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2011年9月の4件の記事

2011年9月28日 (水)

鯛獲るマッチ

デジャブと思えるものが多いと書きながら、これ前にも書いたぞと思うのはデジャブではないだろうか、と書きながら、このフレーズも前に書いたのでは……という、「雑誌の表紙がその雑誌を持っている人で、その人が持っている雑誌の表紙にもその雑誌がうつっていて」状態になってしまうのは頭が弱くなっているからでしょう。

死んだはずの人間が帰ってくる、というパターンも最近多いですね。たぶん私が最初に接したのは『天国から来たチャンピオン』という映画だったと思います。ウォーレン・ビューティー主演のやつですが、今は「ビーティ」だか「ベイティ」だかと書くようになっています。アメリカ大統領だったレーガンも映画俳優時代にはリーガンでした。最初この映画の主演に予定されていたボクサーのモハメド・アリはカシアス・クレイを改名したので、これは発音上の問題ではありません。アリに断られて制作のウォーレン・ビューティーが自ら主演したのですが、これもじつは相当古い作品のリメイクらしい。さらに、『天国から来たチャンピオン』をリメイクした作品もあったはずです。

それだけ魅力ある設定なのでしょう。幽霊大好き作家の浅田次郎なんか、このパターンは好きそうだなと思ったら、すでに「椿山課長」でやっていましたね。宮部みゆきでさえ『蒲生邸事件』でタイムスリップものをやっていますし、江戸時代の妖怪ものは『しゃばけ』以来大はやりで、ひどいものもたくさん出ています。どれもこれも設定が少しちがうだけで、あまり区別がつきません。いずれにせよ、いちばんはじめがあったはずで、最初に思いついたやつがえらかったのですね。とはいうものの、なにが元かは今となっては不明なのでしょう。聖書に出てくるノアの洪水の話でも、メソポタミアのギルガメシュ叙事詩に出ているとか…。

落語に「てれすこ」という話があります。妙な魚がとれたが名前がわからなかったので、奉行所が名前を知っている者にはほうびを与えると立て札を立てたところ、一人の男が「『てれすこ』という魚です」と言ってきた。ところが、その真偽を証明できる者はだれもいないので、ほうびを与えるしかありません。奉行はその魚を干しておいて、しばらくしてからまた同じような立て札を立てると、案の定その男が現れて、「『すてれんきょう』といいます」と言ったので、「同じ魚を干しただけなのに、ちがう名前を言うとは、お上をたばかる不届き者め」と処刑されることになりました。最後の望み、ということで家族を呼んでもらった男は家族に言います。「『てれすこ』を干したものを『すてれんきょう』と言ったばかりにわしは処刑されることになった。おまえたちに言っておく。今後、どんなことがあっても、『いか』の干したのを『するめ』と言うなよ」それを聞いて、奉行は男をおゆるしになりました……という話ですが、この話の原型は鎌倉時代の説話集『沙石集』に出ています。でも、さらにその元になった話があったかもしれません。

古代エジプトの象形文字や楔形文字を解読してみたら「近頃の若い者はなっとらん」と書かれていたという笑い話からもわかるように、しょせん人間の考えることは似たり寄ったりなのでしょう。テーマは安易でも、どう見せるかという切り口で傑作になるのです。死んじゃいましたが、小松左京の作品なんて、発想がそのまま作品のテーマで、「もし…」という設定だけで大長編にしていました。「日本列島が沈没したら」というテーマは、ほかにも考えつく人がいるかもしれませんが、そこからいろいろな方向に話を広げて、まとめあげる腕が必要なのでしょう。筒井康隆なんて、そのパロディで、『日本以外全部沈没』を書いています。これは筒井康隆のような天才レベルでないと思いつかないテーマです。

ただ、設定がいくらおもしろくても、どう結末をつけるかがポイントですね。「で、オチは」と聞かれるようではだめです。とくに、大阪人はどんなことにもその要求をします。気の毒な出来事を涙ながらに聞いていて「かわいそうになー」と言いながら、最後に「ほんで、オチは?」と聞くのが大阪人です。きれいに決まらないと怒られます。話を広げるだけ広げて、まとまりがつかなくなったときの逃げ方として「続きはWebで!」というのがありますが、一回は許されても二回目は許されません。ましてや、「がちょーん」とか「だっふんだ!」の擬声語オチは昭和で終わりました。夢オチは禁じ手ですし。『ドラえもん』が夢オチであったという都市伝説もありますが…。有名なところでは、「邯鄲の夢」がきれいに決まった夢オチですが、古典なので許されるでしょう。これが夢オチのいちばんはじめというわけではないでしょうが。『不思議の国のアリス』も夢オチですが、ファンタジーなのでOKのようです。せっかく話を積み上げ、大風呂敷を広げてきて、さあこの結末をどうつけてくれるんだろうと期待していたのに、じつは夢でした、と言われたら「金返せ-」となるに決まっています。だから安易な夢オチは禁じ手なのでしょうが、中にはわかっていないアホタンもいるようです。立川談志の「鼠穴」という落語に「まさかの夢オチ!」と言って、談志を批判している「落語を知らないバカ」もいました。たしかに、これは典型的な夢オチですが、古典落語です。夢オチが禁じ手だという人がいなかったころの作品なのでしょう。それを批判するのは、古典落語がどういうものかわかっていないのだろうし、語り手の談志を「才能なーい」とたわけたことをぬかすのは、談志の作ったネタだと思っているのでしょう。自分でネタを作る若手の漫才と区別が付いていないアホタンで、ところがこういう若い人たちが「夢オチ即ダメ」と「知ったかぶり」をするのですね。納得して笑えるなら、夢オチもありでしょう。

いずれにせよ、単純な笑いが楽しいようです。ことわざの授業で「海老で鯛を釣る」が出てきたときに、「ほんとは鯛を手に入れるためにはもっと安上がりなえさがあるけど、何かわかるか」「わかりません」「マッチや、マッチ」「えー、なんでですか」「タイトルマッチいうやろ」「……」最近の若いやつら、単純な笑いもわかりません。

2011年9月18日 (日)

ポイントは三つある(2)

今回のタイトル「ポイントは三つある」は、以前に山下先生が使ったものなのですが、

拝借しました。

国語の講師という仕事を長年していると、いろいろな習性が身につくものです。

①本屋に行くと、自分の読みたい本よりも先に、入試に狙われそうな本をつい探してしまう。

②文章を読むときに「ここを空らんにしたら面白い問題が……」と考えてしまう。

③一般化できないか、と知らず知らず考えている。

上の①や②は同業の方々にはうなずいてもらえそうです。③はというと、「ことわざ」などを教えていて、「とかくこの世はこういうものよ」という考え方に帰着させるというか、文章を読むときにも「結局この文章はこういうことを言いたいのだよね」などと「まとめる」くせがついていると言えばわかっていただけるでしょうか。

古今東西いろいろな人が残した名言や格言があります。できれば自分もこの世に一つくらいは名言を残して去りたいものよのうなどと思っていますが、そんな大それたことは無理として、

このブログを読んで下さっている方へ。

「ひとつ、ふたつ、いっぱいの法則」

これをいつ思いついたか思い出せず、それも自分のオリジナルではなく誰かの本で読んだのか、それすら曖昧なので汗顔赤面すいまめーんなのですが。

カラスはいくつまで数を認識できるか、ということを研究した文章がありましたが、われわれ人間はもちろん、非常に大きな数を扱うことができると思われています。

とはいうものの、普段われわれは結構きちんと数を認識していないと思うのです。

多くの人が多くの場面で、三つ以上になるともう「いっぱい」くらいの括りに入れてしまう。

例えば、悩みごとも、「仕事の〆切は迫っているし、友人の結婚式のスピーチを来週しなきゃなんないし、足の爪を切り過ぎちゃって痛いし、いま俺いけてない! 悩みだらけの大ピーンチ! 不幸のデパート!」なんてことに。三つも悩みがあれば、充分いっぱいいっぱいになる人が多いのではないでしょうか。私だけでしょうか。

その逆で、「あの新人はあいさつがさわやかだし、いつも早く出勤するし、机の上もよく整理されているなあ、うんうん、感心感心」などと、人の評価も、プラスポイントが三つくらいあれば、結構高評価にしてしまったり。

毎週の授業でたまたま同じ曜日に同じネクタイをしていくことが三週も続くと、

「先生いーっつも同じネクタイやね~」なんて目ざとく見つけて言う生徒がでてきたり。

「この服かわいいわ、あ、あのテレビドラマでヒロインが着てたのに似てるし、やだ、このショップ、今ならポイント二倍なんですって、え?限定品? 買わねばだわ!!」

どうも、われわれは「1、2、……いっぱい」という数認識が多いのではないか。

これを逆用する手もありまして、「他人を説得するとき」など、この理論?が応用できます。

理由や根拠を三つ用意しておくわけです。ゆめゆめ「二つどまり」にならぬこと。

自分を元気づけるときにも好材料を三つ挙げてみる。「俺って実はメタボだけど意外と頭髪はだいじょぶじゃん、それに最近何年間か免許証はゴールドキープだし、今年はヤクルト調子いいよな」なんて。

三つというのが意外にポイントで、四つ五つになると「くどーい、理屈っぽい、そんなに言われるとかえって冷めるわん」となりますので、三つぐらいがほどよい「いっぱい」なのかもしれませぬ。

2011年9月13日 (火)

コロンの卵

外国の小説の中でアルカード(Alucard)と名乗る人物が現れたら、その正体はまちがいなく吸血鬼です。ドラキュラのさかさことばですね。「吸血鬼文学」ということばがあるぐらい、吸血鬼というのは小説のテーマとしては魅力的なようで、多くの人が手がけています。スティーブン・キングの『呪われた町』なんて、そんな古典的なテーマを扱いながらも、古くささを感じさせない、いわゆるモダンホラーでした。まあ、「ホラー」と言っても、べつにこわくはないんですがね。だいたい、ホラーというのは何がこわいのでしょうか。

とくに外国物は、恐怖はほぼゼロですね。『エクソシスト』や『オーメン』なんて、むしろワクワクする楽しさでしょう。『オーメン』が文庫で復刊したときの値段がなんと666円でした。出版社のほうだって、そんなおちゃらけたことをやっているぐらいです。細かいストーリーは忘れましたが、たしかジャッカルが生んだ子とかいう設定ではなかったかなあ。荼枳尼天ですね。『リング』のテレビ化もひどかった。ビデオを見たら死ぬというのが、小説を読んでいない人たちの間で広まって都市伝説にもなったぐらいですが、文章の形ならまだしも映像になったらダメですね。テレビの画面から出てくるところは想像すればこわいだろうなとは思いますが、人間が演じて現実にやってしまえば滑稽ささえ出てきます。

やはり想像力、イメージの力というのはすごいものがあります。イメージで思い出しました。6年で「漢字の征服」というイベントをやっているのですが、ある生徒が質問しました。「合格点は96点? 前と同じですか」「なんや、君だけ98にしてほしいということか」「(あわてて)いえいえ、そういうわけでは」「じゃあ、君だけ特別に合格点を決めよう。君の合格点は、君のとった点数プラス2点、いうのはどうや」「えー、それ、にんじんを前にぶらさげた馬やんか」このやりとりで、この馬のイメージを瞬間的に思い浮かべられる人は国語力が相当あります。Nくん、君のことだよ、ハッハッハッ。

話をもどすと、三遊亭円朝が「天井から血がタラタラッ」と言った瞬間、話を聞いている人たちが一斉に寄席の天井を見上げたとか、畳の席に座っていた客が満杯だったのに、話が進むにつれて、四隅があきだしたとか。あとのほうはもちろん、こわさのあまりみんなが身を寄せ合いはじめたんですね。怪談は見るよりも聞く方が圧倒的にこわいようです。稲川淳二が人気のあるゆえんです。ミロのヴィーナスの美の理由も想像力だそうです。手が発見されていない形だからこそ見る人が想像で補い、そこに美が生まれるのだと。最初から手があれば100点なのかもしれないが、ないことによって120にも150にもなるということだそうです。このへんの考えは吉田兼好も言っています。教科書にもよくとられている部分です。「月はくまなきをのみ見るものかは」というやつです。満月でなくても心の中でえがく美しさがあるし、雨であっても雲の向こうの月を想像する美しさがあるというのです。花も同じで、咲く前、散ったあとにも見どころがあると言っています。

『徒然草』にはデジャブの記事もありますね。「今見ている情景、こんなん、たしかにあったよなー、と思うのは私だけでしょうか」と言っています。でもデジャブが起こるのは、脳の調子が悪いときらしい。脳は、今見ている情景を自動的にカードに記録して、とりあえず脳内のキャビネットや机の引き出しに入れるそうです。それを睡眠中に短期・中期・長期記憶のどれかに分類して必要に応じて取り出したり、「ごみ箱」に入れたりすることになっているようですね。ところが、たまにカードを入れた引き出しを思い切り強く閉めると勢いではね返って、引き出しがもう一度出てくるときがある。そうすると、脳が錯覚を起こして、「あれっ、今見ているこの情景、引き出しから取り出した過去の記憶カードに書いているぞ」ということになってしまいます。これがデジャブだとか。ということは、「おれはデジャブ、よくある」と自慢している人は頭が弱くなっているのを自慢しているということですね。

何度も書いているような気もしますが、最近のドラマや映画もデジャブかと思うぐらい同じようなものばかりですな。泣かせるために主人公を白血病にしてしまうのは、大昔の少女マンガでよく使われる手でした。もういいかげん飽きて、さすがにこんな安易な手を使う人がいなくなったころ、「セカチュー」というのが出ました。もうそのころには、これが安易な手であることを知らない人が増えてきていたのですね。入試でよく出題され、手アカがついたような文章があります。安岡章太郎の『宿題』とか、最近ではあさのあつこや重松清の作品とか。どの問題集にものっているので、またか、と思うのですが、さすがに何年かたって改訂されると、そういうものが消えていきます。みんなの見る機会が減ったころ、思い出したようにまた出題されるのですね。「セカチュー」はタイトルからして、「なにそれ」と思いました。『世界の中心で愛を叫んだけもの』という作品名をそのまま使っています。この作品名をパロディとして「エヴァンゲリオン」がパクったものをパクったのでしょうか。ひょっとして、そういう先行作品があることを知らなかった? あえて「デジャブ」をねらったのなら、それはそれで評価できます。

「タイムスリップもの」もそろそろいいかげんにしてほしいなあと思いますが、もはや「時代劇」「推理もの」「タイムスリップもの」というようなジャンルになってしまっているのかもしれません。『仁』にしたって、設定は安易でした。『戦国自衛隊』も安易でしたが、ばかばかしくておもしろかったなあ。自衛隊が戦国時代にタイムスリップして上杉謙信を助けるという発想が、そのころは魅力的でした。半村良はなかなかでしたね。この人が「タイムスリップもの」を始めたわけではないでしょうが、初期のころは新鮮でした。コロンブスの卵ですね。でも、卵は底を割らなくても、そっと立てると立ってしまうとか…。コロンブスはスペイン読みでは「コロン」という発音になるというのもおもしろい。

2011年9月 3日 (土)

台風襲来

暴風警報のため金曜日・土曜日と授業が中止になりました。これを書いている土曜日正午過ぎの時点ではたいした風は吹いていませんが、何が飛んでくるのかわからないのでやはり危険ですね。

山で強い風が吹くと、ほんとうに飛ばされそうです。数年前に、槍ヶ岳の頂上直下で強風にさらされたときは、岩につかまっていないと体がよろめいて滑落してしまいそうでした。「ひ~」と恥ずかしい声を出しながら岩にしがみついていると、頂上方面から、ポケットに手をつっこんで歩いてくるおっさんを発見しました。「穂先はもうちょい風が強かったよ」と言ってすたすた下りて行くおっさんを見送りながらへっぴり腰で岩に抱きついている自分が情けなかったです。

もうひとつ、風が強いとやっかいなのはテントの設営です。たとえば雪山で、山小屋なんかも閉じているときにうっかりテントを飛ばされてしまうと目もあてられません。

これも数年前の話ですが、八方尾根スキー場から唐松岳めざして登っていたときのこと、途中から吹雪になって視界がきかなくなり、平坦な稜線上にテントを張りました。しかし、テントを張るのに最も良さそうなポイントをさがすのがなかなか面倒です。一見平坦でも結構でこぼこしていたり傾いていたりしますし、できることなら多少の遮蔽物があって風をよけられれば理想的です。

このときは、うろうろしていると大きなケルンがあり、周りに木の杭なんかも打たれていたので助かりました。ただの石積みのケルンは危険ですが、きちんとした建造物になっていれば安心です。木の杭にテントを固定することができてラッキーでした。

なんとか設営を終え、缶ビール片手に(寒くて震えていてもビールは飲む)ケルンの正面にまわると、「長男◎◎ここに永眠す」というレリーフが。

げっ、と思いつつ、しかたなく手をあわせ、「◎◎さん、僕を守ってね」とお願いする私でありました。

◆◇◆

山といえば、怪談話がつきものです。

夜中に、だれもいないテント場で女の人たちの笑い声を聞いたことがあります。強い悪意は感じませんでしたが、ちょっといじわるな感じの声でした。あれは、木霊じゃないかなと思うんですが、どうでしょう。立ち枯れた木がたくさん残っている辺りでした。

大幅にタイムが狂って、夜に新雪が積もった奥穂高を歩くはめになったときは、ちりんちりんという鈴の音が聞こえてきました。きれいな音でした。よく考えるとそんな音が聞こえるなんておかしな話ですが、なんせ「遭難したくない~、生きて帰りたい~」と半泣きになって必死のぱっちで歩いていたときだったので、「へえ~、鈴ですか、はいはい」と思っただけでした。

しかしながら、はっきりと「霊」というものを見たことがあるわけではありません。そういう世界を信じているかと問われれば、「う~ん、どっちでもいい」って感じです。以前はよく「金縛り」にあいましたが、それが心霊現象だという実感もありません。ただ、「信じているかのように」話したほうが、楽しいしおもしろいなあとは思うようになりました。あくまでも楽しめる範囲でという限定つきです。「このツボを買わないと不幸になるぞよ」式の話は楽しめないので僕としてはNGです。

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