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2013年12月の2件の記事

2013年12月15日 (日)

客観視

いつのまにか本格的な冬が訪れようとしています。いよいよ2013年度も大詰めの時期を迎え、関西の小6生諸君にとってはいわゆる前入試まであと3週間ほどです。

 

毎年多くの受験生を入試へと送り出します。入試が近づく度に何人もの卒業生の顔を思い出すのですが、その中に次の二人の生徒がいます。仮にAくん、Bくんとしておきましょう。

 

Aくんは合格体験記を書いてくれました。合格体験記を読ませていただくと、さまざまな発見や感動があります。特に小6終盤期は毎日のように接するのですが、日ごろの様子からうかがい知れなかった心持ちを知ることがあります。

Aくんも自分の体験記に、日々の努力の様子、スタッフや講師陣への感謝の言葉を書き連ねてくれました。ご両親、ご家族への感謝の言葉もありました。その中に私がいたく感心した一節がありました。

小6になると毎日のように塾の授業があり、夕食は塾でお弁当を食べることが多かった、というくだりに続けて、ぼくのお弁当は毎日お母さんの手作りだった、一回たりともお店のお弁当はなかったと書いてありました。

事実を述べただけともとれますが、もちろん母親への感謝をこの一節に込めたのでしょう。私はこの一節を体験記に書くことができたAくんの意識に対して感心したのです。ご両親、ご家族への感謝を書き述べる生徒は多くいますが、このように具体的な事例を挙げて記す生徒はあまりいません。

この一節を書くためには自分を客観視し、その意識をどこかに保ち続けていなければなりません。このAくんのご家庭は共働きで、お母様は帰宅後にお弁当を用意して塾に届けてくれていました。子ども、特に男子ですからいちいち言葉にして日々感謝を述べるようなことはなかったでしょう。雨の日も風の日もそうやって届けに来てくれていたことを心に留めていたのだと思います。

もちろんお店のお弁当がよくないというようなことを申し述べたいのではありません。いろいろなご事情もありましょうし、家がかなり遠いお方もいらっしゃいます。しかも子どもたちは意外にもお店のお弁当を喜んだりします。いつものお家の味とは違うところが新鮮なのでしょう。もしかしたらAくんも心のどこかで唐揚げ弁当を注文したいと思っていたかもしれません。そのような中で、毎日毎日手作り弁当を届けてくれた母親に、後に残る文章の形で感謝の意を記したAくんに小学生とは思えない感性を見たのです。

このAくんは小5のころまでお家でまったく勉強をせず、お母様を怒らせてばかりいました。叱られるとふくれてしまうこともあり、冬場にTシャツ一枚でお家を飛び出したこともあったそうです。ただ、読書が大好きで、宿題優先のために本や新聞を禁じられたら広告チラシまで読みあさるほどの活字好きだったそうです。そんなAくんは小6になって第1志望校を心に定めてからエンジンがかかりました。面倒くさがっていた算数にも嫌がらずに立ち向かうようになりました。そして見事甲陽学院に合格しました。

私の感慨はそういった経緯を知っているからこそのものかもしれませんが、人の心、自分の姿を知るという点でAくんは見事な小学生だったと思います。

 

さて、Bくんです。小6で彼を担当したのは1か月だけでした。その彼が合格祝賀会でお手紙を渡してくれたのです。冒頭に次のような一節がありました。

----先生はおそらく覚えていないと思いますが、先生のおかげで第1志望校の灘中学に合格できました。

お恥ずかしながら、本当に思いあたることがありませんでした。顔も名前も覚えていますし、授業中の様子も覚えていましたが、特別なことをした覚えがないのです。文面は次のように続いていました。

----学習らんをしっかり書かなかったぼくに繰り返して注意してくれました。元のクラスにもどったときには、その教室にまで来て前週の宿題の取り組みについて叱ってくれました。あれから国語にもきちんと取り組むようになり、得点が安定しました。合格はそのおかげです。ありがとうございました。

覚えています。国語が得意な彼は、その分かどうか算数が苦手でした。算数に時間をかけたいので国語の取り組みがおろそかになっていました。そのせいで時々得意な国語でとりこぼしをすることがありました。そこで何度も何度も宿題の取り組みについて注意していたのです。

長文読解の問題で×になった設問には、模範解答を写してから「どうしてその答えになるのか」「その答えになる決め手はどこにあったのか」を考えて、書き記すように指導しています。その取り組みをきちんとこなすよう指示したのです。本文を理解できる力があっても設問の理解・対応がうまくいかないと正解にはいたりません。

手前味噌のようで恐縮ですが、合格祝賀会で非常に嬉しい言葉をいただいた訳です。ただし、私の指導成果や満足を問題にしたいのではありません。おそらくや自ら思い立って、感謝の手紙を書き記してくれたこともそうですが、冒頭の一文に感心したのです。

おそらくこちらは覚えていないだろうという書き方に、小学生とは思えないものの見方を感じたのです。まさに自分と相手を客観視しているのです。講義や問題作成以外にわれわれ希学園の講師陣は、それぞれの生徒のためにさまざまなアプローチをかけます。時には厳しく叱ることもあります。無意識にではありませんが、当然のこととしてそれらの指導を行っている訳です。そして指導がうまくいったケースについては特に忘れがちです。なかなか成果が出ない場合は気がかりだし、次の策を講じたりして心から離れません。

そういった心理や状況を汲み取って書かれたのがあの一文だと思います。卒業してから知ったのですが、この生徒は国語が得意なはずで、小5までにかなり多くの司馬遼太郎の作品を読破していたそうです。入試を終えてからは山本周五郎だとか藤沢周平だとかに手を出しているそうです。

 

国語がよくできた二人の生徒を紹介したことになりますが、より強く心に残っているのは国語が不得意だった生徒たちです。間もなく入試に向かう小6生の保護者の方も、小5生以下の諸君の保護者の方も、国語も努力によって得点をあげていける教科です。最後まであきらめずに取り組んでいただきたいと思います。

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2013年12月 8日 (日)

父は兵庫におもむかん

前回寄り道したので、前々回の続きとして「型」の話をば。この「をば」という言い方も近頃は聞きませんね。年寄りの話では、この「をば」を使うのも一つの型だったのかもしれません。型を身につけるためには、まず覚えなければなりません。むかしは神武綏靖…と天皇の名前を覚えさせられましたが、天皇の名前を呼び捨てにして「不敬罪」にはならなかったのでしょうかね。教育勅語というのも覚えさせられたそうですが、それはさすがに知りません。『平家物語』や『方丈記』の冒頭は暗唱させられましたね。『曽根崎心中』は強制されなかったのに覚えているのが不思議です。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」という、犀星の『小景異情』も自然に覚えたのか、藤村の『千曲川旅情の歌』は覚えさせられたような。「小諸なる古城のほとり」というやつですね。海原お浜・小浜の漫才でやってました。「コモロやコモロ、わからんか!」「コモロってなんや?」「天ぷらについてるがな」「そらコロモとちゃうか」という、じつにしょうもないネタ…。小浜の息子もむかし漫才をやっていて、そのときの相方が池野めだかです。孫のやすよ・ともこもおばあちゃんそっくりですな。

藤村の『初恋』は「人恋ひそめしはじめなり」の部分が重複だと言う人がいました。「初めし」と「初め」が意味的に重なっていてムダだというんですね。定型にとらわれるあまり、語の選択が藤村ほどの人でもゆるがせになっているという批判でした。憂いの気持ちがやや重くなる『千曲川』は五七調、甘美な『初恋』は女性的な七五調、と使い分けているあたりはさすがだと思うのですが。『水戸黄門』のテーマはそんなこととは関係なく七五調です。

漢詩も七文字または五文字になります。音のリズムだけでなく、平仄を合わせるのが難しい。平声のほか、上声・入声・去声とかあって、どういう配列にするのか規則があります。ふつうの日本人が漢詩をつくるときには専門家に平仄が合っているか見てもらわないといけなかったようです。読み下しにしたら、そんなことはわからないし、七五調でなくても、ある程度のリズムは出るようなのですが。「霜軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 遮莫(さもあらばあれ)家郷の遠征を憶ふ」は上杉謙信作と言われます。だれだったか、日清戦争が終わって、日本の将軍の一人が、この詩の「能州」は能登の国なのでさすがに地名は変えたものの残りをそのままパクって中国人に見せたところ、大絶賛だったそうです。明治のころまでは政治家・軍人でも漢詩を作る人は多かったようです。乃木さんも作っていますね。「爾霊山嶮なれども豈に攀ぢ難からんや」というやつです。二〇三高地ですね。標高二〇三すなわち「にれいさん」を「爾(なんじ)の霊の山」と表記しています。自分の息子も含めて、この山で死んだ無数の霊に対する鎮魂の念をこめて、このような表記をしたのだと、NHK『坂の上の雲』で言うてましたな。

しかし、さすがに今の日本で漢詩を作る政治家はいないでしょう。短歌・俳句でも無理かもしれません。辞世の句なんて作れない。 同じ越山でも田中角栄の「国交途絶幾星霜 修好再開秋将到 隣人眼温吾人迎 北京空晴秋気深」という「漢詩」は卓越しています。一見「七言絶句」ですが、中国人が見たらまさに「絶句」でしょう。いっさい返り点なしで、「3LDK駅近」のような不動産広告みたいだと、日本人からも酷評されました。「秋」の字の重複も本来は望ましくないし、「吾人迎」も「迎吾人」にしなければ文法的におかしい。また、「北京空」ではなくて「北京天」としなければなりません。「空」では「北京はむなしい」と言っていることになる。でも、毛沢東も周恩来も喜んで受け取ってくれたのでしょう。オバマさんが日本語で俳句を作るみたいな感じですから、作ることに意味があり、巧拙は問題ではなかったということでしょう。

七五調は古くさいと思われがちですが、今もってその威力はすごいものがあります。「仰げば尊し」は八六調、『春が来た』は五五調、いろいろありますが、やはり七五調のリズムが人を酔わせます。 標語はだいたい七五調です。「飛び出すな車は急に止まれない」のように。正岡子規が「彼岸の入りだというのに寒いなあ」と言うと、母親が「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」と答えました。これ、そのまま子規の句として発表されています。「1にナントカ、2にナントカ、34がなくて5にナントカ」とか「はじめちょろちょろ、なかぱっぱ」のような七五調は言いやすいし、覚えやすい。寅さんの口上も七五調です。「四谷赤坂麹町チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ちションベン」とか「白く咲いたか百合の花、四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い」とか「焼けのやんぱち、日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たない」とか。

むかしは歌謡曲の司会の歌紹介も七五調でした。「赤いランタン波間に揺れて…姑娘(クーニャン)かなしや支那の夜」というのは浜村淳で覚えたような気がします。「本日はにぎにぎしくご来場、まことにまことにありがとうございます。わたくし四畳半のザッツ・エンターテイメント、小松よたはちざえもんでございます。歌は流れるあなたの胸に、いま歌謡界に燦然と光り輝く、お待ちどおさま、涙、涙のベンジャミン伊東でございます」となると『電線音頭』です。 歌舞伎の名台詞も当然のごとく七五調です。「知らざあ言って聞かせやしょう」なんて、NHKの番組『にっぽんの芸能』で檀れいが決めぜりふとして言っていました。「浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜…名せえゆかりの弁天小僧菊之助」とか、「月も朧に白魚の篝も霞む春の空…こいつぁ春から縁起がいいわい」とか。

浪花節から出た「バカは死ななきゃならない」は今やことわざの域になっています。「あっと驚く為五郎」ももとは浪曲です。出典が忘れられても「どこまで続くぬかるみぞ」「戦い済んで日が暮れて」「なにをこしゃくな群雀」など、軍歌から出たフレーズを使う人がいまだにいます。…ほとんどいないか。だれだったか忘れましたが、何かの標語コンクールの審査員になった人が、子どもに「どこに行くの」と聞かれて、「父は標語におもむかん」と言った、という話、いまは通じませんね。また『青葉茂れる』にもどってしまいました。

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