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2025年5月16日 (金)

瓢箪から駒は出る

自己や他者のとらえ方が西洋と日本ではちがうようです。西洋では座標軸の原点に自分を置きます。絶対的な自分が中心にいて、そこから相手がどういう位置にいるかをさぐるので、IはI、youはyouなのでしょう。ところが日本では原点に相手を置き、相手から見た自分がどういう位置にいるかを考えます。だから友達の前では俺、お客の前では私、子どもの前ではお父さん、生徒の前では先生、と自分のことを呼ぶのです。

家の中ではいちばん小さい者を原点にして考えますから、「夫と妻」だったものが、子どもが生まれれば「父さん」「母さん」とお互いに呼び合い、孫が生まれれば「爺さん」「婆さん」になります。おばちゃんが男の子を「ボク」と呼ぶのは、相手の立場に立って、あるいは相手になりきってしまうのかもしれません。確固とした自分というものがなく、だれかを基準にして自分の位置を定めるのでしょう。最近はあまり言わなくなりましたが、大阪では相手のことを「自分」と呼んでいました。同じ発想でしょうが、こういうのも一種の方言と言えるのでしょうか。でも、この二人称の「自分」は、共通語化の波によってほぼ消えてしまいました。まあ「なんでっか」とか「してまんねん」とか、コテコテの大阪弁は消えゆく運命だったのでしょう。「往ぬ」とか「いのく」も消えましたね。「帰れ」という意味で「いね」と言われることもよくあったのですが…。「いのく」は「うごく」が「いごく」になって、さらに転訛したのか、ひょっとして「居退く」か?

音の変化としてとらえてよいのかどうか、「日本」は「ニホン」か「ニッポン」か、という問題もあります。オリンピックのときは断然「ニッポン」ですね。「がんばれニッポン」は力強いけれど、「がんばれニホン」では、気が抜けた感じがします。自分の国の名前がどっちでもいいというのは、実にちゃらんぽらんではあるものの、そういうことにこだわらないというのも日本的なのかもしれません。自分の国から太陽がのぼるのだと考えた昔の人の気持ちが伝わればよい、ということでしょう。イギリスだって、その点、あいまいと言えばあいまいです。正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」でしょうが、省略して「連合王国」つまり「ユナイテッド・キングダム」、さらにその略称の「UK」を使うこともあります。日本では勝手に「イギリス」と呼んでいますが、これは「イングリッシュ」にあたるポルトガル語「イングレス」から来ています。それがなまって「イギリス」、古くは「エゲレス」とも呼んでいたようです。さらにそれに「英吉利」の字をあてて「英国」とか「大英帝国」とか勝手に呼んでいます。

だいたい、イングランドとスコットランド、アイルランド、ウェールズはもともと別の国だったわけです。サッカーというスポーツが始まったころには、それぞれの国が対抗試合をしていたようで、その名残が今でも続いています。ソビエト連邦やアメリカ合「州」国と同じようにイギリスは連合国家です。だから「ユナイテッド・キングダム」なんですね。ちなみに正式名称が長過ぎることで有名なのはバンコックという都市です。調べてみたら「クルンテープ・マハナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」と書いてありました。

イギリスというのは、もともとかなり野蛮な土地だったようで、ノルマン・コンクェスト以降まともな国になったと言えそうです。11世紀、イングランド国王は後継者がいないまま亡くなります。その跡目争いに勝ったのが、フランスの臣下であるノルマンディー公です。フランスの臣下という地位のまま、イングランド国王にもなったわけです。その後もイングランド王家であるプランタジネット家は、フランス王国の一領主という位置づけで歴代のフランス王と土地争いを続けていました。そして、フランスのカペー朝の断絶につけこんで、イングランド王はフランス国王の地位を要求して、百年戦争が始まります。ということは、百年戦争は単純にイギリスとフランスの戦争というわけにはいきません。

この戦いの中で、有名なジャンヌ・ダルクが登場します。「ジャンヌ」はよくある女性の名前で「ダルク」は「ド・アルク」で、「ド」は「~の」、「アルク」は「弓」です。「ラルク・アン・シエル」は「空の中の弓」という意味で虹のことになります。つまり、「ジャンヌ・ダルク」は「ダルク」が名字というわけではなく、「弓のジャンヌ」という感じの呼び名でしょうか。このパターンの呼び名は日本にもあって、「槍の又三」とか言いますね。「槍の」が付く人は他に「槍の半蔵」「槍の才蔵」がいます。戦国時代の戦いでは槍は重宝されたようで、突くよりも叩くという使い方をしたようです。「刀剣乱舞」というゲームにまでなった刀と比べると地味ですが、刀同様、流派があります。有名なところでは、宝蔵院流というのがあります。宮本武蔵と闘ったことになっている胤瞬という名高い人もいます。武蔵は胤栄に勝負を挑むのですが、胤栄が高齢だったために、16歳だった弟子の胤舜と闘い、武蔵が勝ったことになっています。高田又兵衛や丸橋忠弥も宝蔵院流です。高田又兵衛は家光に槍の奥義を披露したことで有名で、「忠臣蔵」の高田郡兵衛は孫にあたります。丸橋忠弥は、慶安の変で由井正雪の片腕となって、幕府転覆を図ったものの失敗して、鈴ヶ森ではりつけにされました。「忠臣蔵」に出てくる俵星玄蕃という槍の名手は架空の人物ですが、やはり宝蔵院流です。

でも、刀剣に比べると派手さには欠けます。「伝家の宝刀」と言いますが、名高い刀も多い。刀工も正宗とか村正とか有名人がいます。後には堺も名高くなりますが、関とか備前が刀の本場です。砂鉄がとれたところでしょう。スサノオが降り立った斐伊川も砂鉄がとれて、その鉄で刀剣を作ったらしい。支流を持ち、氾濫を繰り返す斐伊川を八岐大蛇にたとえ、その尾から刀が出てきたというのもそういう意味でしょう。神話や伝説は荒唐無稽に見えて、実は史実を反映していることもあります。ふつう、しっぽから刀は出てきません。

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