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2024年10月19日 (土)

語呂合わせ、ありがとう

大黒天は「天」を取って「大黒様」と言いますが、「弁財天」は「弁天」と略されます。日本三大弁天は、安芸の宮島、近江の竹生島、そして鎌倉の江ノ島です。水の神様らしく、水辺で祀られることが多いのですね。弁天小僧は江ノ島の出身ということになっています。「弁天」が「弁財天」の略であるなら、「ほこ天」は何の略でしょう。これは元の言葉を知らないと答えられない。「歩行者天国」です。では、「ごぼ天」は? 当然、「ごぼうの天ぷら」ですね。「ごぼう」は漢字では「牛蒡」と書きます。「蒡」の字は「ごぼう」という意味しかありません。「牛」の字をつけたのは大きいというニュアンスを表すためとか、形が牛のしっぽに似ているからとか、いくつかの説があるようです。

「ごぼうの天ぷら」を略して「ごぼう天」、ここで止める地域もありますし、さらに一歩進めて「ごぼ天」と略するところもあります。どちらかと言えば、「ごぼ天」になるのは関西でしょうか。ただ、もともと関東と関西で、同じ天ぷらにも違いがあります。関東風は衣に卵を入れゴマ油でさっと揚げるのできつね色、関西風はサラダ油でじっくり揚げる白っぽいもの、という違いもあるそうですが、関西では昔から魚の練り物を揚げたものを「天ぷら」と呼んでいました。関東で「さつま揚げ」と呼んでいるものですね。水で溶いた小麦粉をつけて揚げた「天ぷら」は江戸発祥で、そのころは屋台で立ち食いする庶民の食べ物だったそうです。

「天ぷら」という言葉自体、ポルトガル語起源だと言われます。「天麩羅」は「あぶら」の当て字だという説もあるようですが…。では、家康の死因と言われる「鯛の天ぷら」とは、どんなものだったのか。「鯛」ということはすり身の可能性もありますが、ゴマ油で揚げてニンニクで味付けしたものとも言われています。いずれにせよ、油で揚げていることはまちがいなさそうですが、唐揚げっぽいものだったのではないかと言う人もおり、今の天ぷらとはちょっと違う感じですね。茶屋四郎次郎が勧めたものを食べて死んでしまったために、茶屋四郎次郎は家康殺しの犯人のように言われることもありますが、家康は七十をこした老齢のうえ、どうやら胃癌だったようで、しかも食べ過ぎだったらしい。そんな脂っこいものを食べ過ぎてはいけません。

さつま揚げのほうは、島津斉彬の発明という説もあり、琉球から薩摩にもたらされたという説もありますが、鹿児島では「さつま揚げ」とは呼ばず、「付け揚げ」と呼んでいます。考えたら当たり前の話で、土地の名前がついている食べ物は、現地ではそう呼びません。他の地方の人が伝来してきた土地の名前をつけて呼ぶのですね。だから「さつまいも」も鹿児島では「からいも」です。「唐」から来たことになっています。ついでに言うと「じゃがいも」は「ジャガタラいも」、今のジャカルタとかジャワ島でしょう。インドネシア経由と考えていたということでしょう。作物として広まったのは明治以降なので、おふくろの味とか言われる「肉じゃが」は江戸時代には食べられていません。

すり身を使った食品として「つくね」というものがあります。魚肉や鶏肉をすり身にして、つなぎや調味料を入れてかためたものです。この「かためる」ことを「つくねる」と言うのですね。漢字で書けば「捏造」の「捏」です。「ねつぞう」と読みますが、もともとは「でつぞう」と読んだらしい。「捏ち上げる」と書いて「でっちあげる」と読むのはそこから来たのでしょう。「つくね」とよく混同される「つみれ」は、成形せずに指先か篦状のもので摘み取って鍋に入れるものを「摘み入れ」と言ったところから生まれた言葉です。一方の「捏ねる」は「こねる」とも読みます。土や粉に水分を加えて練ることを「こねる」と言うのですが、そうすると語源的に「ねる」と「こねる」は関係がありそうです。

伊勢の郷土料理に、「てこね寿司」という、ちょっと聞いただけでは意味のわからないものがあります。「手捏ね寿司」なんですね。漁師がとれた魚を船上でさばいて、手で捏ねて混ぜ合わせたところから生まれたものです。かつおやまぐろを使った、豪快なちらし寿司といった感じでしょうか。「散らし寿司」というのは、具材を御飯の上に「散らし」てのせているわけで、「ばら寿司」は具材をこまかく切って酢飯に混ぜ込むものを言います。ところが岡山の「ばら寿司」は具材も大きく品数も多い。これは備前藩主池田光政の出した「一汁一菜」の倹約令に反発した庶民が、御飯の中にさまざまな具材を混ぜこんで食べたのが由来だとか。「御飯茶碗一膳だけだ、文句あるか」ということでしょう。ただ、光政は江戸時代初期の大名なので、酢飯の寿司はまだ生まれていなかったはずです。その頃の寿司といえば、魚と御飯を発酵させた鮒寿司系です。

岡山駅の駅弁に「隠し寿司」というのがあります。表から開けると御飯だけ、裏返して開けると派手な散らし寿司になるという、「なんじゃそりゃ」的な弁当です。倉敷にもあって、こちらは「返し寿司」と言います。表側には錦糸卵がかかっているところが岡山とは違うようです。このパターンの寿司も倹約令への反発から生まれたことになっています。池田光政と言えば、徳川光圀、保科正之と並んで江戸初期の三名君と言われていますが、倹約令は相当いやがられたらしい。江戸時代の三代改革「亨保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」はどれも倹約をうるさく言っています。特に吉宗は着物の色にまで口出しをしました。現代人でも質素倹約だと言われて、政府から「コンビニは週に一回」とか命令されたら、当然反発するでしょう。その反発をおさえてストレスを発散させるために吉宗は桜を植えさせて花見をしろと言いました。日本の花見文化はこういうところから生まれたのですねぇ。

三代改革はどれも似ていて紛らわしく覚えにくいのですが、「今日寒天食べたい」で「享保・寛政・天保」の順番を覚え、「よし、まず水を飲もう」で「吉宗・松平・水野」の順番を覚え、「いろんな花咲き、よい改革」で「(17)16・(17)87・(18)41」で何年の出来事かを覚えます。語呂合わせって便利だなあ。って、せっかく「いいくにつくろう鎌倉幕府」で覚えたのに、いつのまにか「いいはこつくろう」に変わってて、むかつきます。

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