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2015年4月の1件の記事

2015年4月30日 (木)

松本留五郎の本職

「ファイナンシャルプランナー」とか言われても、何をする人かわかりません。なんとかアドバイザーとか、なんとかコーディネーターとか、最近はいろいろあります。「ディッシュウォッシャー」と言うと、ちょっとオシャレですが、直訳すれば「皿洗い」です。女性専用だった「スチュワーデス」が使えなくなったために、「フライトアテンダント」とか「キャビンクルー」とかに変わりました。「キャビンアテンダント」というのは和製英語らしいですが。こういうのは社会情勢の変化によるもので、やむを得ません。「スッチー」と言えなくなったことを残念がるのはおじさんだけです。

いまだに外来語にすると、なにか高級な感じになるのが不思議ですね。「便所」というと下品ですが、「トイレ」と言うと、ゴージャスな感じがして一生こもっていたくなります。そんなことはないか。「ご職業は」と聞いて、堂々と「ニートです」と答えられたら、外資系の会社に勤めてるんだなと思わず納得してしまいます。逆に今では通用しなくなった職業名もあります。「モク拾い」なんてのが昔はありました。小椋佳が『モク拾いは海へ』という曲を作っていますが、戦後間もないころ、「モク拾い」を仕事にしていた人がいました。これはさすがに実物を見たという記憶がありません。「モク」というのはタバコのことで、要するに街なかでタバコの吸い殻を拾い、それを材料にして新たなタバコを作って売るわけですね。それ専用の道具もありました。先に針のついた棒でタバコの吸い殻を突き刺して背中の籠に入れるのですが、なんか書いてるうちに見たことがあるような気もしてきたから不思議です。おそらく映画かテレビのドラマの記憶でしょうが。

こんな算数の問題もありました。「タバコの吸い殻5個で新しいタバコ1本を作れる人がいます。25個の吸い殻を拾ってきたこの人は何本のタバコが作れるでしょうか」のような。5本と答えたらダメなんですね。その5本を吸って、また新たに1本作れる、とかいうインチキみたいな問題です。妙な商売では「ガタロ」というのがありました。落語の『代書屋』に出てきます。松本留五郎さんの生業ですね。「ガタロ」は「河太郎」の訛りで河童のことも意味しますが、ここでは下半身全部を包むような長靴をはいて川にはいり、川底に落ちている釘などの金属製品などを拾って売る、というすごい商売です。松本留五郎さんが履歴書を書いてもらうために、代書屋で自分の職業を言うのですが、代書屋さんもどう書いてよいのか、困ってしまいます。「ガタロ商を営む」とか「川の中に勤める」とか、留五郎さんが案を出すあたりが大笑いです。この「川の中に勤めている人」は確かに見た記憶が…、たった一回だけですが。

だいたい「代書屋」自体が今はありません。「司法書士」「行政書士」にあたる仕事をする人で、手紙の代筆などもしていたようです。日本は識字率が高いのですが、明治のころは、無筆の人もいたようです。まあ巻紙の手紙は今や誰も書かなくなりましたが、うちの父親はよく書いてましたね。左手にトイレットペーパーのような巻紙を持って、右手の筆でサラサラと書いていくのが、まるで大河ドラマみたいで、今思えばかっこよかった。いざとなったら「代書屋」をやる、と言っていました。字は戦前、中国東北部にいたときに、土地の人に習ったらしいです。父親が14、5才の頃、故郷に送ったはがきが残っていましたが、まだ字を習う前だったようで、下手な字で「大連で電車に乗ったとき金を拾って、その金をねこばばして饅頭を食った」みたいなことを得々として書いていました。子供たちにさんざん揶揄されて恥ずかしかったのか、いつのまにかこっそり破って捨ててしまったようです。残っていれば、今となってはその頃の満州事情を知るうえで多少の歴史的価値があったかもしれません。下手な字だったのが難点ですが。

それにしても何をもって上手と言い下手と言うか、というのも結構むずかしい問題です。空海って、ほんとうにうまいのでしょうかね。残っている真筆を見ても、一つ一つの字のくせもすごく、全体のバランスが悪いような気もします。いろいろな書体を書き分けられたようだし、個性のある字なのでしょうが…。そのへんにいる書道の先生とはレベルがちがっていて比較にならないということなのですかね。「書道の大家格付けチェック」で、空海の字はA・Bどっち、というのをやれば見破れるのでしょうな、GACKTを待つまでもなく。まあ美の基準なんて、国や民族、文化によってもちがいますし、時代によってもちがってきます。平安時代の美人を今の時代に連れてきても美人というわけではなく、小野小町でも在原業平でも、現代人の目から見たら「ナニコレ珍百景」かもしれません。昭和の美人でさえ、今では通用しない可能性がありますし、今のイケメンが百年後には「なんじゃこりゃ」になっていても不思議ではありません。動物の美醜はどうなんでしょうね。可愛いものもあれば、気味の悪いものもありますが、たとえば蟻の中でも個体差があるのでしょう。犬猫になると、相当あるようで、同じトイプードルでも整った顔立ちのもいれば、「珍百景」もいます。ただし、犬同士ではどうなんでしょう? 人間とは基準がちがっているのかなあ。人間が見てブッサイクな顔が犬の世界ではイケメンであるかもしれません。

いつも思うのですが、モナリザって美人なのでしょうか? 一説によるとダビンチ自身がモデルだと言います。そうであるなら、おっさんの顔ということになってしまいます。「白骨美人」ということばもありますが、これもよく考えてみると意味不明ですね。「白骨」なのに、美人だとわかるはずがありません。それとも、白骨そのものが美形なのでしょうか? 書いているうちに、もう一つ疑問が出てきました。骨って白のはずなのに、「白骨」と言ってわざわざ強調するのはなぜでしょうか? ひょっとして、この「白」はホワイトではないのかなあ? 「白木造り」も白い色をぬっているわけではなく、素のままの木を使った建て方だし、酒を飲んでいない「しらふ」も赤くなってはいないもののホワイトというわけではありません。漢字で書けば「素面」ですから、「白木造り」も本来は「素木造り」のほうが正しいのでしょう。肉のついていない骨なので「素骨」を「白骨」と言ったのか。ただ音読みなのでこれは漢語になります。中国でも、やまとことばと同じ事情なのかなあ。辞書では「白骨」は「風雨にさらされて白くなった骨」と書かれていました。ということは、風雨にさらされる前は「白」ではない? ひょっとして生きているときはピンク? 黒だったらいやだなあ。

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