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2012年11月の2件の記事

2012年11月20日 (火)

バミューダトライアングル

K-1か何かの選手入場コールの巻き舌もなかなかおもしろかったですね。「黒田」が「くるぅぅぅぅぅおぉぉぉぉどぁーーーーーー!!!」みたいになるやつです。そこまでせんでもええやろという、派手派手な言い方で、なかなかよかった。真似をするアホも多かったのですが、やっぱり巻き舌のできないやつもいました。舌がつるんですね。志ん生の『火焔太鼓』でも出てくるフレーズです。嫁さんに「肝心なときに舌がつるんだから」と言われるやつです。

巻き舌ではありませんが、その言語独特の発音というのもあります。フランス語の鼻母音も難しい。音を鼻にかける母音ということでしょう。しかし、鼻から息を出しながら発音するというのは意外に難しい。いかにもフランス語に聞こえるポイントになる音で、これが発音できんとだめだと教師が言うのですが、「今日は、風邪ひいてて無理」と言って、発音してくれませんでした。その後、いつも「今日は風邪ひいてて」と言い続けて、その先生は最後まで風邪をひいてましたね。西洋人が妙な発音で「ワターシ、アナータ、道オシエテクラハーイ」とか言っても、なんとか理解できます。竹村健一という、「だいたいやねー」という口癖で有名な人の英語はどう聞いても関西弁の訛りがありました。インド人の英語は「th」の発音が「t」になるようです。しかも巻き舌なので、「ワン、ツー、スリー」が「ワン、ツー、トゥルルルルルリー」になりますが、それでも通じるようです。ジョン万次郎の「ホッタイモイジクルナ」でも通じるらしいので、鼻母音ができない、なんとなくの発音でも、フランス人もいちおうはわかってくれると思うのですが。ただ、遠藤周作がむかし書いてた「ウンコタレブー」や「ケツクセ」はだめでしょうね。漱石かだれかが「Do you see the boy?」が「図々しいぜ、おい」に聞こえる、と書いていましたが、これも通じないでしょう。どこで線が引かれるのかは微妙ですがね。

タモリもプレスリーの「You ain't nothin' but a hound dog」というフレーズを「ユエンナツバラ」と聞き取って、「湯煙のたつ夏の野原」というイメージでとらえていたと言ってました。まあ、ネタでしょう。「バナナ・ボート」という歌の「Daylight come and me wan' go home」を「寺井さんちのゴムホース」と歌ったり、「パフ」の「Puff, the magic dragon」を「ぱふ、ざ、まぜこぜどらえもん」と歌ったりしてました。歌ではありませんが、「You might or more head,today's hot fish」ということば遊びもありました。明治ごろからあったと思われるような古くさいだじゃれですな。「言うまいと思えど今日の暑さかな」で、「hot」が「some」になれば「寒さかな」になります。「book to a little friend did not know the ring」は、「ほんとう、ちいとも知らなかったわ」、「Oh,my son,near her gay girl」は「お前さんにゃハゲがある」ですな。最後のは算数のO方先生が書け、と言ったので書きました。

まあ、英語を習いたてのころには、こういう遊びがおもしろかったのです。自分の名前を英語で言うと、という馬鹿なことも、はやりましたね。私の場合は「Undermountain rightlight」です。外国語の音が楽しかったのでしょうね。聞いておもしろいのは「五リラ」みたいなやつです。イタリアのお金の単位が「リラ」だったので、たまたま「ゴリラ」と同じ発音になる。ギリシャやトルコではレストランが「タベルナ」になるのは「食べるな」という意味と重なっておもしろいし、スイカはペルシャ語で「ヘンダワネ」になるのも有名です。地名では「スケベニンゲン」とか「エロマンガ島」が子供たちの間では人気です。銀座に「スケベニンゲン」というイタリア料理の店があって、電話をかけると高らかに、「はい、スケベニンゲンです」と言ってくれるとか。

古い時代には「トラホーメ」「ステンショ」などのこじつけもあったそうですが、これは心理的な原因が納得できます。目の病気だから「トラホーム」が「トラホーメ」になるわけだし、「ステーション」は「停留所」みたいなものだから「ステンショ」になります。これも、知ってることばに結びつけて安心したい心理のあらわれでしょうね。アナウンスする人はアナウンサー、キャッチする人はキャッチャー、ということぐらいは知ってる六年生でも「ボクシングをする人」を問題にして出すとできません。ボクシングそのものの人気がなくなっていることも原因でしょうが、ほかのことばにつられて「ボクシンガー」と答える者が多い。「Z」と続ければ知ってることばがあるからかもしれません。

子供たちがよく書きまちがえることばとして、「シミュレーション」「コミュニケーション」があります。このミスは発音の問題ですね。「シュミレーション」「コミニュケーション」のほうが発音しやすい。「シュ」や「ニュ」に比べて「ミュ」は発音しにくいのです。本来の日本語、つまり和語の中に「ミュ」の発音はありません。小学校の低学年で一生懸命発音の練習をして、「みゃ、みゅ、みょ」と大声で言わせられます。しかし、「みゅ」の音を実際に使う日本語は本来ありません。金田一春彦説によると、「大豆生田さん」という家族がいるらしい。「おおまめうだ」がなまって「おおまみゅうだ」と言うそうで、「みゅ」の音を習うのは、この人たちの名前を呼ぶためだそうです。
ただし、外来語にはもちろん「ミュ」の音はあります。「ミュージック」などのように。あ、ということは、最近なくなった桑名正博、この人の息子は「ミュージック」をもじって「美勇士」で「みゅうじ」と読ませていますから、「みゅ」の発音を習うのは大豆生田一家以外に、この人のためでもあったのです。「バミューダトライアングル」というのもありました。「魔の三角海域」ですね。船とか飛行機が消えてしまうと言われてるところです。希学園の中にもあります。教室内の三人の「たちの悪い生徒」を私はひそかに「バミューダトライアングル」と呼んでおそれています。なぜか、しょうもないことを言うやつ、人にちょっかいを出すやつ、居眠りをするやつらが三角形をなしてすわっていることが多い。その三角の中にいる者も影響を受けて、たちが悪くなるという、恐ろしい三角形です。

2012年11月 2日 (金)

モニタリングについて

先日、健康か不健康か診断してもらうために十三の『淀川健康管理センター』に健康診断に行ったんですが、前日、朝食をとったきり、何も食えなかったにもかかわらず夜9時以降絶食しろという言いつけを忠実に守ったため(それだけでなく、健康診断前日のさらにその前の日も前の前の日も朝食+チーズだけみたいな食事状況だった)、ひさしぶりに『シャリバテ』=『低血糖でふらふらな状態』になっちゃって、えらくしんどかったです。前にやられたのは、算数科の横川先生と槍ヶ岳~笠ヶ岳を縦走したときでしたか、このときはふたりがふたりともやられちゃうというていたらくで、雨は降ってくるわ、雪渓に手間取るわ、なかなか山小屋にたどり着けず悲惨でした。最新テクノロジーを駆使するハイテク登山家である横川先生が、GPSを取り出し、直線距離であと何百メートルですよとか言ってくれるんですが、登山道で直線距離がわかってもなあと、なんだかうつろな気分で横川先生の言葉を聞いていたものです。

そういえば、昔、知り合いが登山もしないのにGPSを買って、うれしそうに見せてくれましたねえ。

「これを見ると今どこにいるかわかるんですよ、う~ん、今、谷町九丁目」

(知ってるわ!)と心のなかで激しくつっこむ私でありました。

みなもと太郎さんが『風雲児たち』というマンガのなかで、江戸時代の飢饉についてくわしくふれ、いわゆる餓死者のほとんどは、実は中毒死しているのだとかいていました。つまり、人間は腹が減ったらなんでも口に入れちゃうってことですね。食べてはいけないものを口に入れて死んでしまうらしいんです。目からうろこといいますか、人間というものについて、なにか少しわかったような気がしました。

『銃、病原菌、鉄』という、かなりヒットした世界史の本がありますが、そちらには、よくテレビや新聞写真などで目にする、おなかだけが異様にふくれた子どもというのは、あれは、タンパク質不足なんだと書かれていました。タンパク質が極端に不足しており、炭水化物ばかり摂っているとあんなふうになる、ときどき、おなかが膨れているんだから結構食べてるんだろうなんてことを言う人がいるが、栄養のバランスが崩れているんだということでした。ニューギニア高地の人はかつて昆虫をよく食べていたらしいんですが、これも、タンパク質のふくまれた植物(小麦とか稲とか)が自生しておらず、家畜化するのに適した大型動物が生息していなかったからだというんですね。なるほど、そうなればそりゃ昆虫だろうがなんだろうが食うよな、と思います。人間は腹が減ったらなんでも食う、というのが、あまり信念のない私の、数少ない基本信念のひとつです。

さて、今回のお題は『モニタリングについて』です。何から書きはじめようかな、単刀直入もきらいじゃないけど、やはり緩い感じですべり出し、いつのまにかすうっと本題に入っていきたいものだなんて思ってシャリバテの話から切りだしてみたわけですが、どうつなげたらいいかわかんなくなってしまいました。そこで、もう、なりふりかまわずいきなり本題に入ってしまいます。

モニタリング=監視、ですね。

べつに塾生を厳しく監視して勉強させまくろうという話ではありません。文章を読むときの心構えというか、技術の話です。

「字面を追うだけじゃいけない」とか、「行間を読め」とか、「もっと頭を使って読みなさい」とか、そういう言い方がありますが、もっと具体的で、できるだけシンプルな言い方がないかな、とずっと考えています。文章を読むときに、たったひとつ、これが最も重要だといえる『格率』のようなもの、つねに胸に刻んでおくべきことがら、読むことが徒労に終わらず、確実に読む力の向上につながるような何か。

中島敦の『名人伝』に、弓の名人になろうとした男が、何があっても瞬きしないよう訓練しろと師匠に言われ、忠実に守るというくだりがありますが、ああいうのが理想です。とにかく、そのことだけ心がけていれば、いつのまにか力がついているというような。

さて、そこで『モニタリング』です。この場合、監視とは、自分で自分を監視することをさします。文章を読みながら、今、自分がその文章を理解できているかどうかモニタリングできるということが、読むことで力をつけられるかどうかの境目になります。

読んでいてわからなくなりはじめた瞬間に、そのことを自覚し、何がつまずきの石になっているか探し出したり、前に戻ってもう一度たどり直すことができる、こういう読み方に自分の読み方を変えていければ、「読む」という行為は、きわめて濃密なものになります。

ところがこれはできそうでできないことです。子どもたちに「今の文章どう? わかった?」と聞くと、うんうんうなずいていますが、実際はよくわかっていないということが多いです。これは国語にかぎらないですね。算数でも、先生の説明をきいて「わかった」。でも、テストでちょっとひねられるとお手上げになることがよくありますが、つまり、ほんとうはよくわかっていないんでしょう。「自分がよくわかっていない」ということがわかっていない、これがとにかくはじめに手をつけるべき問題点です。

自分が文章や問題の解法を理解できているかどうかを、どうやって判定するか。ひとつの方法は、「人に説明してみる」だと思います。僕は、それを頭のなかでやってきました。以前に、「対話的に考える」という話をしたことがありますが、まさにそれです。ある概念について、ある思想について自分がじゅうぶんに理解できているかどうか判定するために、僕は想像上の対話を試みます。相手は、そのときによっていろいろです。優秀な友人の場合もあるし、その反対の知人の場合もあります。とにかくそういう相手を思いうかべて、頭のなかで説明を展開していきます。自分の説明の弱いところは、想像のなかで相手が質問してくれますし、場合によっては「それはちがう、なぜなら・・・・・・」と反論してきたりもします。それに対してまた反論し・・・・・・といった具合です。でも、周囲の人に聞いてみると、そういうことしている人はあまり多くないみたいですね。

じゃあ、そういったモニタリング能力を身につけるために私たち講師に何ができるか、ま、そういうことを考えながら、授業したりテキストをつくったりしているわけです。

来年度は、小4のシステムが変更になります。それに合わせて国語のテキストも改変ないし改編するわけですが、上述のような「モニタリング能力」を育てることをふくめ、私たちの最新の到達をふまえた、最高のテキストを用意したいと思っています。

◇◆◇

さて、国語教育講演会第2弾『国語の学び方・教え方~どう書くか~』の開催が、来週にせまってまいりました。

準備万端ととのいつつあります。みなさんのお越しをお待ちしております。

希学園以外の方も大歓迎です。ぜひ、お友達・お知り合いとお誘い合わせのうえお越しください。

11/7(水)西北プレラホール

11/8(木)谷九教室

11/9(金)四条烏丸教室

です。

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