おばちゃんの「ボク」
「オールスター」と言えばプロ野球ですが、時代を超えたメンバーをそろえるという「架空オールスター」というのも話のタネになることがあります。ただ、こういうのは客観的データだけでは選ばれないのですね。たとえば、こういう話のときに絶対外せない人に長嶋茂雄がいますが、数字だけで言えばもっとすごい選手がいるはずです。しかし、存在そのものがスターなのですね。名前だけで威圧されます。菊池寛の『形』という小説のように。「伝説の××」となると、実物は知らないのに、すごいというイメージだけが流布しています。
清水義範が言っていた「ジンクピリチオン効果」というのも似ているかもしれません。何だかわからないのにすごそう、というやつです。むしろ、わからないから勝手にすごそうと思っているだけで、実はたいしたことがないかもしれません。「最恐の怪談」という、一種の「ジョーク」があります。こわい、こわいと言うだけで、だれも話の中身を知らない、というパターン。題名だけでこわがっているのですが、これとは反対に、名前がわからないからこわい、という場合もあります。トラはトラと名付けられるまではもっとこわかったのですね。「意味のわからない名前」というのも不気味です。「ふるやのもり」はこわい。逆に、知れば安心です。得体の知れない間はこわいのですね。お化けも、正体がわからなくても見慣れたらこわくなくなるかもしれません。意外なもの、型にはまらないものはこわい。「型破り」には心奪われる、というのもじつは同じような心理でしょう。
久しぶりに落語の話ですが、『中村仲蔵』という演目があります。古い型を破って、新しい型を生み出す話です。中村仲蔵という役者が、『忠臣蔵』の斧定九郎という役を与えられますが、あまりいい役ではありません。家老の息子だったのに定九郎の風体は山賊みたいだし、芝居もちょうど弁当を食べる時間帯にあたっているせいか、だれも見てくれません。そこで仲蔵はなんとか工夫をしようとして、神仏にすがります。満願の日、雨に降られてそば屋で雨宿りしていると、一人の浪人が駆け込んできます。その姿にヒントを得て定九郎を演じるのですが、場内は水を打ったような静けさ。仲蔵は観客があきれかえったせいだと思って絶望するのですが、じつは、あまりのかっこよさに声も出なかった、というお話。
仲蔵は『淀五郎』という話にも登場します。これも『忠臣蔵』の「切腹の場」にちなんだお話です。抜擢された淀五郎は塩冶判官となって切腹するのですが、家老の大星由良之助が来るのを待ちわびています。なんとか間に合った大星に「待ちかねたー」と言うことになっています。「遅かりし由良之助」という言葉の語源になった場面です。ところが淀五郎のあまりの下手さに菊五郎演じる大星がそばへやってこない。そのあとで、「あれは型ですか」と聞くと、「あまりの下手さにそばに寄れない。あれでは『かたなし』だ」と言われてしまいます。こうなったら本当に舞台の上で腹を切ってしまおうと思い、死ぬ前のあいさつのために中村仲蔵のもとにやってきます。淀五郎の気持ちを見ぬいた仲蔵のアドバイスにしたがって演じてみたところ、菊五郎がそばに寄ってくれます。思わず本音がこぼれて「待ちかねたー」、というお話。
芝居の世界にもランク付けがあって、「稲荷町」というのから始まって、トップを「名題」と言います。このあたりは『中村仲蔵』の中でくわしく解説してくれることもあります。落語家にも「前座」から「真打ち」、相撲では「序の口」から「横綱」というふうにランクがあります。柔道や剣道では段位です。いまは剣道での九段・十段はなくなったそうです。勲章にもランクがあります。貴族のランクは初位から始まって正一位まで。正一位は生前にはまず昇れない。従一位が最高ランクです。貴族に対して皇族では「位」ではなく「品」です。「一品」とか言います。稲荷が正一位ですから、これは貴族のトップと同格という位置づけになります。親王のほうが上か、とも思いますが、「神格」は貴族とは別扱いになるらしい。
前にも触れた仏の世界では、ランクというわけではないのでしょうが、悟りを開けば如来、開く前が菩薩ですから、どう見ても如来のほうが上です。仏像になっても如来は真ん中にいて、その左右に菩薩がいます。要するにバックダンサーズを従えているのが如来で、バックダンサーが菩薩。ただし、菩薩は単体で仏像として崇められることがあります。とくにその場合は観音菩薩が人気ですね。菩薩の下が明王、その下が天部という感じなので、天部はランクとして低いのですが、インドの神様がここにはいっているのが面白い。バラモン教の神はヒンドゥー教の中に残って、いまだ「現役」ですし、日本に渡ってきて多少形を変えながらも「現役」を保っています。日本にもともといた八百万の神々もほぼ「現役」の神です。
それに対して、ギリシャ神話やローマ神話の神はどうでしょうか。ゼウスがジュピターに、ヴイーナスがアフロディーテになったように、ギリシャの神々はローマに引き継がれます。ところがローマ帝国がキリスト教を国教にしてしまったために、それ以前の神は消されたのですね。「エウロペー」が「ヨーロッパ」に、「ヤヌス」が「ジャニュアリー」に、名前が残る程度です。「ナルシス」から生まれた「ナルシスト」は今でも使いますね。日本語では「うぬぼれ」です。「うぬ」に「ほれる」のですね。「うぬ」は「おの」です。自分のことを言う「わ」に「れ」がついて「われ」になったように「おの」にも「れ」がついて「おのれ」になります。「うぬ」は「おのれ」同様、一人称だけでなく、二人称でも使います。時代劇でも相手のことを「うぬ」と言うことはなくなったのでしょうか。最近ではほとんど聞きませんが…。
一人称と二人称が同じ、というのは妙と言えば妙です。「われ」とか「手前」とか、自分にも相手にも使いますが、なぜでしょうね。英語では相手のことを「I」とは言いませんが、日本ではおばちゃんが男の子に「ボク、どうしたの?」と言います。やっぱりなんだか変ですね。