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2024年8月11日 (日)

そら気がつかなんだ

家康が実質、自他共に認める武士集団のトップになったのは関ヶ原でしょう。ということは、江戸時代は1600年からでもよさそうです。室町時代も足利尊氏が将軍になった年から始まることになっていて、頼朝だけが別扱いというのもなんだかなあ。そういえば有名な源頼朝の肖像画が別人だった、というのも以前から言われていました。神護寺に伝わる国宝ですね。神護寺を再興したのは文覚で、大河ドラマでは、「あの」市川猿之助が演じていました。頼朝との関係から見て、神護寺に頼朝像が伝来していても、なんの不思議もないのですが、あの肖像のモデルはどうやら足利直義ではないかと言われています。尊氏の弟で、真田広之の大河ドラマでは高嶋政伸がやっていました。足利尊氏の肖像画も有名ですが、これも実は高師直ではないかと言われています。尊氏の側近ですが、直義と対立します。「観応の擾乱」というやつですね。忠臣蔵では吉良上野介にあたる人物として登場します。

日本史からは外れますが、かつては日本に恐竜はいなかったと言われていました。ところが、化石の発見によって覆りました。これは証拠があるのだから仕方がありません。学者が何と言おうと「論より証拠」です。しかし、「縄文式土器」がいつのまにか「縄文土器」になったのは、なぜでしょうか。万人が納得できるような根拠もなく、勝手に変えてしまったのではないでしょうか。これでは嘉門達夫が歌った「東京ブギウギ」の替え歌、「縄文式土器、弥生式土器、埴輪勾玉、土偶土偶」が成立しません。もう一つ、縄文時代に、すでに稲作が始まっていたという説が最近有力になってきているようですが、それなら弥生時代と区別する意味がないような…。

歴史の解釈やとらえ方が変わっても、昔の制度やシステムを引き継いでいることもあります。貴族の官職で、さすがに大蔵大臣はなくなりましたが、「大臣」という言葉そのものは古い時代のものです。そして、大臣たちはいまでも「花押」をつかうのですね。「花押」とは簡単に言えば毛筆によるサインです。閣議決定のときに必要なので、入閣するときに用意することになっています。今の大臣は花押を持っているのですね。「官位官職」と言いますが、「官位」のほうも残っています。三位以上が上級貴族です。正一位は別格で従一位が事実上のトップです。戦国時代の三傑と言われる信長・秀吉・家康でも明治になってから従一位が贈られたぐらいですから、なかなかの位です。従一位になった最も新しい人は、なんと安倍晋三なんですね。

一方では世の中が変化して新しいものが生まれていきます。今までなかったものに新しく名前が付けられるとき、それと区別するために従来あったものの名前が変わることがあり、それを「レトロニム」と言います。エレキ・ギターが生まれたので、電気を使わないものをアコースティックと呼んだり、デジタルに対してアナログと言ったりします。ストッキングをはくようになったために、はかない場合に「生足」と言うのもあてはまるでしょう。和歌というのも漢詩に対してつけられた名前でしょうし、在来線や白黒写真、固定電話など、新しいものがなければわざわざ言う必要のない言葉です。「天然○○」というのも人工ものや養殖ものがなければ出てこない表現ですね。「肉眼」なんてのも、何も道具がなければ生まれなかったでしょう。「レッサー・パンダ」がもともとの「パンダ」だったのに、「ジャイアント・パンダ」の発見によって「パンダ」の座を奪われただけでなく、「劣っている」の意味の「レッサー」と付けられたわけですから、かわいそうにもほどがあります。

新しいものが生まれたわけでなくても、古いものの名前が変わっていくことがあります。「チョッキ」が「ベスト」とか「ジレ」になったように、ズック靴がスニーカーになり、ズボンがパンツになりました。ところが、江戸川が東京川にならないように、古い名前が消えないものもあります。下駄をはかなくなっても「下駄箱」、筆を使わなくなっても「筆箱」、乳母がいなくても「乳母車」、3時に食べても「お八つ」です。「レコード大賞」というのもそうですね。慣れ親しんだ言葉を換えるのは何か大きなきっかけが必要なのかもしれません。

言葉の意味のとらえ方が変わってくることもありますね。前にも触れましたが、「課税」の意味から考えると「課金」するのはゲーム会社であって、ゲームをする人ではないことになります。だから、ゲームをする人が「課金した」と言うのはおかしい、と主張する人もいますが、そういう人も「募金」しているんですね。熟語の組み立てから見ても「金を募る」のだから、主語は金を集める側です。ところが、金を出す側が「百円募金した」と言います。まあ、だいたい「募」はあいまいなのですね。「応募」と「募集」はよく混乱して用いられています。

これも前に書きましたが、「なんなら」の使い方が変化したのはつい最近です。そういうことばの意識の変化については、文化庁が調査しています。毎年やっている「国語に関する世論調査」というやつです。最近の使われ方の「引く」や「推し」「盛る」などを使うことがあるか、とか「涼しい顔」「情けは人のためならず」「雨模様」「号泣」などをどういう意味で使うか、などの調査です。こういう調査をするというのは、言葉は変化するという前提なんでしょうね。誤用であっても定着すれば誤用ではなくなります。

意味だけでなく形も変わることがあります。とくに話し言葉では音が変化していくことがよくあります。「何を言ってやがるんだよ」を江戸っ子が発音するうち、「なにょうってやんでえ」のようにくずれてゆき、やがて「てやんでぇ」という最終形態になります。ここに「べらぼうめ」という、わけのわからない言葉が付くから、余計に意味不明になる。「さーたーあんだーぎー」は元は「砂糖油揚げ」でした。沖縄では、「え」の母音が「い」になり、「お」が「う」になる傾向があります。要するに、「あいうえお」ではなく、「あいういう」になるのですね。津軽弁の代表として、よく出てくる「えふりこぎ」という言葉があります。「格好つけ」「いい格好しい」という意味であることがわかれば、「いい振りをこく人」、「いい振りこき」ですね。そら気がつかなんだ、というやつです。

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