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2025年3月 9日 (日)

ほんとは怖い京言葉

当初AIでは、今ある情報をつなぎあわせるだけで、創造的な仕事は無理と言われていましたが、おそるべきことに、いまや小説まで書けるようになりました。YouTubeでは「AI怪談」というのもあります。今のところはまだまだダメで、面白くも怖くも感じないのが残念です。とはいうものの面白いか面白くないかは主観によるものなので、面白いと思う人がいるかもしれません。人気の小説でも人によって評価が全く違ったりするのはよくあることです。センスや好みの違いもありますし、その人の経験が強い影響を与えることも大いにあります。万人受けを狙うというのは根本的に無理かもしれません。好きな芸能人のランキングときらいな芸能人のランキングの上位に、同じ人がはいっていることがよくあります。それだけ強い個性を持っていることの証拠でしょう。

「悪名は無名にまさる」というのも、そういうことと関係があるかもしれません。マイナス評価をつけるのは関心の裏返しであって、何の興味もなければプラスにもマイナスにも振れません。まあ何につけても無関心というのはよくありませんね。いろんなことに好奇心、関心をもつことは悪くないことです。国語が出来ないという子の中には、世の中や人間に対する関心が弱い者がいるのではないでしょうか。初期のころのコンピュータのマニュアルは日本語として成り立っていないものが多かったのですが、書いている人が国語の弱い人だったのでしょう。コンピュータには強烈な関心があるのに、人間に対する関心が弱かったのではないかと思います。歩車分離式信号を考えた人は安全性のみ追求して、ひたすら待ち続ける人間の心理がわからなかったのでしょう。まあ、こんなふうに断定するのも、人間の複雑さがわかっていないと言われるかもしれません。

言葉に対する関心がない人も当然国語が弱いですね。たとえば、ほんとかどうかわからない説として「おみおつけ」の話があります。主たるご飯に付ける副たるみそ汁を「付け」と言い、これを丁寧にして「御付け」、ところが使っているうちに「御」が丁寧語であることが忘れられ、丁寧に言おうとして「御」を上にのせて「みおつけ」、さらに年月がたって「御」を上にのせて「おみお付け」になったという説。ただし、「み」は「実」だとか「みそ」の省略だとか言う人もいるようですが…。よく似たものとしては、「おみくじ」「おみこし」も「御」二連発ですね。ただし、「くじ」のお告げは神の言葉だし、「こし」も神の乗り物です。丁寧に言いたい気持ちが強いため、「み」が「御」であることがわかっていて、あえて「御」を重ねて強い敬意を表そうとしたのかもしれません。いずれにせよ、こういう細かいところにこだわると、いろいろと面白く感じられることはないでしょうか。「だからか」という発見は非常に興味をかきたててくれます。

ところが、こういう話を聞いても、「だから何?」という人がいます。同じ話を聞いても面白く感じられない人がいるのですね。でも、そういう人でも、子どものうちは「発見」の面白さを感じたかもしれません。こういう「言葉の発見」を突破口にして、関心を広げていってほしいものです。反対の形になっているのに同じ意味、という言葉もあります。「とんだこと」と「とんでもないこと」は「ない」があってもなくても同じ意味になります。こういうのも面白く感じられないでしょうか。ただし、これは「ない」が打ち消しではなく強調の意味なので、実は「反対」の形ではないのですが、そういうことも調べてみると、なるほど、と思えてさらに興味がわくと思います。

では、こんなのはどうでしょう。「字がぼやけて見える」と「字がぼやけて見えない」。どちらも字はぼやけています。「見えない」のは、ぼやけているからですが、前者は「ぼやけた字が見える」のであって、結局その字ははっきり見えないのですね。「ないものはない」が二つの意味にとれるというのは前にも書きましたが、「ないじゃない」はどうでしょう。「ないわけではない」と解釈すれば「ある」ということですし、腹立たしそうに「何もないじゃない」と言えば「ない」ことになります。「やばい」とか「すごい」も一つの語で両方の意味を表します。「すごい成績」は「すばらしい成績」なのか「ひどい成績」なのかわからない。「どうも」にいたっては、挨拶語として万能です。何かをもらっても「どうも」、失礼なことをしても「どうも」、久しぶりに会っても「どうも」、別れるときにも「どうも」、二回繰り返す「どうもどうも」というのもあります。これもある意味、「すごい」言葉です。

日本語の「すごさ」としては、他に文字の種類が多い、漢字以外にカタカナ、ひらがな、場合によってはアルファベットも使う、ということがあります。これは覚えるのが厄介、というマイナス面もあるのですが、文字を変えることによってニュアンスが変わる、という「すごさ」があります。漢字で書ける言葉をわざとひらがなで書くことによって、話者が漢字を知らない人であったり、幼児であったりすることを表しますし、カタカナなら外国人であることも表せます。ひらがなで書くことによって、やわらかい感じを表すこともあります。「をりとりてはらとおもきすすきかな」という俳句はあえてひらがな書きを採用して、やわらかな感じを表しています。日本語は漢字の数も多いので、すべての文字を覚えるのは面倒ですが、覚えたらすごいのです。

他に日本語の特徴の一つとして、述語が最後に来るということがあります。文を最後まで聞かないと、どういうところに着地するのかわからない。場合によっては話を全く逆方向にひっくり返せます。「吾輩は猫で」というところまで聞けば「吾輩は猫なんだな」と思いますが、「猫でない」と続くかもしれません。そういうことを防ぐために「けっして」などの、いわゆる呼応の関係をもつ副詞を使って、あらかじめ結末をにおわせておく工夫もありますし、実際には雰囲気や文脈である程度予想はつきます。教室でいきなり「火事」とさけべば何のことがわからないけど、部屋のゴミ箱から火が出ている場面なら意味がわかります。言葉って、文脈で意味が決まるのですが、その「文脈」の中には、その場の状況、話す人、声の抑揚など、いろいろな要素が含まれます。京都人の「高そうな時計どすなあ」は、「とっとと時間を確認して早く帰れ」という意味がこめられています。

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