「しまうらのろーたー」ははやりませんでした……。でも、「業界用語」にはみんなあこがれるのでしょう。希の中だけでしか通用しない「業界用語」も「かっこいい」のですかね。「復テ」なんて一般の人にはわからないだろうし、「6ベ」「NK」「公開」「最レ」「宿プリ」など、不思議なことばオンパレードです。パソコン用語も不思議ですね。「立ち上げる」「初期化」など、いきなり記述の答案に使ったら確実に減点されることばを数多く発明しています。コンピューターそのものがもともと理系のすごい人たちによって作られたからでしょう。こういう人たちの理系の力は天才的なものなのでしょうが、国語の力は「困ったなあ」という人が多そうです。灘中へ行く人たちを見ていれば、驚異的な算数力と「破壊的」な国語力を持った人がよくいます。ときどき画面に出てくる「不正な処理が行われましたので、強制終了します」というフレーズなどはむかつきますよね。こんな日本語を考えた人はどういうセンスの人なんじゃー……ちょっと暴走しそうなので、強制終了します。

2010年8月18日 (水)

N120プロジェクト

どんなに国語が苦手な子にも、灘中の入試で120/200点とらせる

というのが、①Nで国語を担当するようになって以来の僕の念願です。

それから、

希学園①N生の受験者平均点(国語)が、灘中全体の合格者平均点(国語)を超える

というのも。

ふたつめの目標についてはあと3点ぐらいのところまで到達したんですが、そこから先が高い壁です。

今年こそやってやる!

というわけで、国語が苦手な子用の対策。

作戦その1

 ××を徹底的に×××させる

 (伏せ字が戦時中のようですね)

作戦その2

 ××がひとつかふたつの文章を用いて××問題に対応する力を段階的に身につけさせる

 (やはりうちの塾生以外には公開したくないので)

作戦その3

 ×××××××や××××、××語の問題に限定してスパルタ形式で徹底的に文章を読ませる

(もちろん重要なのは××の部分です)

ところで、以上のように書いてきて思ったんですが、僕はどうも「徹底」という言葉が好きです。

「徹底性の精神」という表現をカントが使っているのを読んで、つぼにはまってしまったんです。

「徹底する」というのは、「極端に走る」ということではなく、

手を抜かない、中途半端なことをしない、一貫する、

ということかと思います。

よその塾から希学園に移ってきた僕の抱いた感想が、「とにかくやることが徹底しているよな」ということでした。

希学園の精神であり、文化であり、風土なんだと思っています。

(西川)

2010年8月13日 (金)

小学生のときに読んだ本④

三島由紀夫『美徳のよろめき』

何がなんだかさっぱりわからず。

そもそもなんでこれを読むことになったのかもさっぱり記憶になし。

その後も三島由紀夫はあまり読んでいません。なんとなく食指が動かなくて。

高校生のとき、『潮騒』という純愛小説の舞台になった、神島という島にテントをかついで行ったことがありますが、これも『潮騒』を読んで行ったみたいと思ったのではなく、椎名誠の『わしらは怪しい探検隊』を読んだのが動機でした。いやはや。

昔の椎名誠はおもしろかったんですよ。『哀愁の街に霧が降るのだ』とか、『さらば国分寺書店のおばば』とかね。椎名誠や新井素子が、書き言葉の世界を広げていました。こんな言葉づかいで文章を書いてもいいんだ、と新鮮な気持ちでしたね。橋本治が『桃尻語訳枕草子』を出したのもその頃でしたっけ。

三島由紀夫が嫌っていた太宰治は高校生以降かなり読みました。最近流行っちゃって『斜陽』とか『ヴィヨンの妻』とか映画化されているみたいですね。でも、太宰治は長いものより短いものがとてもおもしろいと思います。

小学生でもかろうじて読めそうなおすすめは、

『畜犬談』

『黄金風景』

『駆け込み訴え』

といったあたりでしょうか。もちろん簡単ではありませんが、読書の好きな子なら小5ぐらいから可能だと思います。

『畜犬談』は、犬が大嫌いな男の話です。

『黄金風景』は、昔いじめた女中が会いに来るという話。いったいそれがどうして「黄金風景」になるんでしょう? うーん、感動的。

『駆け込み訴え』は、これがいちばん難しいと思いますが、イエスを裏切ったイスカリオテのユダによる独白といういっぷう変わった短編です。とんでもない筆力だなと舌を巻きますよ。新約聖書の知識が多少なりともないとおもしろくないですが。

意外なことに、どれも読後感が悪くありません。『人間失格』を読んでどよ~んと落ち込み、二度と太宰なんか読まん!と決めている方がいらっしゃいましたら、ぜひ上記三篇をお試しください。ああ、小説っておもしろいなあと心から思わせてくれる三篇です。

(西川)

2010年8月 9日 (月)

小学生のときに読んだ本③

いよいよ本格的にシリーズ化された観がありますねえ!

今回はついに、

パール・バック『大地』

です。僕が読んだのは確か新潮文庫版で、中野好夫さんの訳だったと思います。

僕の記憶ではこれを読んだのは小学4年生のときなのですが、母の記憶では「小学6年生でしょ?」。あいだをとって小学5年生ぐらいかなあ? 6年生のときには司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を読み始めたはずなんですが、『大地』と『坂の上の雲』のあいだにはかなり開きがあって、そのあいだに『人物日本の女性史』なんかをつまみ食いしていたような記憶があるんだけどなあ。う~ん、ようわからん。

いずれにせよ、『大地』です。いや、これは相当おもしろかった!

みなさん読まれたことありますか?

革命直前の中国の話です。ワンロンという貧しい農夫が、妻をむかえる場面から始まるんです。この奥さんが実に賢妻で、さまざまな困難を乗りこえつつ、少しずつ豊かになっていくんですね。ついには、奥さんがもともと召使いをしていた大金持ちの土地もすべて手に入れて大地主になります。そして・・・・・・!

というような、ワン家三代のお話です。

『大地』という題にふさわしく、まさに中国の土の匂いがしてくるような、実在感のある話でしたねえ。安易なヒューマニズムみたいなものは感じられませんでした。これは異論があるところかもしれませんが、小説読むときに、そんな思想は邪魔なだけじゃないですかね。大切なのは、たとえばこの小説の場合には、土の匂いですよ。それさえきっちり漂ってくれば、それがいい作品てことなんじゃないかなあ?

手塚治虫の『ブラックジャック』が、すごくおもしろいけど、どこか今ひとつなのはそのせいじゃないですかね。ちょっと安直なヒューマニズム。手塚治虫さんが安直なヒューマニストだというんじゃなくて、それを作品の中に盛り込む手つきが安直といいますか・・・・・・。

ブラックジャックの中で僕がいちばん好きな場面は、ドクターキリコというブラックジャックのライバル?が登場する話なんですが、このドクターキリコってのがとんでもねえやつで、安楽死専門の医者なんですね。

で、とある患者を安楽死させるよう頼まれてドクターキリコ登場の運びとなります。例によってここでまた私の記憶が曖昧でどういう経緯だったか忘れましたが、そこにブラックジャックが現れて患者を治してしまうわけです。ブラックジャックが治療しようとしているところにドクターキリコが現れたんだったかな?

ま、それでめでたしめでたしかなと思っていると、なんとその患者が搬送される途中で事故かなんかに遭って亡くなってしまうんですね。

それを聞いてブラックジャックが衝撃を受けるわけです。せっかく治したのに何てことだ!

ドクターキリコが高笑いしながら去っていきます。

すると、膝を握りしめた(あるいは地面を叩きながら、だったかな、うーん忘れた)ブラックジャックがいうんです、「それでも私は治すんだ」。

これは良かったですねえ。ブラックジャックが人を救うのは、人助けじゃないんですね。人のためじゃない。自分のためなんです。そういうふうにしか生きられないというんでしょうか、そういうかたちでしか自分のアイデンティティーみたいなものを確立できない。そういう切羽詰まったものが感じられます。こういうのはとても良いなあと思いました。

でも、それ以外の話はここまで踏み込めてなくて、なんとなくヒューマニズムでまとめちゃうところがあります。手塚治虫の漫画はどれもかなりおもしろくて不合格作品はないけれど、自分の資質を超えるようなすごい作品は一つも描いてないような気がします。

漫画家も作家も、たまに自分の資質を凌駕するような作品をかくことがあると僕は思っているんです。たとえば、山岸涼子の『日出処の天子』とか。う~ん、古いね。

他にも、一作だけすごくおもしろい作品を残した人っているじゃないですか。『マノン・レスコー』を書いたアベ・プレヴォーとか。ポップスの世界にはたくさんいますよね、一発屋。(もちろん山岸涼子さんが一発屋というわけでは断じてありません。他にもたくさんおもしろい話を描かれています。ただ、『日出処の天子』ほどのものは・・・・・・)

いま、アベ・プレヴォーの「ベ」って「ヴェ」だったっけかとふと不安になりインターネットで調べてみたら、「ベ」でよさげでした。それはいいんですが、『マノン・レスコー』ってオペラになっているんですね。オペラに全然興味がないんで知りませんでした。プッチーニだそうです。

オペラには興味がないんですが、プッチーニの「レクイエム」はすごくいいですね。つつましやかで誠実な哀しみが伝わってきます。その点、モーツァルトのレクイエムはどうもなあ。「どうです、すごいでしょう!」みたいな感じでもうひとつな気がします。ま、好みの問題です。僕はレクイエムにはうるさいんです。電車の中でウォークマンを耳にうっとりしている僕がいたら、それはきっと、デュリュフレのレクイエムを聴いているか、宇宙一かっこいいSiberian Newspaperを聴いているかどちらかです。

話がそれましたが、とにかく、そういう「自分の資質を超える作品」、それが手塚治虫さんにはないような気がします。『きりひと讃歌』も、はじめは「おっ」と思ったけど尻つぼみだったし・・・・・・。

ま、いいや。『大地』の話でした。なんせ、安易なヒューマニズムみたいなものは感じられなくてええぞ、という話でした。大河小説なので、読後の充実感もひとしおですしね。

ま、塾生諸君は中学校に入ったら読んでみてください。

ところで栗原先生、前に書いてた「矛盾」の話の中の「矛盾」て何だったんですか?

やはり、あれですか。売れなかったら店じまい、の部分?

(西川)

2010年8月 4日 (水)

おこだでませんように

希学園のアニュアルイベント「七夕祈願」が始まっています。

進学塾なので、もちろん旧暦の七夕のタイミングです。

各教室に飾り付けられた笹には、

「○○中学校に合格できますように」

「※Pコースに来年入れますように」  

「※S1にあがれますように」    

※Pコース・S1 ……詳しくは希学園HPをお願いします。まあ、入れると、あがれると、とってもうれしいことなんだなと理解してくださればそれでもけっこうです。

など、塾生たちが書いた短冊をつるしています。

子どもの頃、七夕が大好きでした。星を眺めるのが好きだったせいもあります。

本題ですが、いい絵本をみつけましたので紹介します。

「大人が読むに耐える絵本」 というより「大人が読むべき絵本」だと思います。

あらすじを書いてしまうとつまらないのですが、かといって書かないと伝わらないので、

かいつまんで。

「ぼく」は、家でも、学校でも、いつも叱られてばかり。

かまきりを見せてあげようとしたばかりに、女の子を泣かせてしまって、叱られ。

妹を泣かせてしまって、叱られ。友だちに手を出してしまって、叱られ。

とにかく、自分の「理屈」が通じなくて、でも精いっぱい、愛されたいと願っている。

そんな「ぼく」は、学校で、七夕の短冊にいっしょうけんめい、えんぴつをかじりながら、

ていねいに、書いた。

「おこだでませんように」

(ここでぐっときましたね。やられてたまるか、と私は思いました。絵本ごときに泣かされてたまるもんかと)

そのあとの部分はぜひ、ぜひ、買ってお読みください。

本屋で立ち読みなんかすると、アレです。 私がそうでした。場所もわきまえず……です。

日頃、小学生と勉強していると、「叱る」という場面は避けられないものです。

あとでよくよく考えて「あれは理不尽なしかり方だったな」と反省することもしきりです。

私はどちらかというと、理不尽なしかり方をされて育ったので、父親を比較的うとましく思っていました。

でも、社会にでると、理不尽なことだらけなので、最近はよく「理不尽な父親のおかげで、自分は強くなった」的に納得していました。

そして自分の子どもにも、そして塾生にも「確信犯的に」理不尽なしかり方をしていたきらいがあります。理不尽に叱ることも必要だと。「この子のために」頭ごなしに叱ってやるんだと。

うーん。

この絵本を読んで、もう一度、自分の子どものころに感じたあの気持ちを思い出しました。

そして、ずいぶん反省しました。

「おこだでませんように」(くすのき しげのり著)

http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%93%E3%81%A0%E3%81%A7%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%82%93%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB-%E3%81%8F%E3%81%99%E3%81%AE%E3%81%8D-%E3%81%97%E3%81%92%E3%81%AE%E3%82%8A/dp/4097263293/ref=cm_cr_pr_product_top

絵もすばらしくいいです! 絵の細部をよくよく見ていくと、文章にはしきれない、さまざまな文脈が見えてきます。

その詳しい話をいま書いてしまうと、「よし、買って読むぞ」と思われている方に申し訳ないので、次回くらいに。かみんぐすーん。

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