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2012年5月の5件の記事

2012年5月29日 (火)

山の数え方

ついに日本人初の14サミッター誕生ですね!

新聞に大きく出てたんですが、ご覧になりましたか?

世界に全部で14座ある8000メートル峰すべてに登った人は、これまで日本にいなかったんですが、竹内洋岳さんという方がついに達成しました。

ちくしょう、オレもねらっていたのに!

僕がまだ富士山にも登らないうちに達成されてしまったが、正々堂々と戦って負けたのだからむしろさわやかな気持ちです。

ま、竹内さんはオレというライバルがいたことはまったく知らないわけだが。

・・・・・・。

それはともかく、こういうニュースを新聞で見かけたとき、塾生諸君には、

「お、山って、1座2座って数えるんだ~」と気づいてほしいところですね。

2012年5月23日 (水)

リオデジャネイロは東京弁

「めちゃめちゃ」「むちゃくちゃ」の省略形の「めっちゃ」や「むっちゃ」は元の形がわかりますが、「むっさ」となると、瞬間、ン?と思います。ましてや「ごっさ」となると、なにそれ?と思ってしまいます。これは、さすがに定着せずに消えたような……。「ばり」というような「新方言」もありますが、これは何でしょうね。「ばりばり仕事をこなす」のように元気で勢いよく活動する様子ではなく、「非常に」の意味で使っているようです。最初のころは「ばりばりむずかしい」のような言い方をしていたのが、「ばりむずかしい」「ばりむずい」というように、どんどん短くなっていきました。ヤンキー系のことばのような気もするし……。「バリバリ伝説」は全然関係がないのかなあ。

「新方言」の一つの特徴は、省略形が多いことでしょう。「気色悪い」が「きしょい」、「むずかしい」が「むずい」になるように。まだ使う人は少ないようですが、「はずい」というのを聞くことがあります。「はずかしい」の省略形なので、「むずい」と同じで、特に問題はないようですが、「はずい」と言っているのを聞くと、なにか「はずい」ような気がします。「鬼~」や「ブルー入ってる」のように、いかにも若者が作りましたということばは聞いているほうも相当「はずい」し、すぐに消えてしまいましたが、「はずい」の作成法は「オーソドックス」なのに、なんか妙な感じがします。「気色悪い」は六音なので省略したくなりそうですが、何音なら略すのでしょうか。「むずい」はもともと五音です。それなら「ありがたい」は「ありい」、「やかましい」は「やかい」になってもよいのに、そうなっていません。「おびただしい」は六音ですが、「おびい」とは言いません。というより、「おびただしい」ということば自体、日常会話では使わないか。

そもそも省略形は形容詞が多いようです。形容詞は特に感動を強く表すときに語幹のみで使われることがあります。強烈にくさいときは「くさ!」になります。「くっさー」となると岡八郎です(みんな知らんやろなー)。形容動詞も同じで「きれいだ」は「まあ、きれい!」になります。女の人のこういう言い方を聞いた子供たちは、「ビューティフルな状態」のときには「美しい」とも言うし「きれい」とも言うのやな、「美しい」は「美しかった」と言えるから、「きれい」も「きれかった」と言えるやろ、と勝手な類推をしてしまうのですね。「まずい」場合は「まず!」で、はげしくまずい場合には「激まず」という使い方もします。「むずかしい」は本来「むずかし!」ですが、強く感動を表したいのに、ことばとしては長すぎるので「むず!」になるのでしょう。「気色悪い」も叫び声として使いたいことがあるので「気色わる!」が「きしょ!」になったのでしょう。ということは「はずかし!」が「はず!」になってもおかしくないのですが、そうすると「恥ずかしい」と同源の「恥ず」という動詞と区別がつかなくなるので、本能的に避けたのでしょうか。いやいや、まさかそこまで高度なことを考えるとは思えませんな。

単語が時代によって変化するのは当然ですが、発音も変わっていくわけです。大阪では「淀川の水」が「よろがわのみる」になり、「きつねうどん」が「きつねうろん」になり、「し」が「ひ」になまって、布団は敷くものではなく、「ひく」ものでした。でも、そういうなまりはほとんど消えてしまっています。しかしながら、根本的な部分はなかなか変わらないのでしょうか。一音語をのばして発音するという特徴は健在です。「一、二、三、四……」は東京人なら「いち、に、さん、し……」ですが、大阪人は「いち、にい、さん、しい…」です。「木がはえる」は「きいがはえる」、「目が悪い」は「めえがわるい」になります。「手をあらう」が「てえあらう」になるのは「を」を省くという特徴も含んでいます。「胃」も「いい」ですが、これは「イー」の発音になっています。昔の人は「いい」の二つ目を強く発音していたような気がします。東京で授業をしているとき、保護者の方との話の中で「詩の出題が減ってきた」と言ったのですが、一瞬けげんな顔をされました。たしかに「しいのしゅつだいが……」と言ったのでは、東京の人にはわかってもらえません。

どちらにせよ、一音語を長音化するのは関西弁の特徴であり、東京ではないはずなのですが、「二二六事件」の読み方はどうなのでしょう。わが大阪人なら当然のごとく「にいにいろく」ですね。江戸っ子は「ににろく」と発音するはずですが、そんなふうに言っているのを聞いたことがありません。どうして、これだけ関西弁を真似するのか説明できる人がいないかなあ。「問う」の過去形で「問った」と言えずに「問うた」という「ウ音便」(謎の韓流スター、ウオンビン)を借りざるを得ない東京言葉の未熟さゆえでしょうか。ただ、どういうときに未熟さが露呈されるのか、規則性がほしいですね。「買った」と言って「買うた」と言わないくせに,「ありがとうございました」というときにウ音便を使わざるを得ないのはわかります。これが敬語だからですね。上方に比べて、関東は敬語が未発達だったから、関西のものを借りるしかなかったのですが、「問うた」も「二二六事件」も敬語とは関係がありません。もし「二二六事件」にふりがなをつけろという問題が出たら、やはり「ににろくじけん」と書かないと×なのかなあ。

イントネーションも少しずつ変わっていくのでしょうね。発音の平坦化はコンピュータ関連の人の発音が平たいところから生まれたのだろうと思っていましたが、「秘密のケンミンショー」などを見ていて、ひょっとして「栃木弁?」と思いました。U字工事やつぶやきシロー、立松和平、ガッツ石松など、文全体としては尻上がりイントネーションのようですが、単語それぞれについてはアクセントがあまりないような感じがします。「彼氏」を「枯れ死」のように発音する感じですね。東京言葉の中に方言がはいりこんできたのかもしれません。逆に地方には東京言葉がはいりこんできます。「~じゃねえよ」とか言う大阪人なんて本来ありえないはずなのに、友達どうしの会話のつっこみに使う人も多いようです。さすがにこういう部分は東京風のイントネーションのままなのですね。そりゃそうです、東京のことばをそのまま真似しているのですから、それは大阪弁じゃねえよ。

2012年5月16日 (水)

読書の話~頭がすっきりする本②

前回、「頭がすっきりする本はないかしら」という話題から、「対話形式で物を考える」という話題を経由し、「対話」について書かれたバフチンの本を読むぞ~と思いついて話が終わりました。

そのとき、グールドの『人間の測りまちがい』を再読していたので、これを読み終わったらバフチンの本を読もうといったんは決めたんですが、結局、せっかちな私は、グールドをうっちゃって、さっそくバフチンの『小説の言葉』にとりかかりました。で、本日の昼過ぎ、阪急電車京都線準急の中で読了しました。

この本は確か10年~15年ぐらい前(ひょっとするともっと前かも)に1度読んだことがあり、そのときからバフチンの言う『対話』という概念は引っかかっていたんです(良い意味で)。で、折にふれて考えようと胸に刻んだまま幾星霜、いつのまにやらほとんど忘れかけていた頃に、あらためて、考えたいテーマとして前景化したといいますか、浮上したわけです。

『国語まにあっくす』なので、少しだけマニアックな話をしますと、バフチンが「対話的」と呼ぶのは、登場人物同士の会話に限られません。たとえば、次のような文も「対話的」ととらえます。

「しかしタイト・バーナクル氏は、いつもボタンをきちんとかけていた、また、そうであるがゆえに重鎮であった。」(ディッケンズ『リトル・ドリット』 訳;伊東一郎)

なぜこれが「対話的」な表現といえるのか、バフチンは次のように説明します。

「そこには実際には二つの言表、二つの言葉遣い・・・・・・意味と価値評価の二つの視野が混ぜ合わされている」

「全く同一の言葉が・・・・・・二つの視野に同時に属し、従って矛盾しあう二つの意味、二つのアクセントを有することさえしばしばある」

上のディッケンズの例にあてはめると、まず、「バーナクル氏は、いつもボタンをきちんとかけていた」という部分には何の問題もありません。ところが、その続き、「そうであるがゆえに重鎮であった」という部分には、ある特殊な(変な、という意味ではありません)物の見方が表れています。この物の見方(ボタンをきちんとかけている人は重鎮である)は、一般世論=一般的で卑俗な通念にのっとった物の見方になっています。作者は、形式的には、この物の見方に同調するような書き方をしていますが、実際のところは、この「そうであるがゆえに重鎮であった」という表現からは「皮肉な」調子が読み取れます。つまり、一般世論とは異なる作者独自の見方が織り込まれているわけです。ここでは、作者の見解は「直線的」には述べられず、他者の言葉の中にまぎれこむように、いわば「屈折」されたかたちでにじみ出ています。ものすごく簡単に言うと、こういうこともふくめて、バフチンは「対話的」と呼んでいるわけです。

おもしろい! ・・・・・・ですよね?

バフチンは小説の文体論としてこの書物を著したわけですが、この「対話的」という概念の射程はもっと広いんじゃないかと僕は思います。論説的な随筆を理解するうえでもこの考え方は援用できるだろうと思うんですね。むしろ、そういったジャンルの文体なども全部ふまえて小説の文体が成立しているという話なので、論説的な文章にこの考え方があてはめられるのは当たり前といえば当たり前なんですが。

さて、この『小説の言葉』の中に、「論争的、弁明的」という言葉がくり返し出てきました。それで、なるほどと思ったんですが、どうも僕は「論争的・弁明的」に書かれた文章を読むと、(頭が冴えるかどうかは別として)、人と話をするときの受け答えが少し変わるような気がします。気のせいかもしれませんが、ちょっとだけ切れ味がよくなるような・・・・・・。どんな本が頭がすっきりするかというのはあまりはっきりしませんが、少なくとも、論争的・弁明的な意図が強く出た文章を読むと、受け答えという点での変化はある気がしますね。

ただ、本の話を離れて、ふだんから対話的に考えるということの効用を考えると、受け答えのときの切れ味だけに関わるわけではないような気がします。

対話的に考えることは、「他者の視線を内在化する」ことにつながると思います。

たとえば、記述ゼミナールの授業で演習をしますよね。子どもたちに記述問題をあたえてテキストに答えを書きこませます。そのときに「自分の答えをよく見直して、誤字脱字がないか確認しなはれ」と指示を出します。子どもたちはへいへいとうなずいて取り組むわけですが、机間巡視していると、実に誤字脱字が多い。見直しをしていないかというとそうでもない。もちろん見直しをさぼっている子もいますが、見直しをしていてなおかつ発見できない子がたくさんいるんですね。おもしろいのは、単に見直しをしたときと、僕に横に立たれて見直しをしたときでは、誤字脱字の発見率が変わってくることです。僕が横にいて答案を見ているとき、その見られているという意識の中で見直しをした子どもの誤字脱字発見率は上がります。

これは「直線的な」見直しではなく、意識において、「屈折した=他者の視線を経由した」見直しになっているからではないかと思います。誤字脱字に限らず、「この答えをあのこうるさい先生が見たらどんないちゃもんをつけよるやろ」と考えることはとても重要だと思います。講師の視野・講師の考え方をどの程度内在化できるか、学ぶことにおいてこれはとても大きいんじゃないでしょうか。

余談ですが、この本は私が買ったときには2800円だったのに、今じゃ平凡社ライブラリーから出版されていて、1200円ぐらいなんです。 まさかこの本が新書で出るなんて。新書になる前に1度読んでいるからよかったですが、高く買った本が、1度も読まないままに文庫化されたりするとショックで倒れそうです。最近、まさかと思うような本が文庫化されているので、年に数回倒れそうになります。

2012年5月 9日 (水)

頭がすっきりする本

その本を読むと、頭が冴え、人と話すときには言葉が、仕事をするときには考えが次々にわいてくる、そんな本がないかしらと物色中です。

実は、それに近い経験がないわけではありません。

もう十年以上前の話ですが、野家啓一先生(東北大学の哲学の教授です)の本をつづけざまに読んでいたとき、「最近、妙に調子がいいなあ」と感じました。本の内容は難しくて半分もわからないんだけど、とにかく読んでいて気持ちがいいし、人と話をしていても(比較的)切れの良い受け答えができる(ような気がする)。

そういえば、『資本論』を読むと頭が冴える、という話は昔よく聞きました。フランスの文化人類学者、レヴィ=ストロースが仕事の前に『資本論』を読んでいたとかいう話もありました。確かに、『資本論』はそういうところがありました。ただし、僕の場合、自主ゼミで3時間ぐらい「あーでもないこーでもない」とやった直後は疲労困憊してしまっていつも頭がぼんやりしていたような。

うん、でも、確かにある種の本に関しては、少なくとも読んでいて気持ちがよく、「頭が冴える」とまでは言わなくとも、「頭がすっきりする」、そういうことはありますね。

僕にとっては、ダーウィンの『種の起源』もそういう本のひとつでした。

最近読んだのでは、進化生物学者グールドの『人間の測りまちがい』とか、廣松渉の『資本論の哲学』もそういうところがありました。

『人間の測りまちがい』と『資本論の哲学』は続けて読んでヒットだったので、すっかり気を良くしてしまい、これからは、こういう本ばかり読むぞ~と決めたわけですが、次に選択したクラウゼヴィッツの『戦争論』はいまいちでした。

『戦争論』は論理的に書かれているし、体系志向だし、絶対いけてるはずだと思ったんですが、少なくとも僕にとってはあまり気持ちよくなくて、途中でやめてしまいました。

何でだろう?

で、ひとつ考えたのは、本の書き方が、対話的かどうかってことがポイントなんじゃないかということです。上述の『資本論の哲学』は実際にはじめと終わりの部分が対話形式で書かれています。『人間の測りまちがい』は形式上は対話形式ではありませんが、ある種の傾向を持つ学説に対する反論として書かれているので、とても対話的なんです。これが、僕にとっては大きいような気がします。

他の人もそうなのかどうか知りませんが、僕はものを考えるときに、対話のかたちで考えることがよくあります。

実際に相手を思いうかべ、相手の言葉―自分の言葉―相手の言葉―自分の言葉―というふうに、相手が言いそうなことを想定しながら考えていきます。思いうかべる相手は、だいたい実在の人物です。わりと親しい(優秀な)友人や、言い負かしてやりたい知人、場合によってはすごく嫌いな人など、その都度適切な相手を(いつのまにか)思いうかべて、頭のなかで会話しています。

これは小学生の頃からの癖ですね。

家のトイレでふんばっているときなんかに、もうひとりの自分と架空の対話をしていた記憶があります。

「くそう、出ねえな、おまえどう思う?」

「どう思うって言われてもねえ」

とかなんとか、たぶん、実際にぶつぶつ声を出してやっていたと思いますね。ひとりっこだったので、話し相手がおらず、そういうふうになったんでしょうね。

これは憶測ですが、そういうふうに対話的にものを考える癖のある人は、国語が得意なんじゃないでしょうか。そういう人は、少なくとも言葉と言葉のやりとりというかたちでものを考えているわけで、概念的思考がある程度発達するような気がします。もちろん、そういう人だけが国語ができるという意味ではありませんが。

この「対話」の問題は、もう少し考える価値がありそうな気がしますね。よし、今読んでる本を読み終わったら、その筋の本を読んでみようっと。確か、バフチン(というソ連の文芸評論家)の本に、その関連のことが詳しく書かれていたはず。売らずにとっておいて良かった。

でも、バフチン読んで頭すっきりしたことあったっけなあ?

2012年5月 2日 (水)

テレビ番組

今回は、受験勉強の敵=テレビ番組について。

帰宅がたいがい零時前後になるため、テレビは、録画しておいて、時間のある昼間に見ます。

毎週見ているのは、『平清盛』ですね。何で視聴率が低いのかよくわかりません。前にも書きましたが、伊東四朗や三上博史の演技が良くていつも感心します。山本耕史も良いですね。悪役ぴったりです。ほんとうにいやな感じでグッドです。

最近見たものでおもしろかったのは、『見狼記』というドキュメンタリーでした。ニホンオオカミの生存を信じてさがしつづけているおじさんを主軸に、オオカミ信仰の取材をからめ、「見えないものを見ようとする人々」を描いていました。こういうのは民放ではやらないし、できないなあと思います。これだったら受信料とられても文句言えないなと思わせる出来映えでした。

あと、BS歴史なんとかみたいなので平清盛をとりあげていた番組がなかなかおもしろかったです。平清盛モノのうんちく番組は今年たくさんやっていますが、出色の出来映えでした。最近平家についての本を出した公認会計士の方と、東大の先生と神戸大の名誉教授を招いて、平清盛の革命性がどういうところにあるのかとか、清盛死去の後になぜあんなに脆く平氏が滅亡してしまったのかを突っ込んで解説してくれたんですが、かゆいところに手が届く番組に仕上がっていました。

ブラタモリもときどき見ます。街歩きの好きな僕としてはああいうのを関西でもやってほしいなあと思います。

先日、かなり前に録画しておいた「神宮外苑」の話を見ていたら、(番組の出来映えとは無関係ながら)おもしろいシーンがありました。国立競技場の中を職員に案内してもらっているときに、アナウンサーの女性が「ここからサッカー選手が子どもといっしょに登場するんですね」と言うと、職員の女性が「それはここじゃないんです、もう少しあっちですね、すみません」というようなことを言ったんです。この「すみません」がおもしろかったです。何で謝るんでしょ? いや、もちろんそこで謝る感覚というのは僕はわかります。同じ日本人なので。でも、欧米の人とか、アジアでも中国の人にはもしかしたらわかんないんじゃないかしら、と思います。

この「すみません」はわからない人にはわからないような気がします。

僕が考えた説明はこうです。つまり、自分の気づかいが足りないせいで、アナウンサーの女性がうっかり誤ったことを言うはめになってしまった、恥をかかせてしまった、そんな感じじゃないかなあと。サッカーの選手が云々というのはいかにも人が思いつきそうなことなんだから、あらかじめこちらから説明しておけば、このアナウンサーの人はテレビカメラの前でまちがったことを言わずに済んだのに・・・・・・みたいな。

まあ、実際に外国人(外国で生まれ育った人)にわからない感覚なのかどうか、つきあいがあまりないので、よくわかりません。意外と似たようなもんかもしれないなとも思うし、逆に予想外のところで全然ちがっていたりするんだろうなとも思います。

テレビ番組の話にもどると、小6になればテレビを観ている暇は正直あんまりないでしょうが、小5ぐらいまではいろいろ観るのも勉強になるんじゃないでしょうか。文章を読んでその情景がきちんと思いうかべられるかどうかは、頭の中にどれだけ「情景の抽斗」を持っているかどうかにもかかっているんじゃないかなと思います。

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