« 2015年2月 | メイン | 2015年4月 »

2015年3月の4件の記事

2015年3月29日 (日)

昭和は遠くなりにけり

昭和は遠くなりにけり

妙な姓名と言えば、ガリレオ・ガリレイです。これは何なのでしょうか。どうやら名字をそのまま名前にしたようです。フェデリコ・フェリーニという監督もいましたから、ひょっとしたらイタリアではよくあるパターンなのかもしれません。姓名のどっちで呼ぶかと言うと、監督は「フェリーニ」なので姓ですが、学者のほうは「ガリレオ」で名のほうですね。これはなぜなのかなあ。ひょっとして日本人は知らないだけで、じつは皇帝だったりして。

先祖の名をどんどん重ねるという名前のつけ方もあるようです。ピカソはふつうパブロ・ピカソと呼びますが、本名は強烈に長かったはずです。ヤホーで調べてみたら、いくつか説があるようですが、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シブリアーノ・センティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」と出ていました。「ルイス・イ・ピカソ」が姓らしく、ルイスが父親、ピカソが母親の姓だということです。どうして母親の姓で呼ばれているのか不思議です。名前には祖父とか叔父さんとか、いろんな人の名前がはいっていて、本人も覚えられなかったとか。外国ではミドルネームとかクリスチャンネームとかあって結構長くなるようです。

厄介なのはロシアで、なんと名字が性別によって変わるらしいですね。つまり、同じ家族でも男女でちがう名字になるということです。もちろん、イワノフとイワノバのように、語尾が変わるぐらいで、徳川が豊臣になるというレベルではありません。でも、「山下」が「山上」になったら困ります。アメリカで多い名字はスミス、ジョンソン、ウィリアムズ、ブラウン、ジョーンズ、ミラーらしいですね。たしかによく聞きます。調べてみたら名字の種類はアメリカでだいたい150万ぐらいだとか。日本は30万ぐらいということで、意外に少ないですね。日本のほうが多いような気がするのですが。ただ、どの漢字を使うか、たとえば「久保田」と「窪田」を区別するのか、ということでカウントの仕方が難しいようです。

希学園の塾生にもカタカナの名前が多くなって…というのを今年の祝賀会の講師劇のネタで使いました。「シュワルツェネッガーくんがトイレにはいったまま、なかなか出出ん出、出ん出ん出ん」というような、どうも申し訳ございませんというレベルのネタでした。カタカナばっかり並んでいると、「どこで切るの?」「名前はどっち?」と思わず悩んでしまいます。「トム・ジョーンズ」みたいな、わかりやすい名前なら楽なのですが。これは日本で言えば「山田太郎」にあたるのでしょうが、「山田太郎のようによくある名前」と言いながら、実際には「山田太郎」という名前の人はほとんどいません。「山田太郎」はありふれた名前ではないのですね。

中国の名字が約2万、韓国で2、300らしいので、日本よりも名字が少ないことになります。そうなると同姓同名も増えるでしょう。でも、劉備とか関羽とか張飛がゴロゴロいるのかと言うと、そうでもなさそうです。こういうのはあえて避けるのでしょうね。日本でも信長、家康、秀吉はめったにありません。龍馬は熱烈なファンのお父ちゃんがつけそうです。光秀となると、つけようとは思わないでしょう。世の中には「悪魔」と命名しようとした人もいますから、一概には言えませんが。

小説の手法で、あえて知られていない名で実在の人物を登場させるというのがありますね。京極夏彦の『書楼弔堂』という小説に畠芋之助と名乗る人物が登場します。だれだかわからないまま読み進めていくうちに、この人物がのちの泉鏡花であることがわかるという仕組みになっていて、じつは鏡花が畠芋之助というペンネームも持っていたことをさりげなく紹介しております。何十年も前に読んだ山田風太郎の小説で、金之助少年となつという幼女の出会いを描いた、明治時代を舞台としたものがありました。後の漱石と樋口一葉ですな。現実にも一葉の父親の上司が漱石の父親であった関係から、漱石の兄と一葉との間に縁談があったそうです。結局は漱石の父親の反対でつぶれたらしいのですが。

山田風太郎の明治物が人気を集めはじめたころ、明治を舞台としたものがもはや歴史物・時代物になったのだなあと感慨深げに書いている人がいました。たしかに明治生まれの人がまだたくさん生きていましたから、そんなに昔のことでもなかったのですね。「きんさんぎんさん」という長生きのふたごの姉妹がいました。じつは「きんさんぎんさん」にはかくれた妹がいて、その名は「どうさん」、という、しょうもないギャグが好きでしたが、とにかくこの二人、100歳をこえて国民的アイドル(?)でした。明治25年生まれなので、この人たちはたとえば伊藤博文と同じ時代の空気を吸ってるのですね。伊藤博文は当然吉田松陰と同じ時代の空気を吸った人です。そういう人と同じ時代の空気を吸っていると思ったら、「明治は遠くなりにけり」ではなかったのですね。でも、明治を「歴史」として認識しはじめた時代でもありました。

平成もそろそろ30年に近づこうとしているわけですから、昭和でさえも、もはや「歴史」なのかもしれません。戦後間もない頃のことを知らない人もどんどん増えてきています。そうすると、その頃当たり前だったこともわからなくなってきます。ごく身近な生活のことだって、ちょっと年月がたてばわからなくなります。たとえば「チャンネルをまわす」という言い方だって、今の人たちにしてみたら変といえば変です。初期のテレビのチャンネルはたしかにガチャガチャ回していたのですね。とれてどこかへ行ってしまったあと、残った芯をペンチではさんで回すということを体験した世代もいなくなりつつあるわけです。電話もダイヤル式だったことを知らない人がいるでしょう。萩の博物館へ行ったとき、「昭和の電化製品」が展示されていました。つい最近まで使っていたのに、と思うようなものが、すでに「歴史」になっているのです。「お宝鑑定団」で昭和のおもちゃがときどき出てきますが、すごい値段がつくこともあるのも当然です。「昭和は遠くなりにけり」ですね。

昭和生まれにとって、いやなのは呼称の変化です。「チョッキ」と呼んでいたものがいつのまにか「ベスト」になり、「バンド」が「ベルト」になり、「ズック」が「スニーカー」になりました。「Gパン」と言う人も少なくなり、「コール天」は完全に死語になりました。でも、そば屋の「出前」は「デリバリー」と言ってほしくないなあ。

2015年3月21日 (土)

またまた名前であそぶ

ペンネームであそぶのは、やはり推理作家が好きなようです。「佐賀潜」とか「嵯峨島昭」とかふざけた名前にしたり、「厚川昌男」のアナグラムで「泡坂妻夫」にしたり、というのも推理作家です。推理作家ではありませんが、色川武大が『麻雀放浪記』を書くときは、阿佐田哲也の名前にしていました。これは当然「朝だ、徹夜」の洒落です。

「二つ名」ということばもありますが、これがまたわかりにくい。本名以外の呼び名のことだと説明している辞書もあります。通称とかあだ名が一般的ですが、コードネームとか源氏名なども含まれそうです。ところが、そのものの特徴や性質をちょっと「文学的」に表した言い回しを「二つ名」と言うこともあります。「尾張の大うつけ」とか「東海一の弓取り」とか「越後の龍」「甲斐の虎」のように。織田信長、今川義元、上杉謙信、武田信玄を表していますが、通称やあだ名とはニュアンスがちがいます。「犬公方」は微妙かな。「…の…」のパターンでは「東洋の魔女」とか「フジヤマのトビウオ」とかいうのもありました。うーん、古すぎ。

でも、こういうのとはまたちがった「二つ名」というのもあります。「鬼平犯科帳」に出てくる盗賊などで、本当の名前の上にくっつける「呼び名」みたいなのがありますよね。夜兎の角右衛門とか狐火の勇五郎とか、風車の弥七とか、これは「水戸黄門」ですが。これ、ちょっとかっこいいですよね。旭将軍義仲とか独眼竜政宗というのも、これに近いようですが、「旭将軍」「独眼竜」のように単独でも使います。やはり、「○○の」という形ですね。「マムシの道三」は入れてもよいかなあ。「アホの坂田」はかっこよくないですね。このあたりになるともはや枕詞になってきます。「清洲の甚五郎」とか「生駒の仙右衛門」とか、これは地名ですかね。侠客の「清水の次郎長」「吉良の仁吉」は明らかに地名ですな。これは名字とはちがうのかなあ?

貴族はほとんどが藤原氏なので、屋敷のある地名で呼んだのですね。今でも親戚同士を区別するときに地名を使うことがあります。「名古屋はまだ来ないか」のように。こういうのが名字になっていったのでしょう。足利荘に住んでいる源氏だから足利の源尊氏、ちぢめて足利尊氏であり、新田荘なら新田義貞になります。たまに県名と同じ名字の人がいますが、県名も小さな土地の名前が代表として名付けられたことが多いので、そういう名字の人がいるのも当然でしょう。もちろん、さすがに北海道という名字の人はいませんし、「北海」でもなさそうです。東北では秋田、福島は名字としてよく見ます。「福島」は「くしま」と読むこともあります。地黄八幡北条綱成はもとは「くしま」と読む「福島」姓でした。青森、岩手という名字はあまり見ません。山形は多くはないけれどいますね。「山県」「山縣」と書くとまたちがうルーツになるのでしょう。宮城も少ないようですが、宮城道雄さんがいます。

関東地方は名字になりにくそうですね。東京は当然でしょう。人工的な名前で由緒ある地名ではありません。東京ぼん太という人がいましたが、芸名です。神奈川もなさそうだし、群馬、埼玉も聞いたことがありません。栃木は小学校の同級生にいました。茨城は少ないでしょう。茨木なら結構います。関東ではやはり千葉がとびぬけて多そうです。中部地方では石川、福井、長野はよく聞きます。富山は「とみやま」と読むことが多いでしょうね。新潟はなさそうです。静岡、山梨もなさそうだし、岐阜も人工的地名なのでいないでしょう。愛知は愛知揆一がいるので、ゼロではありません。 近畿も京都はいません。大阪は大坂ならいるでしょうが、大阪ではどうでしょうか。奈良は意外にいるような気がします。滋賀、和歌山は志賀、若山になるとかなりいますが、どうでしょうか。兵庫、三重はゼロに近そうです。四国は香川が多いけれど、徳島は少なそうです。愛媛、高知となるとやはりゼロに近いでしょう。中国地方は山口が全国ベスト30には入るレベルの多さですが、岡山、広島はぐっと少なくなるし、鳥取、島根は聞いたことがありません。九州は福岡、長崎、宮崎がそこそこ多く、熊本もいるでしょう。佐賀もいなくはなさそうですが、大分、鹿児島はどうかなあ。沖縄はまあいないでしょうね。旧国名で見ていくのもおもしろそうですが、ちょっと飽きたので、また今度。

外国人の名字も地名から来ているのでしょうか。大工のカーペンターなんてのがあります。スミスが鍛冶屋であり、ミラーが粉屋、テイラーが仕立屋というように、職業が名字になっているのが多そうです。ドイツに行くと、シュミット、ミュラー、シュナイダーですね。シェイクスピアなんてのは、「槍を振る」という意味ですから、何なのでしょうね、これは。日本で言えば「剣持さん」ですかね。スチーブン・キングなんてのは「王様」と関係あるのかなあ。トルーマンは先祖が正直だったのか、ワイルドはスギちゃんみたいな先祖なのか。アームストロングは腕っぷしが強かったんでしょうね。ブラウンは何が茶色だったのでしょうか。肌の色か髪の毛か。ヤングというのは、どの時点で名字になったのでしょうか。本人が年取っていたらオールドだったはずです。リンカーンはアメリカの町の名でもありますが、調べてみたら、これは大統領の名にちなんでつけられたとか。ところが、イギリスにもリンカーンという地名があり、「ケルト語起源のLindo(池)にラテン語のcolonia(植民地)がついたもの」と書いてありました。ということはリンカーンは地名からきた名字ですね。

マクドナルドのように「ドナルドの子」というパターンは、マッキントッシュ、マッカーサー、マッケンロー、マッケンジー、マコーミックのような、スコットランド・アイルランド系によくあります。ジャクソンのように、あとに「ソン」がつくものもあります。ジョンソン、ダビッドソン、ウィルソン、アンダーソンも「ジャックの子」パターンですね。アンデルセンの「セン」も同じでしょう。ウィリアムズ、ジョーンズ、デイビスなどの「~ズ(ス)」やオニール、オブライエンの「オ~」も「子供」という意味のようです。父親のファーストネームを名字にすることも結構あったようですね。ナポレオン・ボナパルトの甥がルイ・ナポレオンになっているのはそういう理由でしょうか。ケネディとかチャーチルは姓で呼びますが、ナポレオンは皇帝なので名で呼ぶのでしょう。フランスの王様がルイ何世とか呼ばれるように。そうすると、ナポレオンの血を継いでいるということで、甥は「ナポレオン王朝」の「ルイ」となったのかもしれません。山田ルイ53世はまったく血のつながりはありません。どうしているのかなあ、髭男爵。ルネッサーンス!

2015年3月15日 (日)

淀川河川敷散歩Ⅱ

入試分析会の告知第Ⅱ弾をばしっと決めようと思っていたんですが、いつのまにか終わってしまっていました。そこでタイトルを上記のごとく変更し、何食わぬ顔でどうでもいいことを綴りたいと思います。

冬は(とっくに春ですが)なんといってもお風呂でみかんを食べるのが至福のひとときです。湯船に洗面器をうかべ、そのなかにみかんを2つ3つ入れておき、お湯につかってゆっくり食べます。よい子のみんなはまねをしてはいけませんよ。行儀が悪いですからね。ましてや、お風呂の中で本を読んだりしたらダメですよ。目が悪くなるし、浴槽に本を落としたらすごいショックですからね。しかもその本が五千円以上もした本だったりすると(『関連性理論』という本ですね)ますますショックですからね。それはともかくそれにしても実は先日わたくしの誕生日で、◆十◇歳になったわけですが、子どものころは◆十◇歳のおとながこんなにバカで幼稚だとはまったく思っていませんでした。それがいちばんショックです。

先日も書きましたが、淀川河川敷を散歩するのも至福のひとときです。空が広くて気持ちいいので、はじめのうちは土手を歩いていましたが、もともと水辺が好きなので、だんだん河岸に近寄るようになったんです。先日はかなり痺れる光景を目撃しました。

ばーん。

20150224173324

写真がボケボケで申し訳ありません、ガラケーなので許してください。でも、この朽ちたボートと大阪のビル群との対比がすごくかっこよくないですか?いや、かっこいいんです。映画のワンシーンみたいです。アングルがもうひとつかもしれませんが。もうちょっと空を大きく撮せばよかったかしら。まあ、こんなもんです、わたしの腕前なんて。

これは水辺ではなく土手ですが、こんなのも撮りました。

ばーん。

20150120164117

これは「毛馬」の「閘門」です。淀川と旧淀川の分岐点にある水門施設ですね。なんですが、アングルが悪くておかしな感じになってしまいました。ちなみにこの毛馬というのは与謝蕪村の生地だそうですね。「春風のつまかえしてや春曙抄」でしたっけ? まちがえていたらごめんなさい、昔はそんな感じの土手だったんでしょう。今は、黄昏どきに行くと淀川大堰に照明がともり、とても綺麗です。ここもお気に入りの散歩コースですね。以前この付近を散歩していたら、ジャージを着た二人組のおじさんがウォーキングをしていました。背が低くて痩せたほうのおじさんは、もうひとりの恰幅のいいおじさんのうしろからちょこちょことついて歩いていましたが、携帯電話が鳴ると、さっと懐からとりだし、腰をかがめて、前の恰幅のいいおじさんに差し出していました。げ、そういう職業の人かと思って、そっと離れる私なのでありました。

川沿いを歩いていると、いろいろ目撃することがあります。夜、大川沿いを歩いていると、川をすーっと泳いでいる小動物を発見、ねずみにしては大きいが何だろうと思ってちかづくと、ヌートリアでした。ヌーはよく見ます。西宮北口教室南館の裏にある津門川(つとがわ)でも見たことがあります。そう、あの小さな川は津門川というのです。西宮在住の方でも知らない方が多いのではありますまいか。私は、あの津門川に沿って海まで歩いたことがあります。ひまなんですかね? 今津港には大関酒造ゆかりの今津灯台があり、なかなか良い雰囲気でしたよ。

入試分析会は終了しましたが、5月には学園長の教育講演会もあり、わたしもスタッフとして参加していると思います。国語について何かお訊きになりたいことなどございましたら、ご遠慮なくお声をおかけください。

2015年3月 5日 (木)

弾厚作は加山雄三

合格祝賀会の講師劇は毎年ネタを考えるのに苦労します。その年のはやりものなどを持ってくることが多いのですが、ジャンルとしてもできるだけ今までとはちがうものにしたいのですね。学園物、推理物、SF物、ミュージカルからアニメから…。ただ、歴史物・時代物はやりにくい。とりあえず、カツラも全員分用意しなければなりません。特にO村先生の分は不可欠です。もちろん、「おちゃらけ」ですから、別にその時代に忠実でなくてもよいのですがね。

そういえば「江戸しぐさ」を批判する本が出ていましたね。実はこの「江戸しぐさ」、灘中の入試に出ています。有名な「傘かしげ」なら、なんとなくあってもよさそうですが、それでもなんかわざとらしくて、かすかな違和感がありました。灘中で出た文章では「うかつしぐさ」というのがとりあげられていました。筆者の師匠とかいう人が、見世物小屋の口上「六尺の大イタチ」につられてはいってみたら、六尺の長さの大きな板に血がついていた。「六尺の大板血」というオチですね。でも、だまされた自分が「うかつ」だったのだから、うらみごとは言わない、これが「うかつしぐさ」だ、という文章でした。

ただ、どうみても、これは「しぐさ」ではありません。しかも「うかつしぐさ」と名付けてしまったら、その「しぐさ」自体が「うかつ」だということになりますから、ネーミングとしても明らかにまちがっています。灘でも「どのような態度か」という問題を当然出さざるを得ませんが、じつに答えにくい問題でした。「しぐさ」なのだから、動作らしく答えたいのに、動作ではなく「態度」になってしまうのです。そんな妙な日本語を江戸っ子は使っていたのでしょうかね。「江戸しぐさ」という言い方自体、なにか胡散臭い。江戸っ子が自分たちのふるまいをわさわざ「江戸しぐさ」と呼ぶとは考えにくい。よその土地の人が、江戸っ子はちがうなあということで呼ぶのならわかりますが。

そもそも、この「大いたち」の話は、たしかに昔からあるばかばかしい見世物らしいのですが、この筆者が、知らない人に紹介する口調で書いているのが不思議です。この人は落語を聞いたことがないのでしょうか? 落語のネタとして有名すぎて、師匠が自分の体験談として話すのも照れくさいというレベルです。「山から取れたて、近づくと危ない」なんてフレーズさえ落語にはあります。たしかに、板は山から取れたてでしょうし、立てかけた板は倒れたら危険です。大いたち以外にも「ベナー」なんてのを志ん生がやってました。なべを逆さにしているだけです。「源頼朝公のしゃれこうべ」というのもやってましたな。「かの源頼朝公のしゃれこうべでございます」「ちょいと小さいよ」「頼朝公ご幼少のみぎりのしゃれこうべでございます」というやつ。ほんとうに江戸しぐさが江戸にあったのなら、古典落語に出て来ないはずがないのに、まったく聞いたことがありません。おそらく、ことばとしても「しぐさ」としても存在しなかったのでしょうね。第一、この私が知らないことばです。そんなものは存在しない、と神は言った。

灘中もこんな文章を出してしまって、今頃後悔しているかもしれません。まあ、灘はわりと「はやりもの」を出してくるのでやむをえないでしょう。その年のベストセラーを意外によく出してきますし、「その年死んだ人」というのも狙い目です。今年は、まど・みちおや吉野弘が出てもおかしくなかったのですが、灘では出ず、吉野弘が神戸女学院で出てしまいました。希学園では対策をしていたので、予想的中ということになりましたが。ほかに宮尾登美子とか渡辺淳一もなくなったのですが、『鬼龍院花子の生涯』や『失楽園』『愛の流刑地』は出せんやろなあ。坂東眞砂子の『死国』はすごくおもしろかったのですが、これも出しにくい。森本哲郎や深田祐介は出ても不思議はなかったのですがね。深田祐介といえば、『スチュワーデス物語』の原作者ですが、最近はあまり名前を聞かなかったような。ほかに、やしきたかじんとか高倉健とか、これはさすがに出ません。高倉健のエッセイはむかし模試で使ったことはありますが。

赤瀬川原平なんて人もいました。「超芸術トマソン」で有名な人ですね。建築物にくっついている無用の長物というか、意味不明のものを「トマソン」と呼んでおもしろがっていました。電信柱にくっついている意味不明の階段とか。灘にも二階の壁に意味不明のドアがありましたが、あれはどうなっているのかなあ。「超芸術」というのは、その無意味さ、役に立たなさのせいで、芸術よりももっと芸術らしいという意味だそうです。トマソンの語源は、ジャイアンツのトマソン選手ですね。四番でありながら、三振ばっかりの元大リーガーの「無用の長物」ぶりが、もはや一種の芸術だったのです。赤瀬川原平の兄は直木賞作家の赤瀬川隼で、この人も最近なくなりました。隼の長女は『人麻呂の暗号』の著者「藤村由加」の一人です。四人の女性の名前から一文字ずつもってきて組み合わせたものをペンネームにしています。赤瀬川原平も「尾辻克彦」という別の名前を持っており、二つのペンネームを使い分けていました。

ペンネームの使い分けといえば、長谷川海太郎が有名です。この「かいたろう」さん、林不忘、牧逸馬、谷譲次の三つのペンネームを使い分けていました。「丹下左膳」を書くときは林不忘、犯罪小説では牧逸馬、谷譲次は「めりけんじゃっぷ」のシリーズで使っていました。昔、すべてのペンネームの本を持っていましたが、どこかに行ってしまったのが残念。エラリー・クイーンはバーナビー・ロス、コーネル・ウールリッチはウィリアム・アイリッシュ、E・S・ガードナーはA・A・フェアという別名を持っています。

クイーンは藤子不二雄と同じように、二人の人間が合作するときのペンネームで、しかも、クイーンは作中に出てくる探偵の名前でもあります。『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』はクイーンではなく、バーナビー・ロスの名で出しており、探偵もドルリー・レーンということになります。『レーン最後の事件』のあるトリックを効果的にするために、前の三部作が用意されており、そのために新しいペンネームと新しい探偵を作り出すという、凝ったことをやっとるわけです。クイーンとロスが覆面をかぶって公開討論したことがあるそうです。両者が「同一人物」であり、しかも二人合同のペンネームであることを秘密にしていたから成り立つ「二人二役」のトリックですね。わけがわかりません。

このブログについて

  • 希学園国語科講師によるブログです。
  • このブログの主な投稿者
    無題ドキュメント
    【名前】 西川 和人(国語科主管)
    【趣味】 なし

    【名前】 矢原 宏昭
    【趣味】 検討中

    【名前】 山下 正明
    【趣味】 読書

    【名前】 栗原 宣弘
    【趣味】 将棋

リンク