« 2011年10月 | メイン | 2011年12月 »

2011年11月の3件の記事

2011年11月28日 (月)

睡眠および夢について

なかなか熟睡できません。

寝る前にみかんを3つぐらいぱくぱくぱくと食べてしまって夜中にトイレに行くはめになるため、というだけでなく、年老いるにしたがって、長時間ぐっすり眠るということができなくなりつつあります。原因をいろいろ考えていますが、ひとつに、寝返りの問題があるような気がします。

ずっと同じ向きで寝ているとからだに負担がかかるため、ふつう眠っているあいだに人は頻繁に寝返りをうつそうですが、どうもこの寝返りが上手にうてないというか、そもそもあまり寝返りをうっていないみたいなんですね。で、からだに負担がかかってこれはどうでも寝返りをうたなければならないという点までやってくると、目がさめてしまいます。要するに、眠ったまま寝返りをうつのが下手ということですね。

これは大学時代にシュラフで寝ていたせいかもしれません。ご存じのとおり寝袋は狭いですからいつも窮屈な姿勢で、ツタンカーメンみたいな感じで眠っていました。そのせいで最小限しか寝返りをうたない癖が身についてしまったんじゃないかなあと。

で、必然的な成り行きとして、夢見があまり良くありません。

人それぞれによく見る悪夢ってありますよね。

中学から大学ぐらいまでは、戦争の夢でした。戦争の恐怖は10代の僕にとって切実な問題でした。中学生のときには、僕の住んでいた団地にソ連が攻めてきて、後ろから機関銃で撃たれるという夢をみました。大学生のときには、特攻隊のメンバーに選ばれて絶望する夢をみました。

その後、劇団に所属してからは、やはり定番の「セリフが出てこない!」夢をよくみました。これは、その世界から足を洗って相当たつ最近でもまだみます。合格祝賀会で劇をやっているからかもしれません。

車の免許をとってからちょくちょくみるのは、運転が思い通りにいかないというタイプの夢ですね。ブレーキを踏んでも踏んでも止まらない。猛スピードで走っているのではなく、ずるずるっずるずるっと車が動いていきます。

塾講師になってからよくみる悪夢は2つあります。

ひとつは、遅刻する夢です。ああ、もう授業が始まる時刻なのに俺はなぜこんなところで山登りをしているのだ、みたいな夢ですね。

もうひとつは、授業中に学級崩壊してしまう夢です。いくら怒鳴っても叫んでも子どもたちが静かにならない夢で、とても疲れます。

夢の時間は現実の時間より遅れていますよね。夢のなかではまだ大学生だったり、場合によっては大学受験をしている高校生だったりします。僕の無意識はまだ僕の現実に全然追いついていないんだなあと思います。

メラニー・クライン(精神分析家です、児童分析で有名です)の本なんかを読んでいると、人間の成長というのは、赤ん坊から幼児、少年、青年・・・・・・というふうにべつのものへと変容していくのではなくて、服を着るように、赤ん坊の自分の外側に幼児の自分を新しく着込み、少年の自分をその上に重ね着し、大人の自分をその上に羽織り・・・・・・というふうになっているんじゃないか、服の下には赤ん坊の自分がそのまま残っているんじゃないかと感じます。三つ子の魂百までと言いますが、「赤ん坊の自分」「幼児の自分」は消失も変質もせず、そのまま自分の核にあり続けるにちがいない、そういう実感があります。

それはともかく、何とかして熟睡したいものです。私の希望としては、毎日9時間眠りたい! かつて実際にそうしていた頃は体の調子が良かった!

そういえば、アメリカの統計で、一日の平均睡眠時間が9時間の人と7時間の人では、7時間の人の方が長生きだった、という結果が新聞に載っていました。かなり前の話です。でも、それって「睡眠時間が7時間だったから、長生きした」とは言えないよなと思います。そもそも健康な人だったから、7時間睡眠で活動しまくってたんじゃないのかなあ。

2011年11月23日 (水)

低体温について

小学生の頃から低体温で、だいたい5度6分~8分が平熱です。

小学生の時分、学校に行くのがイヤというわけではないけれど、病欠というものに憧れて、しばしば体温計で熱を計りましたが、いつも5度台なのでがっかりしました。病気になってベッドに横になり、優しい言葉のひとつもかけてもらって、おかゆを食べさせていただきたいと、いつも思っていましたが、運動神経が鈍いわりには健康で、なかなか病気になれませんでした。

というわけで、実は「はしか」も「おたふく」も「水疱瘡」もやっていません。担当しているクラスの子が休んでいて、「どうもおたふくらしいよ」とか「水疱瘡だって」などと聞くたびに、そういえばあいつこの前やたらと俺に近づいていたな、うつったんじゃなかろうか? うーん、などと戦々恐々としています。

若い頃は低体温だってべつにどうってことありませんでしたが、この歳になって、いろいろとある僕の身体的な問題点の多くは、低体温に由来しているのではあるまいか、という疑念がわきおこってきました。なんだかそういう本もはやりましたよね。

たとえば、山登りをしているときに、僕はほとんど休憩をとりません。山登りの本を読んでいるとちゃんと休憩しないとだめみたいなことが書いてあるんですが、休憩すると体がすぐにがちがちにかたくなり、歩き出すのがしんどくなってしまうので、できるだけ休みたくないんです。ちょっと立ち止まって、呼吸をととのえるだけでいいやって感じです。よく一緒に山に行くY田M平先生なんぞすぐに座り込んでますが、あんなにどっぷり休憩したら僕はだめです。そこでいつもY田先生をおいて先に行くことになります。

この、休憩するとすぐに体ががちがちになるのは、ひょっとしたら低体温のせいじゃないかなあなどと思ってしまうんですね。

それだけではありません。僕は体がものすごくかたいんですが、そもそもこれだけ柔軟性がないのも、低体温と無関係ではないのではなかろうか?

いやいや、待てよ、そういえば足がすごく痺れやすいのも柔軟性の欠如、ひいては低体温が原因ではあるまいか?

情けない話ですが、おそろしく足が痺れやすいために、正座がまともにできません。あぐらをかいてさえも痺れてしまうんです。ていうか、立ってて痺れたことさえあります。

祖父の葬式では2回転びました。焼香するために立ちあがった瞬間どたっ、歩いていく途中にどたっ、カッコ悪かったです。

そこで、今年の私の個人的な目標は、「体温を上げる」でした。でも、どうしたらいいのかよくわからないので、とりあえず筋肉でもつけてみようかと、腕立て伏せをしたり腹筋をしたりしてみましたが、さて、どんなもんでしょう。年末にコンディションをととのえて体温をはかってみたいと思っています。

2011年11月 7日 (月)

太郎の気持ちはわからない

だじゃれではないのですが、同じことばでありながら二通りの解釈ができるものがあります。たとえば、「ないものはない」ということばはしゃべる人の態度や様子で意味が変わってきます。ドン○ホーテのような店がえらそうに「ないものはない」と言えば、「何でもある」の意味になりますが、「どうしてないんですか」と問い詰められたときに「ないものはない」と言えば、「ないのだからしかたがない」の意味になります。どちらの意味なのかは、それまでの文脈やそれを言うときの態度で判断するしかありません。

「雪にかわりがないじゃなし」というフレーズのある有名な歌がありました。「ないではないか」と解釈すれば問題はないのですが、「ないわけではない」と解釈すると「ある」ということになってしまいます。だいたい打ち消しというのはむずかしいですね。「…しようか」と言っても「…しようではないか」と言っても同じだし、「…する?」と「…しない?」とたずねても同じになるというのはなんか変です。打ち消し表現を重ねると、瞬間的にどっちかわからない場合がありますね。「あり得なくない?」とか言われても「あり得る」のか「あり得ない」のか、わかりません。「そうじゃないこともないわけじゃないですか」とか言われたら、「おまえは何を言っとるのだ、バカモーン」と言うしかありません。

世の中には格調高く見せかけて、実は何も言っとらんという、ふざけた表現もあります。政治家や役人の言う「可及的速やかに善処します」は「何もしません」という意味らしい。「くわしい話は聞いていない。それが事実なら大変だ、まことに遺憾に存じます」というのは、「別にどうだっていいじゃないの」という意味だそうです。「オトナ語」の中にもこういうのはよくあります。「今度またいっしょにメシでも」や「うちにも一度いらしてください」というのも、単なる「さよなら」の意味しか表していません。「京の茶漬け」ですな。ことばというのは、実にいいかげんなものであります。

では数字は正確か、と言うとそうでもない。1÷3×3の答えが1と0.9999……の二通り出てくるのは、どこかにごまかしがあるのにちがいありません。100㎏と0.1tは同じはずなのに、体重100㎏と聞いたら、そういう人も多いよなと思うのに、体重0.1tと聞くと、おまえはトラックかと言いたくなります。平均点というのも考えると変です。62.3点が平均点だとすると、その点数が最も普通の点数だということになりそうですが、62.3点という中途半端な点をとった者はだれ一人としていないのですね。統計のうそというのもよく言われますが、たしかにまやかしが多いようです。

統計の解釈のしかたでは、相関関係と因果関係というのも、区別しにくいことがあります。成績のよい子は朝ご飯をちゃんと食べていることが多い、というデータがあったとしても、朝ご飯を食べることがよい成績をとる原因になるわけではない。でも、そういうデータを示しながら、あたかも自明の事実であるかのように因果関係を言われるとうっかり信じてしまいます。まあ、多くの人の「論理」もじつはその程度なのですがね。第一厳密すぎると日常生活がスムーズにいきませんし。「その部屋にはいったら、だれもいなかった」に対して、「おまえがいるじゃないか」とつっこまれることをおそれて、「私をのぞいてだれもいなかった」というのも変です。アバウトでよいのでしょう。「あんたかてあほやろ、うちかてあほや、ほなさいなら」のレベルです。三段論法のように見えて、論理的でもなんでもない。「山下くんはめがねをかけている」「山下くんは人間である」「人間はめがねをかけている」の結論は明らかに変なのですが、なぜ変なのか、すぐには反論できません。こういう「へ理屈」を大群でおっかぶされたら、いつのまにか説得されてしまいそうです。「AならばB」に対して「BならばA」が言えないのはなんとなくわかりますが、「BでないならAでない」が成り立つと言われても、打ち消し表現が重なるので、なんだかわからなくなります。

落語の「壺算」はみんな聞いていてげらげら笑っていますが、瞬間的に理解できているのでしょうか。つぼを2円で買った男が、「倍の大きさのつぼにしてくれ」。店のほうは「それなら4円です」と言う。男が「さっき買ったつぼはいらないので、2円で引き取ってくれ」と言うと店は了承する。そこで男は、「さっき払った2円と、下取り代の2円で合計4円やな」と言って、つぼを持って帰るという話ですが、店には2円のお金しか残っていない。変は変なのですが、ではなぜ変なのと言われると、ややこしくて説明できないような気がします。

「八百屋にキャベツを買いにきて、『五百円』と言われた外国人が一万円札を出してきた。ところが、八百屋は細かいお金がたまたまなかったので、となりの魚屋へその一万円札を持って行って両替してもらい、お客に『九千五百円』のおつりとキャベツをわたした。ところが、しばらくすると、魚屋のおばちゃんが『さっきの一万円、にせ札やないの』と言ってきたので、八百屋は自分のところの金庫から一万円を出して魚屋に返しました。さて、八百屋はいくら損をしたでしょう」という問題にさっと答えられる人が世の中に何人いるのでしょうか。

算数の問題にはこういう「まぬけ」なやつがよく登場します。しないでもよい、よけいなことをするやつですね。「太郎君は学校まで毎分80メートルで歩いて行きますが、今日は歩き出して3分後に毎分160メートルで歩いたために、いつもより5分はやく学校に着きました。さて、……」なんて問題がよくあります。子どものころの国語科の講師は「太郎、おまえはなんでそんなよけいなことをするねん、いつも通り歩けばええやないか。しかも毎分160メートルって倍の速さやないか、常人の速さやないで、それ走ってるがな、朝なにがあってん、おかあちゃんに叱られたんか」などと太郎君の心情にまで立ち入って考えてしまい、結局正解できなかった人たちです。

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク