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2013年8月の2件の記事

2013年8月24日 (土)

月の砂漠はタクラマカン

「義士外伝」というのは、『忠臣蔵』の四十七士以外の物語です。『四谷怪談』は「外伝」の一つと見ることもできます。四十七士それぞれについての話なら「銘々伝」ということになり、講談や浪曲の形で広がっていきました。浪曲つまり「浪花節」は、広沢虎造の「寿司食いねえ」とか「馬鹿は死ななきゃなおらない」などのフレーズが流行語になったこともあって、関東のイメージもありますが、本来はその名のとおり大阪発祥なので、もともとは庶民の義理人情の話が中心です。「浪花節」ということば自体が、義理人情にからんだ「くさい」話の比喩として使われることもあるぐらいです。でも、今ではすっかり廃れてしまいました。ちょっと前までの寄席では浪曲系の漫才も多かったのですがね。宮川左近ショウとかタイヘイトリオとか。

フラワーショウという女性三人組もいました。そのうちの一人のお兄さんが京山幸枝若という人で、いわゆる浪曲だけでなく河内音頭もやっていて、『河内十人斬り』なんてのが有名です。明治のころに赤阪水分村で起こった「殺人事件」を題材にして、事件直後につくられたものです。それまで古い義士ものや任侠ものが歌われていたのに対して、最近起きた実際の事件を歌ったので「新聞読み」と言います。「新聞」は「しんぶん」ではなく「しんもん」と読みますが、まさにニュースを知らせるものだったのですね。「男持つなら熊太郎弥五郎、十人殺して名を残す」というフレーズは今の時代なら「不謹慎」と言われそうですが、ヒットしたのですね。いまだに歌われているだけでなく、町田康の小説『告白』の題材にもなっています。読売新聞に連載されていましたが、会話のリズムがなかなかのもので、不思議な魅力があります。

河内音頭だけでなく、八木節や江州音頭など、ストーリーを語るものがたくさんあります。平家物語もストーリーのある「歌」です。こういうものの子孫として、日本の歌謡曲が生まれてきたのでしょう。西洋でも吟遊詩人というのがいましたが、メロディをつけて楽器を使いながら「語る」ことによって聴く人の心をゆさぶるのですね。『矢切の渡し』という曲がありましたが、あの歌詞を手がかりにして、いろいろ推理している人がいました。どういう状況で二人が舟に乗って、どこからどこへ行くのか、元の歌詞の断片的な情報から読み取っていくのは、探偵の推理のようで、なかなかおもしろいものでした。

『木綿のハンカチーフ』という歌は松本隆が歌詞を作っています。じつは元ネタがあり、ボブ・ディランの歌で、旅に出た主人公と残してきた恋人とのやりとりになっています。送ってほしいとねだるのは「ハンカチーフ」ではなく、「スペイン製の革ブーツ」ですが。歌詞のなかの「いいえ星のダイヤも海に眠る真珠も、きっとあなたのキスほどきらめくはずないもの」のあたりなんかは、ほぼそのまま使っています。でも、この歌でも、いろいろなことが推理できます。「ぼく」は都会に憧れて、田舎から出て行きますが、恋人の女性は田舎暮らしに満足しています。この対比は、高度経済成長を象徴する二つの価値観の対比だ、と言う人もいますね。そんな大層なものかい、と思うのですが。で、歌が進むにつれて、その価値観のちがいがだんだん大きくなっていき、最後には破局を迎えます。そのときに、「涙拭く木綿のハンカチーフください」というフレーズが出てきて、はじめてタイトルの意味がわかります。では、恋人がいるのはどこでしょうか。「草に寝ころぶあなたが好きだったの。でも木枯らしのビル街、体に気をつけてね」という歌詞があるので、ここから推理すると、「ぼく」は「木枯らしに弱い」はずです。ということは、彼らのふるさとは「温暖な土地」ではないかと見当をつけられそうです。「ぼく」は「東へと向かう列車」に乗りますが、「都会」は東京とはかぎりません。そこで、利用した路線は「山陽本線」ではないか、「紀勢本線」と考えるのは無理があるのではないか…。ばかばかしいけど、こういう推理も結構おもしろいですね。

まあ、こういう歌のディテールについては人それぞれの思い込みがあるのでしょう。自分が酔いしれることができるのなら、まちがった解釈でもよいのかもしれません。「敷島の大和の国に人ふたりありとし思はば何かなげかむ」という歌が万葉集にあります。「この日本にあなたと二人でいるのだから幸せだ、なげくことなど何もない」と解釈して、二人ラブラブのすばらしい恋の歌だと思っても責めるにはおよびません。「恋愛とは美しき誤解である」と言った人がいますが、まさに「美しき誤解」なら許されそうです。本当は「思へば」に対して「思はば」は仮定条件を表すので、「この国にあなたがもう一人いると思えるなら、何をなげくことがあるだろう。あなたはたった一人しかいない」と解釈しなければなりません。しかも「あなた」はこちらを振り向いてもくれないのですね。かけがえのないあなただから、ただなげき続けるしかない、という意味なのです。こういう歌でいう「人」は「あのひと」ということで、「人間」という意味で使うことはあまりないし、だいたい恋愛がうまくいって喜ぶ歌そのものはまず詠まれません。ふつうはなげきの歌なんですね。

はじめから作者がまちがっていて、おかしいという場合もあります。「月の砂漠」の歌詞で「おぼろにけぶる月の夜を」とありますが、沙漠で月が「おぼろにけぶる」ということはありえない。作詞の加藤まさを自身が千葉かどこかの海で着想を得たと言っていたはずなので、作者自身の「誤解」ですね。日本のイメージがつい出てしまったのでしょう。ほかにも変なところがあります。「金の鞍」「銀の鞍」に乗っていたとありますが、金属製の鞍なら、昼間は熱くなってしまって乗れないのでは? お尻が火傷やけど、という、しょうもないダジャレも入れつつ。だいたい、ラクダは物資を運ぶために使うので、ふつう人間は乗らないようですが、「ひろい沙漠をひとすじに、ふたりはどこへゆくのでしょう」。お供がいる様子もなく、たった二人で「とぼとぼと」夜の沙漠を「だまって越えてゆきました」。「金の鞍には銀の甕、銀の鞍には金の甕」も、沙漠をこえるのに必要な水甕を相手に預け、それを「紐で結んで」あるのは、おたがいの命を相手にゆだね、しかも結ばれているというイメージです。とすると、「おそろいの白い上着」が意味するところも見えてきます。「白」をわざわざ着たふたりの行き先は……って、これほんとに童謡ですか?

2013年8月 6日 (火)

わらの男

あまりにも暑い日々が続いていますがいかがお過ごしでしょうか。

今年の梅雨入りはなんだかあやしくて、ざーっと雨が降って梅雨入り宣言が出たものの、その後長らく雨が降らず、あの梅雨入り宣言は何だったのだろう、あれは気象庁の勇み足で、あの時点ではまだ梅雨入りしていなかったのではないか、気象庁の人たちも「やってしもた~」と思っているにちがいないと睨んでいたのでありますが、そんな梅雨も終わってだいぶたちます。

前回の山下先生の記事がアップされるまでブログの更新が滞っていたのは私のせいです。山下先生はだいぶ早くに書いてくれていたんですが、それを私が長い間アップし忘れていました。山下先生、そして数少ない読者の方々、申し訳ありません。心に余裕がない人間はダメですね。いつもあっぷあっぷして生きているのでいろんなことを忘れてしまいます。シャレではありません。

さて、僕は暑いのはまったく気にならないのですが、湿気に耐えられません。中央アジアを旅行したとき、ひどく暑かったんですけれど、もうまるで平気で、むしろ心地よかったのは、空気が乾燥していたからだと思います。空気さえからっとしていればいくら暑くてもだいじょうぶ、というのがそれ以来の僕の信念です。

かりに、暑くてしかも湿気がひどかったとしても、皮膚が何にも接触していなければ問題ない気がします。つまり、素っ裸ですね。素っ裸で、寝そべったり座ったりせず立っている状態です。座ると、椅子の座面にからだがふれますし、寝そべったりすればますますそうなるからダメですが、足の裏が床に接触している程度ならば問題はなさそうです。でも、正直、その状態で1日を過ごすのは難しいですね。当たり前のことですが、まず、外出できません。まだそんな勇気はないですね。僕の亡くなった祖母は、その昔、銭湯から帰ってくるときいつも上半身はだかで、近所の人々に恐れおののかれていましたが、僕自身はまだその境地に達していません。祖母は九州の人で、はやくに夫に先立たれ、子どもを育てるために炭鉱で働いたこともあるという話なので、そういうのが平気だったのかもしれません。中学生のとき国語の授業で「たらちねの」という枕詞を習い、長崎の片田舎にひとりで住んでいる祖母のことを思い出しました。

こんなに暑くて湿気がひどいと、沢に行きたくなります。沢登りしたいです。はじめて沢登りをしたときは、こ、こ、こ、こんなに楽しいことがあったのかと大興奮しました。まさに大人の水遊び。最近では、お酒を飲んではじけることなんてなくなりましたが、沢に入ると秒殺で脳内麻薬物質が分泌されトランスしてしまいます。沢は危ないですけど、天候に気をつけて慎重に行動すればあんなに楽しいことはありません。

はじめて沢登りをしたときだったか二度目だったか、いっしょに行った(というか連れて行ってくれた)Y田M平先生が熱中症(的な何か)にやられちゃって、大変でした。Y田先生、塩分とらずに沢の水をがぶ飲みしてましたから、それがよくなかったんじゃないかなと思います。僕は水分はため込むタイプなのか、飲むときは大量に飲みますが、飲まないときは全然飲まなくても平気で、そのときもほとんど飲みませんでしたが、全然平気でした。いずれにせよ、沢をたいがい登り詰めて、登山道に出、あとは下山するだけというあたりからY田先生のようすがぜえぜえはあはあとあやしくなり、数分歩いては休憩するという状態に陥りました。熱中症(的な何か)は怖いです。あっという間に日が暮れて、真っ暗な樹林帯をヘッドランプの明かりを頼りに下っていきましたが、何度目かの休憩のとき、ふとあたりを見わたすと、斜面一帯が蛍で埋め尽くされていたのであります。こんなに美しいものが見られるなんて何と幸運なんだろう、それにしてもなぜ横にいるのがこいつなのだろう、と思っていると、「こいつ」がうつろな目をして「ほらごらん、来てよかっただろう」と、何十回も聞かされてうんざりしている定番の「ギャグ」を力なくとばすのでありました。まあ、僕も似たようなことはよく言うわけで、僕の場合は、十三教室のエレベーターなんかで事務系の女性職員と2人きりになってしまってなんとなく気まずい感じのときに「やっと二人きりになれたね」などと言ってどん引きされてしまうわけでありますが、まったくオヤジというのはどうしようもないものです。

閑話休題。今までに見た、最も綺麗な蛍でした。使い古された形容ではありますが、まさに幻想的とはこのことかって感じで、しかもなぜか地の底から読経の声が響いてきましてね。あーもう極楽浄土ですかって思いました。実は、登山道の入口(つまり出口)のあたりがお寺で、ちょうどそのとき若いお坊さんたちが集まって修行か何かやってたんですね。比良の沢でした。

去年は沢登りに行けませんでした。今年こそは行きたいものです。ちゃんと地下足袋と草鞋のストックがあるんです。Y田先生は渓流タビ、Y川先生は渓流シューズ、そして私は草鞋なんですが、草鞋が最強ですよ。濡れた岩のうえだけでなく、滝を高巻いて藪漕ぎするときにも滑りにくい。使い捨てですが、年に1回か2回のことですし。溯行終了点の木の枝か何かに草鞋をくくりつけるというのがまたおしゃれです。なんせワラだから、ゴミにならない。

ワラといえば、昔、だれかに見せてもらった「誕生日の花」の本で、僕の誕生日の花が「ワラ」になっていて驚愕したことがあります。ワラって、花じゃないじゃん! ていうか、植物名ですらないよね!? じゃあ俺は誕生日に花束のかわりに藁束もらうのか!? しかも、花(?)言葉が「協調性」とかなんとか書いてあって、小学校のとき通知表にいつも「協調性がない」と書かれていた僕と知ってのことだろうか、何のいやがらせだ、と憤慨しました。

 

 

 

 

 

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