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2016年2月の2件の記事

2016年2月22日 (月)

サナダムシの名の由来は幸村

大河ドラマの『龍馬伝』で岡田以蔵を演じたのは佐藤健で、勝新とはちがう、なかなかいい味を出していました。『天皇の料理番』でも堺正章やさんまを超えたと評した人がいました。私ですが…。

ところで、岡田以蔵は、諱(いみな)ではなく「以蔵」という名で呼ばれますが、歴史上の人物の呼び方はどうやって決めるのでしょうか。たとえば、社会のテストで「勝海舟」と答えずに「勝麟太郎」「勝安房」としたら×になるのか、足利尊氏を高氏としたら×なのか。鎌倉幕府を滅ぼした時点では、まだ北条高時からもらった「高」で、幕府滅亡後に後醍醐の「尊治」からもらった「尊」に変えたのだから、「鎌倉幕府を倒したのはだれか」という問題なら「高氏」と答えるべきなのか、それとも最終的な名前で答えるべきなのか。「中国の孔子」という言い方も考えたらおかしいわけで、孔子の生きていた時代には「中国」とは言わなかったはずです。結局、現代の目から見た呼称でよいのかなあ。

諱と字(あざな)の問題とは別に文化人には「号」というのもありますね。ペンネームみたいなものですが、「号」はそのままで独立しています。「夏目漱石」「森鴎外」は「漱石」「鴎外」と呼んで抵抗がないのは「号」だからですね。ということは、テストの答えで「号」だけ答えても×にはできないはずです。「海舟」も「号」なので、そのままでも点をもらえるのかなあ。「松陰」もそうですね。文化人以外にも結構います。西郷隆盛の「南洲」も「号」でしょうし、犬養毅の「木堂」、尾崎行雄の「咢堂」は明らかに「号」ですね。芥川や太宰は「号」を使っていないので、下の名前ではなく姓で呼ばれるのでしょう。ただし、川端はなぜかフルネームで呼ばれることが多い。横光は姓だけでもOKで、志賀は微妙、武者小路はOK。ということは、ありふれた名字は紛らわしいのでフルネームになるのかもしれません。

将軍は下の名で十分ですね。頼朝、尊氏、家康でまちがえようがありません。有名武将も下の名前だけで呼ばれることがあります。信長、秀吉はもちろん、加藤清正でも清正でOKなのに、福島正則はフルネームですね。家康四天王のレベルでも「本多忠勝」のようにフルネームか、下手すると、ご丁寧に「本多平八郎忠勝」と呼ばれることもあります。単なる知名度の差とも思えませんし、このちがいは何なのでしょうね。吉田松陰の諱はほとんど知られていませんが、通称の「寅次郎」は知っている人もそこそこいるようです。ということは、同時代の人たちは「寅さん」と呼んでいたかもしれません。年下の家来の門下生になった、そうせい侯毛利敬親はどう呼んだのでしょうか。

坂本龍馬は「龍馬」ですね。「坂本」とは呼ばれません。坂本城を領した明智光秀の娘婿の子孫なので「坂本」になったと言いますが、坂本の家の株を買っただけで、光秀と直接のつながりはないようです。関ヶ原で徳川に負けた島津・毛利と秀吉に負けた明智が力を合わせて徳川氏を倒した、というストーリーはなかなかおもしろいのですが。その薩長がつくりあげた日本が太平洋戦争で負けたときの戦後処理は奥羽出身者がやったというのにもつながるような。そして、今また長州の安倍さんという流れになっているのは、歴史はくり返す、ということですかね。長州の高杉新作や薩摩の西郷、大久保は、龍馬とちがってやはり姓で呼ばれるので、龍馬だけが別格なのかもしれません。

自分の名前の一字を子供や家来に与えるということがよくあります。平氏はみんな○盛です。この「盛」や北条氏康・氏政・北条氏直の「氏」は、通字と言って、一族で使う字です。これに対して、たとえば足利将軍が大名に自分の名の一字を与えることがあり、これを偏諱(へんき)と言います。偏諱を与えれば、お礼をするのが普通ですから、要するに金儲けの手段にもなっていたようですね。そうすると、大名の名前は通字プラス偏諱になることがよくあります。伊達尚宗・稙宗・晴宗・輝宗なんかはそうですね。輝宗の子の政宗は何代か前の先祖の名前をそのままもらったようですが。諱というのは「忌み名」ですから、本来、表に出さない名前です。日本を含め、東南アジアにはそういう考えがあったみたいで、中国では皇帝の名前の字を使ってはいけないということがよくありました。漢の劉邦の「邦」が使えなくなって「国」の字を使ったりしたんですね。都市の名前さえ変えさせられることもありました。ロシアではピョートル大帝の名前を付けたサンクト・ペテルブルクがレーニンの名前のレニングラードになって、また元にもどっていますが、大ちがいです。日本の天皇家では「仁」の字が用いられます。一般庶民がこの字を使って子供の名前をつけたら「不敬罪」ものだったようですね。

ところが、日本では武士の時代になって、主君の名の一字を与えられることが名誉になってきます。武田信玄の晴信は12代将軍の義晴から、上杉謙信の輝虎は13代義輝です。同時代の大名の名前が似ているのは、そういう理由ですね。「義」をもらった大名もいて、朝倉義景とか最上義光、島津義久・義弘、相良義陽などなど、結構います。源義家以来、「義」の字は源氏の通字でしたが、足利氏は源氏の中では傍流になっていました。それが征夷大将軍になったことで後継者意識が芽生えて、「義」の字を復活させたのかもしれません。徳川家康にしても、もともと松平元康でしたが、この「元」は当然今川義元からもらったものなので、義元が死んだ後はさっさと変えています。長男の「信康」の「信」は信長からもらったのでしょう。「秀康」は豪華ですね。実の父の家康と養父の秀吉から一字ずつもらっています。その弟の「秀忠」の「秀」も当然秀吉です。大谷吉継とか堀尾吉晴、田中吉政は「吉」のほうをもらっています。榊原康政の「康」は家康からもらったのでしょうね。江戸時代になっても島津斉彬など「家斉」からもらった名前があります。徳川家の通字は「家」ですね。結局、みんな名前が似てしまうので、どの将軍だったかなあと迷うことになります。それでもルイ何世よりはましですが。徳川家で「家」の字を使わないのは傍流の証拠で、綱吉も吉宗も慶喜も、直系ではないわけです。

織田信成は「信」の字がはいっていますが、織田家はやはり「信」の字がほしいなあ。今年の大河ドラマは「真田幸村」ですが、もとは真田信繁でした。祖父が幸隆、草刈正雄がやってる昌幸は三男で、その子が信幸・信繁ということになります。「幸村」という名前は後世の『難波戦記』の作者がつくったと言われますが、どこから来たのでしょうね。真田十勇士も同じ作者の創作です。芝居の世界と同じように、幕府からのおとがめを避けるための改名かもしれません。ゲームの世界ではイケメンという設定ですが、当然これも創作で、そんなわけねえよ、ということですな。

2016年2月 9日 (火)

おひさしぶりですパート2

突然ですが、やっぱりブログ書かなあかんなと思ったわけです。

もともとだれに頼まれたわけでもないのに自分でやりたいと言い出してはじめたブログです。待ってる人はもちろんのこと読んでる人さえいるかいないかわからないブログですが、特に伝えたいことも鋭い主張も繊細な感受性もないブログですが、わしは書く! 書くといったら書く!

というわけでわたしは帰ってきました。これからは書いて書いて書きまくる所存です。定年退職までウン年間、週に一本のペースで書き続けます。いや、それはちょっとキツいですね。年に一度にします。年に一度といえば七夕ですね、年に一度、七夕の日にアップするというのはどうでしょう、もちろん雨が降ったら中止です。

というのはもちろん冗談! わしは書きます! 週に一度は無理かもしれないが年に一度よりははるかに高い頻度で書きます! しかし! 

問題は何を書くかですよねー。突然冷静になってしまいました。書くことがないんすよねー。鋭い主張と繊細な感受性の発露を自分に禁じてしまったせいですかね。いや正直、それさえ書いて良いのであればいくらでも書けるんすよ、でも、そんなの僕らしくないじゃないですか、ね? 「ね?」とか言われても困ると思いますけどね。でもまあそうなんです! ゆえに書くことがありません!

とか強弁しててもしょうがないので、何か書きますか。

さて。

わたしのチューター生で、今年卒塾した某君は読書家です。受験勉強も佳境をむかえていた晩秋、引率中に彼が言いました。

「読む本がないので、プラトンの『国家』を読んでるねんけど、きつい。」

いや、いくらきみが読書家で国語ができるといってもそれは無理でしょ、と思った僕は、彼に本を貸してあげることにしました。ほんとうはこんな時期に受験生に本を貸すなんて塾講師にあるまじき行為なんですが、彼なら大丈夫だと思ったんですね。というかむしろ、この子なら、なまじ問題を解くよりも骨のある本を読んだ方が力がつくんじゃないかと真剣に考えたわけです。それで、筑摩書房から出ている『高校生のための文章読本』という本を貸してあげました。モーパッサンにはじまり、武満徹やら小林秀雄やら永瀬清子に淀川長治に塩野七生に・・・・・・とそうそうたる顔ぶれのアンソロジーです。しかも、一つの文章につき問題が(それも相当キツいのが)一問ずつついており、異様にくわしい解答まで別冊でついています。え? 小学生に『高校生のための』本を貸すなんて無茶だ? 何をおっしゃいますやら、この本は、私が大学の教養部生のときに買った本ですが、当時、問題が難しすぎて手も足も出なかった本なんですぞ。え? ますますひどい。そのとおり! でも、彼なら何とか読めるんじゃないかと思ったんですよね。もちろん問題はまともに解けるわけがないけど、解答を読むだけでも勉強になるはずだし・・・・・・と思いました。

先日、会ったときにおいしいチョコレート付きで本を返してくれましたが(ぼろい本を貸しただけなのに申し訳ないというかラッキーというか)、

「今何読んでるの?」

と訊くと、彼の取りだした本が、埴谷雄高の『闇の中の黒い馬』。

だから、背伸びし過ぎなんだってば!

背伸びして難しい本を読みたくなる年頃ってあるんですけど、彼の場合はふつうよりだいぶ早いようですね。でもいくらなんでもキツいと思うなあ。しかし、同じ埴谷雄高でも『永久革命者の悲哀』じゃなくて良かったぜ、と思う私でありました。

さて、某君、埴谷雄高を読むなら、『虚空』とかどうでしょう。で、『虚空』を読んだら、その勢いでポーの『メエルシュトレエムに呑まれて』を読みましょう! 並べて読むとなかなか感慨深いんじゃないかと思いますよ~。でも、キミにお勧めなのは、福永武彦の『死の島』。なぜお勧めかといわれても困りますが、何となくきっと気に入ってくれるのではないかと思います! 何なら貸してあげるぜ!

(以上は2/8に書いたもので、以下は2/9の加筆です)

ちょっと付け足します。

福永武彦の『死の島』を僕が読んだのは高校一年になる直前の春休みでした。特に憧れていなかった第3志望ぐらいの公立高校に合格してやれやれとひと息つき、九州に旅行したときに持って行ったんです。長崎の片田舎に祖母が(だいぶ前にこのブログに書いたことがありますが、銭湯から帰るときに上半身はだかで帰ってくるワイルドな人で、ご近所さんに恐れおののかれていました)住んでおり、そこをねぐらにして雲仙とか阿蘇とかひとりで観光して回るあいだに読んでしまいました。当時の日本の小説としてはわりと前衛的な手法も使われていてびっくりしましたが、なんせおもしろかった。それからしばらくは福永武彦ばかり読んでいました。解説に、「死の島」というのは「広島」のことで、「しのしま」と「ひろしま」で韻を踏んでいるのだと書いてあり、「韻」というものを理解していなかった僕は「駄洒落じゃん!」と失礼なことを思ったりしていました。

そういえば、「しのしま」という表現はべつの物語にも出てきました。斎藤惇夫さんの『ガンバとカワウソの冒険』です。「四の島」に四十万の支流をもつ川があって・・・・・・という設定ですが、つまり「四国」で「四万十川」ですよね。そこでガンバたちが追いつめられ「四の島」が「死の島」に・・・・・・というような話だった気がします。すみません、読んだのが相当昔なので記憶がさだかではありません。

坂東眞砂子さんの『死国』も「四国」をもじったものでしたね。八十八カ所を逆に回るとおそろしいことが・・・・・・みたいな話じゃなかったでしたっけ。

坂東眞砂子さんの随筆は灘コースの志望校別特訓のテキストに入っています。台風が好きだ~という内容の随筆なんですが、ホラー作家ならではの表現上の工夫が随所に見られ、書き手がどんなことを考えてどんな書き方をするのかということを考えさせるための教材としてとても良いのです。福永武彦さんの文章は使っていませんが、池澤夏樹さん(福永武彦さんのご子息)の文章は灘中の入試で出題されたことがあるし、僕もプレ灘中入試で出題したことがあります。坂東眞砂子さんにしろ池澤夏樹さんにしろ、よくよく考えて上手に書かれた文章は授業をしていてもやりがいがありますね。

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