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2012年6月の2件の記事

2012年6月22日 (金)

ドーナツおちてる

最初にやる者がえらいのであって、今までなかったものをつくるのはすごいのですが、世の中にはいいかげんなものもあります。ことばの世界でも、今までなかったことばが生まれることがあります。たとえば「美肌」なんてことば、昔はあったのでしょうか。だいいち、どう読むのでしょうか。「び」は音読みなので、ふつうは「肌」も音読みの「き」にすべきですが、いつのまにやら「びはだ」という不思議な読み方で定着しています。化粧品業界の人が考え出したのかもしれません。「手書き原稿」なんてことばもあります。これは「ワープロ原稿」が生まれなければ、本来なかったはずのことばでしょう。ふつうは手で書くに決まっているので、わざわざ「手書き」と断る必要はありません。希学園の中では「手採点」という不思議なことばもあります。パソコン上で採点する「機械採点」に対して、直に赤ペンでマルペケをつければ「手採点」ですね。パソコンで採点するとスピードはあるので、楽になったのですが、漢字の採点がちょっとつらいのです。「手採点」なら、微妙な濃淡や字の勢いで判断できます。ところが、パソコンに取り込んだものでは、そのあたりがはっきりしません。「悪筆」の人にとって得か損かは場合によりますが、少なくともていねいに書いてくれていれば損をすることはないと思います。字の巧拙とていねいさは別なので、ていねいさを意識してほしいものです。

世の中には「悪筆」で有名な人もいます。都知事の石原慎太郎は、もともと作家だったわけですが、原稿だけでなく朗読したテープをつけて出版社に渡さないと誰も読めなかったとか、印刷会社にも石原慎太郎専従の植字工がいたとか、一人称の字が「僕」か「俺」か「儂」か区別できなかったとか、多くの伝説を残しています。「才能のある人は、字は手段に過ぎないと割り切って、そんなものは練習しない」という説もあるそうですが、でも伝達できないレベルではやはりまずいでしょう。ていねいに書くことで多少は読みやすくなるはずですし、やはり訓練の効果は大きいと思います。文字だけでなく、ことばの組み立て、つまり記述力も訓練でしょう。
話すときには「腰のあたりでグーッとパワーでプッシュして、ピシッと手首をリターンして……」と擬音だけの雰囲気でしゃべる人でも、書きことばになれば、きちんと書けます。書けるはずです。書けるでしょう、たぶん。文章を練り直して、最後まで「ネバーギブアップ」しなければ。また、「芸術はバクハツだ!」と叫ぶイメージで、わけのわからんことを言うと思われていた人も、じつは書いたものは非常に明快でわかりやすい文章でした。小説や詩になれば、さすがに才能が必要でしょうが、人に伝えるレベルなら、訓練次第だと思います。コツとしては、複雑に組み立てると乱れてしまうので、基本的には短い文から出発することでしょう。ワンセンテンスを長くしないことです。谷崎潤一郎ではなく、志賀直哉を目指すべきですね。シンプル・イズ・ベストです。

とはいうものの、話しことばでは、なぜか関西人は余分なことを言いたがります、かく言う私も含めて。シンプルだと我慢できなくなって、言わなくてもいいことを言ってしまうのですな。「一億円」と言うときには、必ずのように、「一おく円やで、一円おくんとちゃうで」と言ってしまうのは関西人の性でしょうか。聞いてるほうは確実にイラッと来ます。それにもめげずに、関西人はしょーもないことを言います、しかも下品。東京人なら、「家に帰って寝よう」ですませるところを関西人は「家に帰ってうどん食って屁ぇこいて寝よう」と言いたがります。しょーもないダジャレも言いたがります。東京では「おやじギャグ」として白い目で見られますが、関西では「おやじ」とは限りません。たぶん辛気くさいのがいやなんでしょうな。ちょっとでも笑いがとれればそれでええやん、と考えるのでしょう。「神殿で人が死んでんねん」なんて、不謹慎なだじゃれを平気で言いたがります。会社の会議でさえそうです。とある進学塾の理事長のM田T郎という人は、部下の「いまはこういうやり方がトレンドです」という意見に対して、「いやー、いくらトレンドでも、うちはその手法はとれんど」とのたまいました。この御仁は「そんなこと有馬温泉」というフレーズも好きでしたが、「あたりM田のクラッカー」という古いコマーシャルもお好きだったようです。祝賀会の劇でネタとして、よく使わせてもらいました。忘れられない台詞があります。「あ、ドーナツおちてる。……犬のう○こや! 食べんでよかった」。この台詞を合格祝賀会の舞台で大声で言った理事長は立派です。脚本を書いたのは私ですけどね。

だいたい合格祝賀会の講師劇でいちばん受けるのはダジャレネタですな。それも「中国のハエはちゅごく速ええ」のレベルの。仕込んで仕込んで積み上げて最後で落とす、みたいな「おしゃれ」なのは受けません。わかりやすいのが一番です。今年は禁断の「はげネタ」にまで手を出してしまいました。本当はやりたくなかったのですが、算数科のO方先生から是非やるようにそそのかされ、しかも「来年は、もっとハゲしくやれ」という厳命を受けているのです。祝賀会の劇では、その年のはやりものも出すのですが、一年たてば忘れられているものが多いようです。数年前、前述のO方先生には、ちょっと風貌が似てるかなと思って「ギター侍」をさせましたが、今はだれも知らない。理科のA田先生にも、あのコスチュームで「フォー」と叫んでもらったのですが、それってだれ? 今年は「マルモリ」というのがありましたが、二、三年たてば忘れられているのだろうなあ。

6年のテキストに、子規の俳句で「五女ありて後の男や初幟」というのがあって、「五女」を「ゴニョ」と読んだやつがいましたが、すかさず「なんやそら、崖の上のゴニョか」とツッコミがはいりました。このツッコミを言ったやつはえらいが、古い。さらに、そのうえにかぶせて「坂の上の雲か」と言ったやつも、古い。小学生とは思えません。こういうところに関西人の伝統が息づいていることに感服いたします。結構なお点前でございました。

2012年6月13日 (水)

おっす、おら宇宙人

塾の生徒たちにテキストの文章を音読させるとなかなかおもしろいことが起こります。コテコテの大阪風になる者もいますし、たまにきれいな共通語イントネーションで読める者もいます。でも、ほとんどが微妙に関西なまりなんですね。私自身もそうです。NHKのアナウンサーのような読み方ではなく、「橋の端を箸を持って走った」と読むときには、大阪弁になっとりまんな。日本全国均一化していく中でやはり方言の要素は残っていくのでしょうね。

テレビで『ブリンセストヨトミ』をやってましたが、あの中の大阪弁はなかなかつらいものがありました。原作の設定を変えてまでも綾瀬はるかを出したかったようですが、それ以外は大阪が舞台なら大阪出身の俳優をキャスティングすればよいのに、あえてそうではない人ばっかり出してきたのは何が狙いだったのでしょうか。西宮出身の堤真一を使いながらも、大阪をきらって飛び出したという役なので関西弁ではありませんでした。そのくせ、必然性のない部分でなぜかときどき関西なまりになっています。大阪を捨てきれない心の奥底を微妙に表した演出やね、と思っていたら、綾瀬はるかまで、関西訛りになってしまったところがありました。あれは何だったのでしょうか。中井貴一などはましなほうですが、みんな妙なイントネーションのえせ大阪弁を話す中で、綾瀬はるかも影響を受けてしまったのか。関西弁の威力、おそるべし。同じころに『阪急電車』もやってましたが、こちらのほうは関西出身の人が多かったせいで違和感がありませんでした。中谷美紀は開き直って関西弁を使っていないし、宮本信子は関西出身ではないのに、西宮の芦田愛菜を相手に上品な感じで抵抗なしでした(ただ、映画そのものは途中でギブアップしてしまいましたが)。

関西を舞台にしたドラマに関西人をなぜ使わないのか。関西人でなければ、あの「気色悪さ」はわからないのでしょうね。とはいうものの、リアルすぎる方言では通じなくなります。純正鹿児島弁のドラマは字幕なしでは理解できません(大河ドラマの『翔ぶが如く』では、やってたような)。時代劇にしても同じことが言えます。どの地方の農民も、「もうがまんなんねえだ、おらたち一揆やるだ」という言い方をします。これは方言ではなく、江戸時代の農民だったら、こんな感じ?という「役割語」です。江戸時代の、しかもその地方のことば通りにしなければならないとなったら、脚本家はお手上げでしょう。ある程度それらしく言えば、まあいいかと許せます。武士は「かたじけのうござる」「しからばこれにておいとまつかまつる」とか言ってほしいのに、いくら暴れん坊将軍でも「ワイルドだぜぇ」と言ってたら、どっちらけです。大河コントの『江』は、志村けんの「そのほう、年はいくつじゃ」はいつ出るの、というレベルだったので最後まで見ずに「脱落」したのですが、中身は着物を着ている現代ドラマで、台詞もそんな感じだったような気がします。「うっそー、お姉ちゃんたら、だっさーい」みたいな。西川先生推奨の『平清盛』も、平安末期のことばをそのまま使い、当時の発音でリアルにやるべきだと言われたら、作るほうも見るほうも困ってしまいます。

でも、この『平清盛』、じつはけっこうおもしろいのですけどね。ところどころ『ちりとてちん』のノリが出てきてマンガになるところがあざといのですが、オウムやサルの使い方など、ちょっとした細かい部分で笑えるところもあって、じっくり見るとなかなかのものです。「青墓」という土地の描き方や、「こ○き」発言など、NHKらしからぬ大胆さもあって、伝統的大河ドラマとはひと味ちがいます。戦場にゆく男たちではなく、家に残る女性の視点で描こうとした「太閤記」もかつてありましたが、『平清盛』では、武将の家庭人としての側面やどろどろした人間関係の描写に力を入れています。そのあたり、ちょっとかったるい面もありますが、ドラマとしては悪くありません。視聴率が低いのは、派手な合戦シーンや単純明快なヒーローを求める人が多いのかなあ。親子関係のことでチマチマなやむ、粘着質なシーンなんて見たくないのでしょう。「リアルすぎて伝わらない」というところでしょうか。とんねるずの「こまかすぎて伝わらないモノマネ」というのはすごくおもしろいのでわたしは好きなのですが、関係ありませんね。

予想もしないことを見せられる感動というのもあるのですが、逆に期待しているものを見たいという気持ちもあります。吉本新喜劇など、全編それです。また、これはこういうものだという思い込みを裏切られると不愉快になります。大河ドラマはこういう描き方をするものだという思い込みがわれわれにはあるのでしょう。アメリカの映画に出てくる宇宙人はなぜか英語で話します。日本に来た場合は、なぜか日本語で「われわれは宇宙人だ」と言います。なぜ「われわれ」なのでしょう。「わたしたちは」でも「おれたちゃ」「拙者どもは」ではなく、なぜか「われわれ」です。一人で来た場合は、どう言うんでしょうね? たぶん、この手の映画のいちばんはじめのものが「われわれは…」だったのでしょう。最初にやったものが踏襲され、これはこういうものだと思われるのです。そんな「思い込み」のあるものを途中で変えるのは勇気がいります。実は、根拠のあるものではなく、単に踏襲しているだけにすぎないものであっても、途中で変えると、そのことを知らない人に批判されたりします。

古い映画では江戸時代の既婚女性はお歯黒をしていましたが、今のテレビでお歯黒を見ることはありません。途中で変わったわけですが、おそらく変だと思った人も多かったでしょう。ところが、今またお歯黒にもどすと「気色悪ーい」とか言って批判する人が確実にいるはずです。江戸時代までは手と足を交互に出すのではなく、右手右足を同時に出す「なんば歩き」をしていたはずだから、と言ってそういうふうに歩き出したらどうでしょう。すごく違和感があります。ゲームやマンガでの織田信長の南蛮風のスタイルも今では定番になりましたが、たしか黒澤明の『影武者』でやったのが初めてだったような気がします。えー、ほんまかいな、と思うようなことでも「世界の黒澤」なら許されるのです。なまこを最初に食ったやつがえらいように、最初にやったやつがえらいのですな。卵も最初に立てたやつつはえらいのですが、それはなんの役に立つ?

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