« 2012年12月 | メイン | 2013年3月 »

2013年2月の3件の記事

2013年2月20日 (水)

勉強の敵、マンガについて

新年度がはじまってはやくも三週間がたとうとしていますね。

3月には合格祝賀会も行われます。

『Royal Nozomi Theatre』の座付き作者M.Yamashitaに合格祝賀会の劇は今年は何をやるんですかと訊くと、あの大ヒットアニメを下敷きにするということでした。海賊が主人公のやつですね。

フランスあたりだと、忍者が主人公の『ナルト』の方が人気があるそうですね。やはり忍者モノは堅いということでしょうか。しかし、僕にとって忍者といえば白土三平の「サスケ」「カムイ」なので、「ナルト」はなんだかなあ。あれが忍者?って感じです。日本史の教授も『サスケ』は良いと言ってましたよ。「中世特有の暗い雰囲気がよく出とる」。ちなみに『サスケ』のラストはご存じですか? めちゃくちゃ暗いんですよ。いや、サスケが死ぬわけではないんですが、なんともいえず痛切な気持ちになるラストでした。

さて。

僕が少年マンガを読んでいたのは大学生のときまでで、あとはほとんど読まなくなりましたが、たまにテレビで『●ンピース』や『ナルト』をなんとなはなしに見ていることはあります(最初から最後まで見る気にはさすがになれませんが)。そうすると、これは確かに少年マンガの王道であって、高校生ぐらいまでの子どもが見るのはよくわかるなあとは思うけれど、けっこうな大人がはまっているという話をきくと不思議です。

昔、『サルでもかけるマンガ教室』のなかで、少年マンガというのは結局「たたかい」をどう描くかにつきるのだと書かれていました。問題はその「たたかい」をどう描くかというところで、そこに作者の力量が出るわけです。僕がいちばんダメだなあと思うのは、「火事場のくそ力」パターン。敵にやられてやられて危機に陥った主人公がそこで「ぬおーっ」なんて叫んで「負けるわけにはいかねえんだ」などと吠えると、なぜか突然妙ちきりんな力が湧いてきて、敵を倒してしまうというパターンです。説得力がないでしょ? だったらはじめから「ぬおーっ」と言え、「ぬおーっ」と。『ワンピー●』はこれですね。本宮ひろしの『男一匹ガキ大将』なんかもそんな感じでした。でも、本宮ひろしのえらいところは、『硬派銀次郎』は最後にケンカに負けるんですよね。負けることで、はじめて大人になるんです。そういうことをかけるところが、本宮ひろしの天才的なところでした。一瞬の輝きでしたけど。

もうひとつありがちなのは、「特訓」ですね。これも『サルまん』に書かれていました。『ナルト』はこっちですね。がんばって特訓して勝利をおさめます。少なくとも勝つ根拠は示されているわけです。ただ、たたかい→敗北→特訓→勝利というプロセスをひたすらくり返すかたちになるので、飽きますし、いわゆる「ライバルのインフレ現象」を起こしやすくなります。『侍ジャイアンツ』なんて典型的なこれでした。特訓しては魔球を開発する、のくり返しです。ハイジャンプ魔球、エビぞりハイジャンプ、大回転魔球、分身魔球などなど、最後にはエビぞりハイジャンプ大回転分身魔球みたいなよくわからないワザを繰り出していましたが、さすがに当時の小学生のあいだでも、「あれってボークじゃね?」などという疑問が口にされていました。『ドラゴンボール』もそうでした。はじめはのほほんとした宝探し的なお話だったのに、とちゅうからはひたすら特訓してはたたかう話になっちゃいましたね。ああなるとつまんないです。ジャンプ系はどうしてもそうなりやすいようですね。『キン肉マン』だって、はじめはとにかく肩の力の抜けたギャグマンガでした。「屁のつっぱりはいらんですよ」という何が言いたいのかよくわからないギャグもよかった。それが、とちゅうから友情とたたかいのマンガになっちゃって。ただ、ジャンプはデザイン的な点で優れているマンガが多い気がします。『ストップ!! ひばりくん!』以来の伝統ですかね。鳥山明の絵も1コマ1コマがそのままイラストになりそうなぐらい美麗ですよね。『ワンピース』もその伝統を感じさせます。キャラクターが魅力的なのも人気の秘密でしょうね。はじめ、『ルパン三世』みたいだなと思いました。刀持ったやつと黒スーツのやつがいて。でも「たたかい」の描き方はいけてないと思います。 

必殺パターンは他にもあります。「覚醒」です。主人公は特に努力しないのですが、危機に陥ると突然「覚醒」し強くなってしまいます。なぜそんなに都合良く覚醒できるのか? その解答が「血統」です。主人公はなぜ敵に勝てたのか? こたえ:血統がいいから。というパターンです。そんなバカな!と思われるかもしれませんが、このパターンは実は多くて侮れないです。マンガではありませんが、ハリーポッターってこれですよね。『セーラームーン』も『プリキュア』もこれに近い。前世からの因縁というのも「血統」の一種といっていいですね。『仮面ライダー』の覚醒はたまたま変身ベルトを手に入れてしまうことによって起こることが多いみたいです。オーズは典型的にそうでした。主人公はプータローでしたもんね。まあ、内面に焦点が合わせられていてべつのおもしろさを追求していましたけど。『ナルト』は「血統」を前提とした「特訓」パターンと言っていいかもしれません。

この「血統」のバリエーションといえるのが、「家元」パターンです。「家元」という言い方はあまり適切ではありませんが、たとえば『北斗の拳』です。ケンシロウはなぜ勝つのか? 一子相伝の北斗神拳の正統だからです。『修羅の門』もこのパターンですね。なぜ主人公(名前は忘れました)は勝つのか? 陸奥円明流(だったっけ?)の継承者だからです。だから、陸奥円明流の分家にあたる不破円明流の継承者とたたかったときにも、最後には、陸奥円明流だけに伝わるヘンテコなというか反則な感じの必殺技を繰り出して勝利を収めてしまいます。

結局、これらのパターンに頼って「たたかい」が描かれてしまうのは、そういった勝利の理由付けが読者に対して説得力を持っていると、作者あるいは編集者が信じているからなんでしょうね。そして実際にそれでおもしろいと感じてくれる読者が多いからでしょうね。だから、冒頭に書いたように、子どもがおもしろがるのはわかるし、そもそも子ども対象だからってことで割り切れば文句なんかありません。ただ、なんで大人がおもしろがるかな~と思うだけです。少なくとも僕はつまんない。

この点、革命的だったのが最近大人気の『ジョジョの奇妙な冒険』ですね! 大学時代一緒に暮らしていた友人が荒木飛呂彦さんの大ファンだったので、連載一回めから週刊誌で読みました。『ジョジョ』も第1部は「特訓」あり「火事場のくそ力」ありで、少年マンガの王道をいってたわけですが、第2部あたりから様子が変わってきます。第2部の主人公はまだ特訓もしますし、血筋もいいのですが、それは勝利の主たる要因とはなりません。巧みな話術とはったりの上手さで危機をしのぎ勝ちをおさめるのです。これは新しかった。第3部にいたっては、特訓もなくなります。代わりにその後、「進化する悪役」というきわめて斬新な、衝撃的なアイデアが出現します。悪役なのに努力するんです。悪役なのに「恐怖を克服しなければならない」などと考えて誠実に努力し成長しちゃうんです。そんなのありか?と思いました。ではそんな人間的にも超一流の(?)悪役に主人公はどうやって勝利するのか? 基本的には「工夫」です。知恵をしぼって工夫して勝ちをおさめるのです。作者は苦しいだろうなあと思います。ハードルが高いでしょう? 「ぬおーっ」と唸って、「仲間がなんたらかんたら」と叫べば勝てるなんて簡単な筋立てじゃないんです。ほんとうによくがんばっているなあと思います。

たたかいのドラマは悪役が魅力的じゃないとつまらないですよね。かっこいい敵役といえば『ガンダム』の「シャア」が頂点になるんでしょうか。僕はあまり知らないのですが。その点、『ジョジョ』の努力する悪役、というのは実に良い目のつけどころでした。『バビル2世』の悪役ヨミもなかなか魅力的でした。あと一歩でバビル2世を倒せるというところまで追いつめておきながら、部下を守るために撤退する場面があって、横山光輝ってすげえな!と感心したものです。そうですよね、そんな上司でなかったら、部下が命がけでついてくるはずがありません。その点、悪の描き方にはまだまだ開発の余地がありそうです。

などと、少年マンガについて熱く語っておきながらこんなことを言うのはなんですが、やはり、「マンガ」と「勉強」は両立するか?という問題について考察せねばなりますまい。ここでは、歴史マンガやことわざマンガなど、蘊蓄系マンガは考察の対象から外します。

文章読解の力をつけるうえで、マンガはプラスかマイナスか?

プラスであるにせよマイナスであるにせよ、文章読解にマンガが影響するとすれば、『イメージ化』の領域のはずです。

読解問題を解く、というのは、本来、【文章を読む】→【頭のなかにイメージを作る】→【イメージを言語化する】という過程のはずです。イメージを作らずに、文章をよく理解できないまま本文中の表現を加工して答えを作る場合(作れる場合)もありますが、そういう機械的な編集作業では答えられない問題も入試では多多出題されます。いわゆる難関と呼ばれる学校ほど、そういう良問を用意してきます。今年の灘中学校2日目の詩の問題なんてその典型です。ですから、今年から新しくなった希学園の小4カリキュラムでは、この「イメージ化」が1年間の中心課題の一つとして前面に据えられています。

さて、子どもたちが「イメージ化」に取り組むときの最大の難点は、さまざまな文章で描かれている情景や状況等についての知識が十分でないということです。海を知らない人に、言葉だけを用いて海がどういうものかイメージさせることがどれだけ難しいか想像してみてください。子どもたちはそういうポジションに置かれているわけです。

僕が「イメージ化」というときの「イメージ」とは、視覚的なイメージに限りません。音声イメージや空気感など、心的に表示したり感覚したりすることのできる表象いっさいをふくみますが、たぶん視覚的イメージを例にとって話すのがいちばんわかりやすいと思うので、そういうつもりで話をつづけます。

子どもたちが文章からイメージを形成するためには、予備知識が必要です。その予備知識はどのようにして身につけるのか? これは実際に見るのがいちばん良いわけです。ですから、幼いころからどんどん外で遊んだり旅行に連れて行ってもらったりすることはとても大切だと思います。実物を見られない場合は、その映像を見ます。ニュースや、BSの美麗なドキュメンタリーを見る。そうすることで、イメージ化するためのベースとなる視覚イメージの蓄積ができます。そういう観点に立てば、マンガを読むことも、イメージのベースを作る一助となりうるはずです。そういう意味で、マンガにはプラスの面があると考えます。ただし、絵が上手でないとダメですが。今どきの少女マンガは絵が壊滅しているものが多くて、とてもおすすめできませんね。顔のアップばかりです。良いマンガ家というのは、1コマで状況全体の表示ができるようなそんな絵をかける人です。

一方、マイナスの面もあります。マンガを読むときに、いわゆる吹き出しの部分が主たる言語情報になりますが、絵に頼ってすべてを理解しようとするばかりだと、言語情報からイメージを作るトレーニングにはなりません。トレーニングにならないだけならまだしも、そういったイメージ化の作業自体を自分の身に引き受けようとしない、省エネの読み方が癖になってしまう危険もあるかもしれません。

そういった危険性もふまえたうえで、テレビを観ること、映画を観ること、ときにはマンガを読むことも、文章読解の力をつける役に立ちうると言ってもいいのではないかと僕は思っています。ただし、あまり非現実的な設定のものは役に立ちません。常識的なイメージを作る役に立たないからです。

せっかくなので、ひとつだけ、以上のような点をふまえたうえでおすすめできそうなマンガを紹介してみましょう。

藤子不二雄Ⓐ『まんが道』です。

少年の夢、挫折、友情、葛藤という入試に出そうなテーマが満載です。人情の機微がわからない系の子には特に良いかもしれません(^_^)。

なお、念のために書き足しておきますが、小6生は、どんなマンガであれ読んでるバヤイではありません。必死のぱっちで宿題をしてください。

大事なことを忘れていました! 

入試分析会、やります!!

3月5日~3月8日の4日間連続です!

ぜひぜひお誘い合わせのうえお越しください!

今年もまた、どこの塾にも負けない分析をご用意いたします!

現在、そのために日々、粉骨砕身、えーと構想を練っています。

明後日あたり、実際に粉骨して砕身する予定です。トホホ。

2013年2月12日 (火)

四天王は知ってんのう

プレステと並んで売れていたセガサターンというゲーム機のCMで、姿三四郎をもじって、「せがたさんしろう」と名乗り、「セガサターン、シロ!」とさけぶのを「藤岡弘、」(たしか今は最後に読点をつけて芸名としていたような)がやっていましたが、当時でさえ、もとネタを知らない人が多かったのだろうな…と言いつつ、さりげなく続けていきます。

頼光四天王と言えば、「渡辺綱・碓井貞光・卜部季武・坂田公時」で、結構有名です。羅生門の酒呑童子を退治しにいったメンバーですな。渡辺綱は源氏の中でも一字名乗りなので嵯峨源氏、源融の子孫になります。源融は光源氏のモデルの一人とも言われる人で、梅田の太融寺は融ゆかりのお寺だそうですな。綱は羅生門だけでなく、一条戻り橋で鬼の腕を切り落としたとも言われています。そのときの刀が罪人を試し切りしたときに髭まで切れたことから名付けられたという「髭切」です。鬼はそのあと乳母の姿に化けて腕を取り戻しにくるという、有名な話です。相続税が払えないために取り壊しにするとかしないとかで、三国の渡辺邸が去年話題になっていましたが、渡辺綱の子孫の屋敷です。天正十年に死んだ人が建てたとか言っていましたから、信長が死んだ年ですね。大阪落城よりずっと前からあったという、すごい家が結局取り壊されてしまいました。

渡辺綱は「わたなべつな」ではなく、「わたなべのつな」と読みますが、「渡辺」はいわゆる「姓」ではなく、名字なので「の」ははいらないはずです。「源義経」は姓なので「みなもとの」ですし、「平清盛」も「たいらの」です。でも、「足利尊氏」は「あしかがの」ではないし、「徳川家康」も「とくがわの」にはならない。この時代には、まだ名字というほどの感覚はなく、「渡辺の住人」ぐらいの意味だったのでしょうね。今年の洛南入試の集合場所は六孫王神社でした。「六孫王」というのは、源経基のことで、清和天皇の六番目の子貞純親王の息子であり、天皇の孫であるということで、そう呼ばれました。その子が源満仲で、多田満仲とも言います。「ただのみつなか」という人もいますが、私は「ただのまんじゅう」という呼び方が好きです。なにか連想が働いて、いい感じなので。これも川西の多田の住人ということでしょう。でも、碓井貞光は「うすい・さだみつ」、卜部季武は「うらべの・すえたけ」と読みたいので、「の」がはいるかどうかは単なる口調かもしれません。鹿ケ谷の事件で平清盛に密告した多田行綱は満仲の子孫ですが、「ただゆきつな」と読むのが普通です。この時代には名字になっているのでしょうね。でも、これも「多田蔵人行綱」と言うときには「ただのくろうどゆきつな」になりそうな。時代が下がっても、清水次郎長が「しみずのじろちょう」になるのは、明らかに「清水の住人」ですね。豊臣秀吉は「豊臣」という「姓」なので、「とよとみのひでよし」が正しいことになります。豊臣朝臣羽柴藤吉郎秀吉が正式な名乗りで、厳密に言うと羽柴から豊臣に変わったわけではないことになります。でも、まあ普通は「とよとみのひでよし」とは言わんよなあ。「の」問題はなかなか難しいようですが、坂田公時の「坂田」は名字ではなく姓なので、「さかたのきんとき」でOKでしょう。公時は「金時」とも書き、金太郎の成長後の名前です。桃太郎も金太郎も鬼退治をしているのですね。

源義経の四天王として「亀井片岡伊勢駿河」とよく言われますが、亀井六郎、片岡八郎、伊勢三郎、駿河次郎のほかに、佐藤継信、忠信兄弟と鎌田盛政、光政兄弟の組み合わせとか、佐藤兄弟に伊勢三郎、武蔵坊弁慶を加えたものとかいろいろあります。徳川四天王は「酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政」、さらに十二人を加えた徳川十六神将というのもありますな。ものまね四天王と言えば、「コロッケ・清水アキラ・栗田貫一・ビジーフォー」でした。こうして見ると、四天王というのはかなりあります。授業をしていて、「四人のすぐれた人を何と言うか」と聞いても「四天王」は出てきます。ところが「三人のすぐれた人」は出ない。「三羽烏」は死語なのでしょう。「三傑」というのもありますが、こちらは格調が高すぎる。蕭何・張良・韓信は「漢の三傑」、諸葛亮・関羽・張飛は「蜀の三傑」です。日本では、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が「三英傑」と呼ばれますし、「維新三傑」は西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允です。でも、具体的に「三羽烏」と言われても、じつは有名なものはあまりなさそうです。上原謙、佐分利信、佐野周二を「松竹三羽烏」と言いましたが、いまどきだれが知ってる?

では、二人はどうでしょうか。「聯璧」「連璧」というのもありますが、日本語の文脈ではあまり出てこない。でも、「双璧」はよく使います。「松下村塾の双璧」と言われたのは高杉晋作・久坂玄瑞です。二つというのは選びやすいので、織田信長の家来の双璧なら、柴田勝家・丹羽長秀、秀吉の双璧なら竹中半兵衛・黒田官兵衛、ややマイナーなところでは、大友家の双璧が立花道雪・高橋紹運、伊達家の双璧が片倉景綱・伊達成実、ひとむかし前のアイドルの双璧は松田聖子・中森明菜、怪獣の双璧ならゴジラとガメラ、特撮ヒーローの双璧はウルトラマン・仮面ライダー、RPGの双璧はドラゴンクエスト・ファイナルファンタジー、私大の双璧、早稲田と慶應…。では、一人は? これはありません。よく考えたらわざわざ言う必要はないんですね。

逆に多くなると覚えきれません。「賤ヶ岳七本槍」と言われても、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・片桐且元・脇坂安治、うーん、あと二人は? 真田十勇士は言えます。猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊三入道・海野六郎・望月六郎・根津甚八・筧十蔵・穴山小助・由利鎌之助。忍者系二人、坊主系二人、数字のはいったのが六・六・八・十、あとは「助」がつくのが二人です。「こんなん覚えて何になるねん」と言われればたしかにね。でも、昔は歴代天皇を覚えさせられたのです。「じんむ・すいぜい・あんねい・いとく…」というやつで、私は十七、八代目であやふやになります。四代連続なら、だれでも言えます。「明治・大正・昭和・平成」。ただし、「平成天皇」という言い方はまだ存在していないので「今上天皇」と言わないとだめかも…。

2013年2月 4日 (月)

四条烏丸教室のMさん合格おめでとう、ブログ更新したよ!

今日は立春でしたね。さっき、ひさしぶりに体重計にのってみたら、やはり、やはり、体重が増えていました。冬はどうしても、何をしてもふとる! たしかに毎日チョコを食べていた、それは認めよう、しかし、全体として1日のカロリーはそれなりに抑えていたはずなのに! 今月は誕生月だから、ケーキ食べちゃうだろうなあ。もともと甘党だからなあ。あーやだやだ。はやく夏になってほしいです。毎日だらだら汗を流したいんだ、僕は!

今日は立春であると同時にベーシックの開講日でした。僕は小6Pの授業で烏丸へ。初回なので理想の授業について語ってみました。

「みんな聞いてくれ、僕には『理想の授業像』というものがあるんだ。

ほんと言うと僕はさ、文章を読み終わってから、対比が出てきたね、何と何が対比されていた? みたいな授業はいやなの。

じゃあ筆者の主張をまとめてみよう、筆者の主張がもっともまとめて述べられていた段落はどこだったかな? みたいなのもいやなんだ。

理想の授業はさ、ほら、まず文章を読むだろう? そこで僕がひとこと、漠然と『どう?』なんて訊くわけだ。するときみたちが、『先生、ここはひとつ対比に注目でんな』『並列も見落とせまへんで』なんて言ってくるの。そういうのが理想なんだ~」

「それって、先生は何もしてないのでは?」

「いやあ、じつにそうなのよ。でも、入試のときはきみたち、完全に自力で、自分だけの力で文章を理解しないといけないんだぜ、どこに注目するべきか、どんなふうに文章を整理したらいいか、だれも教えてくれないんだぜ」

「なるほど~」

「よしよし」

といった感じでした。なんとか入試前には理想の授業を実現したいものです。

さて。例によってとりとめがなくて申し訳ありませんが、先日、梅田の古書街に行って、昨年から目をつけていた本を買いました。

三浦つとむの『認識と言語の理論』という古~い本です。第1版第1刷は私の生まれた年に発行されました。第1部から第3部まで全3冊あり、新装版も出ているんですが、一冊5000円近くもするんですよ! ひどい! 三浦つとむを読むなんて絶対にマニアだから高くしても売れるという計算にちがいない、お~の~れ~、と思っていたら、古書街で第1部と第2部が1冊1000円で売られてたんです。買わいでか! というわけで、最近、電車の中でせっせと読んでいます。

以前に、読解力を養うために「モニタリング」が必要という話を書きましたが、そのあたりにもからんできそうな内容です。読んでいて、まず「なるほど」と思ったのは、

人間は観念的な自己分裂のために必要な道具をつくり出している。・・・・・・鏡を使って行われるこの観念的な自己分裂は、単に自己の姿を客観的な位置において見るにとどまらない。鏡のこちら側に位置づけられている観念的な自己は、さらに恋人や入社試験の試験官などに観念的に転換することができる。・・・・・・この種の実践が自己についての認識の発展であり・・・・・・

というくだり。これだけ引用されても何がなんだかわかんないかもしれませんが、とにかくおもしろいのです。今すぐ授業での指導にいかせるわけではありませんが、文章を読むことと、どこかでつながってくるぞ、という予感があります。日々勉強でんな。

国語の講師をやっていて何がおもしろいって、国語の教え方が他教科ほどには確立されていないというところがいちばんおもしろいです。そりゃどんな教科だって良い授業悪い授業はあるし、教え方の巧拙もありますが、国語の場合、まず、「国語の授業として成立していない」というレベルのものがありますね。「下手」じゃなくて「不成立」。学校の国語の授業なんてほとんどこれだと思います。

簡単にいうと、ある文章を理解させるだけに終わっている授業は不成立なんです。ここに書いてあるのはこういう意味ですよ、このときの主人公はどんな気持ちですか? ポチがいなくなって悲しんでいるんですね~、なんてのは、その文章を説明しているだけなんで、それでは読み方の指導になっとらん、したがって授業になっとらん、ということです。

希学園の国語科新年度研修で使用した門外不出の冊子『希の国語2013』では、この「成立/不成立」という問題だけに20ページ近くを費やしています。そのぐらいこの問題は奥が深いです。こんなこと考えたこともない国語の先生が世の中にはあふれかえっているみたいですけどね。たぶん、そういう人は、「不成立」とか言われても、ぴんと来ないんだろうなあ。

なんだか今日は辛口になってしまいました。体重計にのったせいです(>_<)。

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク