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2013年4月の3件の記事

2013年4月28日 (日)

奈良交通バスの歌

先日、奈良の大峯をちょびっとだけ縦走してきました。

いわゆる熊野奥駈道の一部です。

近鉄吉野線の下市口から1時間ほどバスに揺られ、天川村で降り、狭い国道を何十分か歩いて「熊渡」というところから入山です。

熊渡・・・・・・。

不吉な名前だ。

僕は、前にも書きましたが、昨年五色ヶ原でツキノワグマに、一昨年大雪山系でヒグマに遭遇しています。

「二度あることは三度ある」つまりまためぐり逢ってしまうかもしれず、「三度目の正直」つまり今度こそ大事になるかもしれないということで、ちゃんとクマよけの鈴を持参してみました。でも、思い返してみれば、ヒグマに遭遇したときも持ってたんですけどね。何の意味もなかったですね。

今回は、クマには出逢いませんでしたが、カモシカを一度見かけました(川をはさんでしばらくガンをとばしあう)。カモシカとかシカって、だいたいやつらが枯れ枝を踏んでポキッと音をたてちゃうんで、気づくんですよね。シカが先にこちらに気づくときもありますが、だまってにげればいいのに、びっくりして「ピッ」などと叫ぶので、ばれてしまいます。ふと見ると、白い尻を見せてにげていくんですが、あのまのぬけた感じがたまらなくかわいいです。

さて。初日のルートは、弥山川コースあるいは双門滝コースと呼ばれている関西屈指のスリリングな好ルートです。いくつもの滝を横目に見ながら、ときには飛び石伝いに、ときには鉄梯子や鉄鎖につかまってひいひい言いながらのぼっていくのが楽しいです。ただテントと寝袋をかついでいたのでとにかく重い。沢の水がいくらでも飲めるんで、飲料水を担がなくてよかった分まだ楽でしたけど。

狼平というところにある避難小屋に着いたのが夕方5時頃でしたか、誰もいなかったのでテントはやめて小屋泊まりにしました。この狼平ちゅうところが、ほんとに綺麗なところなんです。結構清潔な小屋のそばを、おそろしく美しい沢が流れていて。

翌日は大雨でした。これは予想していたので、当初の予定どおり小屋に滞留。びっくりするぐらいごろごろ過ごしました。

夜8時に就寝したにもかかわらず、起床が10時。14時間睡眠ですね。朝食をとって音楽を聴きながら本を読み、1時間半ほど昼寝。また音楽を聴きながら本を読み、ときどき鼻をほじり、ビールを飲んで梅酒のお湯割りを飲んで・・・・・・。実に幸せな1日でした。ちなみに、読んでいたのはフィッツジェラルドの『夜はやさし』。20年以上前に買ったものですが、まったく読んでなかったんです。いざ読みはじめたら一気にのめりこんでしまいました。

とはいえ、日が沈むとまわりが真っ暗で怖いので、さっさと就寝します。前日あれだけ眠ったにもかかわらずきっちり8時間眠り、夜明け前の4時に小屋を出発しました。ほぼ快晴です。

まず八経ヶ岳に登頂。ご存じでない方が多いでしょうが、百名山のひとつで、聞いてください、なんと近畿の最高峰ですぞ。1,900メートル以上あります。ちなみに西日本には2,000メートル以上の山はありません。この山頂近くのテント場で一晩過ごしたとき、夜中に三人ぐらいの女の人の笑い声が聞こえてきて怖かったという経験があります。他に誰もいなかったんですけどね。

結局この日は11時間ぐらい歩いたかな。もう少しはやく目的地に着けそうだったんですが、膝が痛くなってしまって途中からうんと遅くなっちゃったんです。休憩時間入れて12時間行動しました。

登山道が完全に崩落してしまっているところが2箇所ほどありました。雨の激しいところなのでやむをえないんでしょうね。でも怖かった~。わずかな踏み跡を頼りに高巻きするわけですが、あのずるずる滑りそうな感じがたまらなくいやです。

この日は、前鬼という場所の宿坊まで下りて泊まったので(宿坊といっても無人ですが)、結局、テント使用せずで、ただむやみに重たいだけでした。前鬼に来たのは4度目です。沢登りに来るんです。もう、びっくりするぐらい綺麗な沢で、日本有数の美しさじゃないでしょうか。日本が世界に誇れるものは川ぐらいしかないんじゃないかと僕はひそかに思っているんですが、前鬼の沢はそのなかでも屈指です。

宿坊なので布団があります。たとえ2晩でも寝袋で過ごした後の布団はほんとうに素敵です。ただ、鼻が。ハウスダストアレルギーが出ちゃって、辛かったです。辛かったけど、10時間寝ました。われながらよく寝た3日間でした。

さて、実は本題はこれからです。

宿坊から前鬼口というバス停まで2時間半歩きます。で、バスに乗り、下北山村から上北山村、川上村を経て、近鉄の大和上市まで約2時間。このバスの旅がたまらないんです~。

もともと奈良交通が好きなんです。運転手がいい人ばかりなんですよ~。昔、やはり山登りに行くとき、乗り継ぎ時間に不安があって、運転手に聞くと、「あ、それはもしかしたら間に合わないかもしれないよ~、ちょっと待ってね~」と言ってわざわざ公衆電話から乗り継ぎのバスに連絡してくれたことがあります(奈良の山間部は電波状況が劣悪なので携帯があまり使えない)。

これは奈良交通ではありませんが、昔(大学生でした)、丹後半島でバスに乗ったときも運転手が親切で、「きみたちどこにテントはるの~」「◎◎です」「◎◎にテントはれるとこあったかなあ」「まあなんとかします」「ふーん、食べるものはあるの?」「いや、◎◎で何か適当に買おうかなと」「◎◎にお店なんかないよ~」「えっほんとですか」「う~ん、よし」と突然ハンドルを切ってUターン、来た道をしばらく戻るとスーパーの前でバスを止め、「ここで買っておいで」。

衝撃でした。他に乗客がいなかったとはいえ、路線バスがUターン・・・・・・! スーパーに連れて行ってくれる!

さすがにそこまでの経験はそれ以降ありませんが、奈良交通の運転手さんにいい人が多いのは事実です。乗るたびにほっこりしちゃいますね~。特に、自由乗降区間! 山間部はお年寄りが多いのを慮って、バス停以外の場所でも乗り降りできるようになっています。バス停も、もう、だれそれ宅前、という停留所名になってたりするんです。ほんとですよ。

素晴らしすぎるぜ、奈良交通。

というわけで、奈良交通バスに捧げる歌をつくってみました。

◇◆◇

奈良交通バスの歌  作詞:西川和人 作曲:未定 ※阿守孝夫氏(シベリアン・ニュースペーパー総帥)希望

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

お年寄りには席を譲りましょうって言うけれど~(けれど~)

年寄りしか乗っていない~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

みんな運賃払わない~、年寄りばかりだから~(だから~)

代わりにみんな運転手に挨拶~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

乗り降りにすごく時間がかかる~(かかる~)

よっこらしょ~どっこいしょ~ノンステップにしようぜえ

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

みんな好きなところで乗って好きなところで降りる~(降りる~)

自由乗降区間だから~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

バス停がないわけじゃないけれど~(けれど~)

あ~西川宅前~吉田宅前~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

火事の話で盛り上がる婆さんたち~(婆さんたち~)

合いの手入るぞイヤイヤホントだウンウンソウダまるで民謡~

あ~奈良交通ぅ、自由乗降区間~

◇◆◇

奈良交通の方、奈良県山間部在住の方、すみません。

あの、信じてください、ほんとに奈良と奈良交通が好きなんです。

2013年4月15日 (月)

「あるジーサンに線香を」は何のパロディ?

立川志らくはフランスのシラク大統領から来ているみたいですが、何の関係があるのやら。師匠の談志が名付けたらしいので、特に根拠はないのかもしれません。談春や志の輔とはネーミングの基準がちがうようなのはキャラクターによるちがいでしょうか。「笑点」の座布団運びの山田隆夫らがつくっていたグループ名が「ずうとるび」というトホホ系でしたが、フォーク・クルセダーズも『水虫の唄』をズートルビーという別名義で出していました。パロディ系の名前は三流のイメージが強いので、あえてそういう名前にしたのでしょうが、北山修たちだけに、あざとさ感も十分です。

トホホ系と言えば、新人文学賞のペンネームですね。鳥肌ものの名前がずいぶんたくさんあります。美月小路堕天使之介(るなのこうじあくまのすけ)とか炎立(ほむらたつる)とか緋文字アリスとか夜魔死多麻紗亜鬼とか。最終選考まで残ってもおそらく受賞できないようなタイプの名前です。いつか黒歴史として抹殺したくなるときが来るのかなあ。でも、こんなペンネームをつけてしまうような人にはそんなときは来ないような気もしますが。宝塚の「ありえない名前」も、昔は百人一首が出典だったんですね。春日野八千代とか天津乙女とか霧立のぼるとか(古い!)。相撲の親方の名前とおんなじですな。高砂とか尾上とか田子の浦とか。ものまねタレントはその芸と同じく、名前もものまねというかパロディになっている場合があります。アントキの猪木とかニッチローとか。ニッチローなんて、イチローの真似しかしないので、イチローをもじっただけでなく、「ニッチ」をかけているのでしょうね。隙間産業はニッチ産業、限定的市場はニッチマーケットです。佐藤B作だって、佐藤栄作のパロディですね。大河ドラマに出ているときなんか、キャストのところですごい違和感があります。「会津藩家老田中土佐」が「佐藤B作」と書かれていると、なんだかなあ。「でんでん」って書かれるよりましだけど。

パロディの代表として「替え歌」というのがあります。元の歌詞をいかにうまく生かすかがポイントなのに、最近はメロディだけで元歌とは関係なしというものが多いようです。「噛むとフニャンフニャン」とかいうガムか何かのCMでは、元歌の『狼少年ケン』とはなんの関係もありません。いまどき、だれも知らないような古い歌だけに、なぜ、この歌なんだろう、という違和感をねらったとも思えませんし、不思議です。こういうのは「替え歌」ではないので、なんと呼べばよいのでしょう? パクリ? こっそりやっているわけではないようなので、パクリでもないし、ただ曲を作るがめんどくさかっただけなのでしょうか。もともとインストルメンタルで歌詞がないものに、適当な歌詞をつけるというのはよくありますが、それともちがうので、なにか不快な感じがします。その不快感をあえてねらう、というハイセンスな技なら、たいしたものです。明石家さんまの『からくりナンチャラ』とかいう番組で、「替え歌」をやっていました。今でもやっているのか、番組自体があるのかどうか。今のさんまは劣化した「欽ちゃん」という感じで、痛々しくて見ていられないので、さんまの番組はほとんど知らない。『ひょうきん族』のころはよかったのになあ。まあ、とにかく、その番組の中で替え歌のコーナーがあって、たまたまちらっと見たのですが、元の歌とはまったく関係のない歌詞になってしまっていました。ことば遊びのおもしろさは全くなく、なぜその歌なのか必然性もなんにもありません。つまり、「替え歌」ではないんですね。

その点、嘉門達夫はえらい! まさに替え歌です。「誰も知らない素顔の八代あき」とか「チェーンソーを持たずにジェイソンが出てきた」とか「ツレなぐるマジで」とか、元歌の音や韻を生かしています。嘉門達夫のものでは『あったらこわいセレナーデ』なんてのはイマイチですが、『この中に一人』は、ばかばかしくておもしろい。「この中に一人、武士がおる、おまえやろ」「ちがうでござる」「おまえやー」というやつです。祝賀会の講師劇でもときどき使います。去年も「この中に一人、探偵ナイトスクープの司会やってるやつがおる、おまえやろ」「ちがいます」「ほな、九九の二の段言うてみい」「ににんがし、にさんがろく、にしだとしゆき」「おまえやー」というのをやりました。

タモリがやっていた「ボキャプラ天国」というのもパロディですね。「いぬ、猿が来てキジも家来になった、去年よりずっと家来になった」とか「裏の畑の墓地で泣く」とか「夜の校舎、窓ガラス、磨いてまわった」とか。こういう「ことば遊び」は昔からあるもので、「わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうじ山と人はいふなり」のパロディ「わが庵は都のたつみうまひつじさるとりいぬいねうしとらうじ」のおもしろさは、十二支について説明しておけば、小学生でもわかってくれます。単なる「もじり」ではなく、ワンクッションおいたパロディになっているところがおしゃれです。「長き夜の遠のねぶりのみなめざめ波乗り船の音のよきかな」でも、意味不明の歌ですが、回文になっていると言った途端、子どもたちはおもしろがります。むかし、甲陽の入試で川柳が出ていました。「受験前神や仏に□をつけ」の□に漢字を入れなさい、というやつです。川柳を使って、「およみなさい」とかやってるテレビ番組もありました。「ペケポン川柳」でしたか、あれなんて、じつは国語の勉強に相当役立つのでは? だじゃれになっているものが多いのですが、二つのちがうもので共通する音を見つける、というのは国語のトレーニングになりそうです。まあ、川柳というのは、爆笑はしませんが、「なるほどね、おもろいね」と感心するものか多いようです。「無理させて無理をするなと無理を言い」なんてのは、音がそろってて、うまいなあと思います。「シルバー川柳」というのもありますね。シルバー世代つまり人生の達人たちのことを詠んだ川柳です。「LED使い切るまでない寿命」とか「誕生日ローソク吹いて立ちくらみ」とか「マイケルの真似を発作と間違われ」とかいった自虐ネタがおもしろいのですが、最近やや身につまされるようになってきたところがつらい。ちなみに、私が好きなのは「なあお前はいてるパンツ俺のだが」というやつですが、こういうのが好きな人は長生きできるような気もします。

2013年4月 5日 (金)

西尾維新は回文

どういうところに対して「おもしろがる心」を持てるかが、国語力のちがいにつながります。たとえば金太郎と桃太郎の共通点は何でしょうか。どちらも「×太郎」である、というレベルなら、あっそう、で済んでしまいます。でも、どちらも鬼退治をしているんですよ、と言われたら、ちょっとおもしろくは感じないでしょうか。桃太郎は架空の人物だけど、吉備津彦命がモデルです、と言われても、ああそうですか、です。ところが、吉備津彦命は三人の家来を連れて、いまの岡山のあたり、鬼ノ城というところにいた温羅(うら)という鬼を退治し、その祟りを鎮めるために吉備津神社の釜の下に温羅を封じたということになっています。『雨月物語』の「吉備津の釜」にも、この釜をめぐる神事のことが出てきます。吉備津彦命の三人の家来の中に犬飼健というのがいます。当然、桃太郎が連れて行った犬のモデルですが、五・一五事件で殺された犬養毅首相の祖先です。あの人は、きびだんごをもらって桃太郎についていった犬の子孫だったのですね…。なんて言うと、ちょっとおもしろいなと思いませんか。

金太郎は実在の人物でしたが、息子と言われる坂田金平は江戸時代の浄瑠璃に登場する架空の人物です。怪力の持ち主で、その強さのイメージから、精のつく食べ物であるごぼうと結びついて、「きんぴらごぼう」と呼ぶようになったと言います。金時も金時豆の語源になっているので、親子ともども食べ物の名前と関係があるんですね…。と聞けば、やっぱりちょっとぐらいはおもしろいと思えませんか。こういうものをおもしろがる心があれば国語はのびると思います。

実在するかどうか、と言えば小説の登場人物の名前がひとむかし前と変わってきました。むかしはリアリティを持たせるためだったのか、意外に平凡な名前も多かったようです。井上ひさしの『一週間』という小説には、入江一郎なる人物が登場します。終戦直後、ハバロフスクの捕虜収容所に入れられた主人公が、元軍医・入江一郎の手記をまとめるように命じられ、その際に、表に出したらとんでもないことになるレーニンの手紙を手に入れる、というような話です。で、入江一郎って、どこかで聞いたことのある名前です。実際にはどうか知りませんが、いかにもよくありそうな名前です。長井代助とか野中宗助なんてのも、実在するかどうかはともかく、いかにも平凡な感じの名前です。時任謙作となると、名字にある種のニュアンスがあります。主人公が悩み苦しみから解放されて、時の流れに身を委ねようとする決意を志賀直哉は「時任」という名字にこめたのでしょう。しかし、「時任」という名字そのものは存在します。

ところが、最近の小説、特に推理ものやラノベ系では、架空であることを強調しすぎるような名前がよく登場します。最原最早(さいばらもはや)のように、明らかに違和感ありまくりのものから、病院坂黒猫のように、もはやそれは人の名前ではない、というようなものまで。マンガなら、むしろフィクションであることを意識させるジャンルなので、たとえ竜崎麗華とか白鳥麗子であっても、そんなものだと思っていましたが、小説になると、うーんという感じです。フィクションであることの強調なのか、それとも、実在の人物名にすると、文句を言われるからか。その登場人物は私だと言い出すようなストーカーにつきまとわれたくないということなのか。たしかに、リアルな名前だと、うっかりテスト問題に使えないこともあります。いい役回りならともかく、かたき役とかいじめられ役だったりすると、文句を言われそうです。同姓同名でなく、下の名前が同じだけでも、からかいの対象になったりすることもあるでしょう。

作家の名前自体が「入間人間」とか「日日日」になっていると、あざとすぎていやですね。入間人間の作品そのものは悪くはないのですが。「日日日」は「あきら」らしいですな。「日」を三つ組み合わせれば「晶」だから。って、それは「八十一里喚鶏」を「くくりつつ」と読む万葉仮名よりも、まだパズル度が高いぞ。ペンネームがキラキラネームになっとります。「今鹿」の「なうしか」は言われんとわからん。「龍飛伊」の「ルフィ」は意外に読める? (ちなみに今年の祝賀会のアトラクションは『ワンピース』のパロディでした。あの中の洒落たセンスのギャグはすべて私が考えたものですが、おやじギャグの部分は算数のO方先生の提供です。本人の名誉のためにイニシャルにしますが、「O」は「オー」ではなく「オ」と読みます。)「凸」の「てとり」はテトリスから来たのでしょうか。「黄熊」の「ぷう」とか「金星」の「まぁず」は…。

しかし、むかしの作家も、「くたばってしまえ」をもじったと言われる二葉亭四迷なんかはペンネームというより雅号で、こういうのはおふざけが前提の場合もあるのでしょう。直木三十五にしたって、三十一歳のときに「三十一」と名乗って、毎年増やしていき、三十五でめんどくさくなってやめたということですから、じつはいい加減と言えばいい加減です。小松左京は京大時代に京都の左京区に済んでいたからでしょう。『相棒』の「杉下右京」は「小松左京」のパクリなのかなあ。亀山薫も神戸 尊も甲斐享も「か」で始まって「る」で終わったりしていて、名前には凝っているようなので、ちょっと思いつきですが、書いてみました。筒井康隆は本名のようですが、筒井道隆とは無関係ですね。司馬遼太郎も「司馬遷にはるかにおよばない」からつけたものだし、「阿久悠」は「悪友」ですから、いい加減な名前に分類できるかもしれません。江戸川乱歩は本名が平井太郎ですから、そのままではあの作品は書けません。『お勢登場』とか『押絵と旅する男』なんて、平井太郎では読む気が起こりません。エドガー・アラン・ポオのもじりであることはあまりにも有名ですが、乱歩の作品の中に「御納戸色」という名前の作家が登場します。コナンドイルのもじりですね。外国人の名前を日本風にもじるのはよくあります。谷啓はダニーケイだし、益田喜頓はバスター・キートン、久石譲はクインシー・ジョーンズ、松任谷由実が別の人に曲を提供するときの呉田軽穂はグレタ・ガルボですね。その友達の女優、藤真利子は作家の藤原審爾の娘ですが、微美杏里とも名乗っております。ビビアン・リーですな。「私、エリザベスよ」と言ってたのは山田花子です。

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