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2016年4月の2件の記事

2016年4月24日 (日)

左卜全という人もいました

聖徳太子が隋の煬帝に出した有名な手紙がありますが、あれは聖徳太子が中国語で書いたのか、日本語でしゃべったことをだれかが翻訳して書いたのか。当時の知識人は文章語としては中国語を使っていたのでしょう。読んだり書いたりはできたかもしれませんが、話せたのでしょうか。遣唐使として中国に渡った人は、まず中国語を勉強していったのでしょうか。駅前留学みたいな中国語会話の教室があったのかなあ。逆に、鑑真は日本語が話せるようになったのでしょうか。こういうのは記録が残っていないのですかね。

幕末の西郷隆盛と桂小五郎はどういうことばで会話をしたのでしょうか。桂は江戸の三大道場の一つ、練兵館で修行をして塾頭となっていますから、江戸のことばが理解できたはずです。でも、西郷はそうではないので、おそらく文章語を話しことばとして使ったのでしょう。手紙の候文や謡曲などで使われることばをベースとした「侍言葉」みたいなものがあったのかもしれません。大河ドラマでよくやっているように方言を交えることは、西郷隆盛でもしなかったのではないか。もちろん、会津の下級武士などは訛りがひどかったでしょうが、それでもなんとか意味は通じたはずです。では、一般庶民同士ならばどうだったのでしょうか。不便なことが多かったにちがいありません。そこで、共通語の必要性が出てきたわけです。

いまは共通語の影響を受けて、方言もどんどん「共通語化」しつつあります。純粋な鹿児島弁を理解できない、若い人たちも出てきています。「強い方言」である大阪弁にしても、どこまでが大阪弁になるのでしょう。落語の中に出てくるようなことばを今どき使う人はいません。「何言うてまんねん」とか「そんなもん、おますかいな」とか言うと変人あつかいされます。いわゆるオチケンの大学生などが、たまにコテコテの大阪弁を使ってたりしますが、プロのはなし家でも、いまは共通語化された大阪弁ですね。大阪出身とはかぎらないので、アクセントなどちょっと変な落語家もいます。

江戸落語の三遊亭圓生の大阪弁はさすがにうまかった。大阪生まれだったので、当然と言えば当然ですが、船場言葉と庶民の言葉も使い分けられたし、京都弁ともちがえていました。天才タイプの古今亭志ん生でも、大阪弁はだめでした。むこうのハナシの中に大阪の人間が登場するものがあるのですが、その部分の大阪弁のイントネーションがどうしても不自然になってしまいます。息子の志ん朝でも、やはり大阪弁はできませんでした。さすがに圓生です。本来、人間国宝になってもおかしくなかったんですがね。米朝ならともかく、小さんが人間国宝って、なんで?と思いました。三枝改め文枝がこのまま行けば人間国宝だったのに、つまらないことで逃した、と言っている人もいましたが、それも「へ?」ですね。落語家としての格が圓生とは比べものになりません。ただ、圓生さん、「どうだ、オレはうまいだろ」というのが感じられて鼻につくこともたまにありました。事実、うまいので仕方がないのですが。亡くなったときは、新聞に大ニュースとして載るはずだったのに、同じ日に上野動物園のパンダのランランが死んでしまい、そちらの方が大きく取り上げられたというのは残念至極。圓生を襲名するかどうかで、弟子たちの間でもめていましたが、その後どうなったのか。いずれにせよ、圓生を名乗るのもおこがましい、という感じがします。

圓生以上に襲名するのも恐れ多いのが圓朝です。春風亭小朝に襲名の話があったけど、さすがに辞退したとか。当然のことながら、圓朝のハナシをじかに聞いた者などいません。どれだけすごかったか、ということが「伝説」になって残ってゆくのですね。「天井から血がぽたり」と言った瞬間、客がみな思わず寄席の天井を見上げたとか、話が進むにつれて、怖さのあまり、みんなが身を寄せ合ってしまい、客席の四隅が空いてしまったとか。こういう「伝説」は伝わるうちに、だんだんと誇張されていくこともありそうです。たとえば、すごい力持ちで、こんなものを持ち上げた、というような話が、はじめはそんな重いものをよく持ち上げたなあのレベルだったのが、それは無理やろと思うようなものを持ち上げる話になっていくとか。平家物語の「ひよどりごえ」の逆落としの場面で、畠山重忠が愛馬三日月を傷つけまいと思って、馬を背負って駆け下りた、という話があります。競馬で乗るサラブレッドは450キロぐらいなので、これは無理でしょう。重量挙げの記録でも250キロぐらいです。ただし、サラブレッドは源平時代にはいません。大河ドラマの合戦シーンに出てくる馬はサラブレッドではないかもしれませんが、当時の大きさではないでしょう。日本本来の馬はもう少し小さかったようです。ただ、それでも250キロぐらいはあったので、それをかついで崖を走り降りるというのは相当すごい。

この前、テレビで、コンビニの床に足をつけずに買い物をして、マンションの3階まで届けるというのをやっていました。いくつもの突起物がついた壁を登っていくスポーツがありますね。あれのチャンピオンの女の人がチャレンジしたのですが、それは見事なものでした。指の力、腕の力、背筋の力などをフルに使って、スパイダーマンのように動いてました。まさに「伝説」になってもおかしくないような技でしたが、いまはテレビだからそのまま残っていきます。でも、昔のものは映像もなく、話だけなので、伝えるうちに、少しずつ脚色されていくこともあるでしょう。

NHKで堺雅人が演じた剣の達人塚原卜伝にはいろいろなエピソードがあります。生涯、二百人以上を倒しながらも、一度も負けず、傷一つ受けなかった、というのからして、ほんまかいなと思います。卜伝が琵琶湖で船に乗っていたところ、乗り合わせた武士に勝負を挑まれた、という話があります。小さな島が見えたので、そこで勝負しようということになって、武士は島に飛び降りました。卜伝は船頭から棹を借りて岸を突き、武士を島に残して去っていったという、無駄な争いをしなかったというエピソードも有名です。灘中の入試にも出ました。馬に蹴られないようにするため、わざわざ馬の後ろを避けて通ったという話もあります。このへんの話なら、あっても不思議ではありませんが、卜伝といえば、もっと有名な話があります。宮本武蔵が後ろから斬りかかったところ、卜伝が振り返って鍋の蓋で受ける、という、昔ドリフターズのコントで、志村けんと加藤茶が「修行が足りんわ」とか言って、むこうずねに木刀をあててたやつです。でも、武蔵と卜伝ではまったく時代がちがいます。だれかが武蔵と卜伝が勝負したらおもしろいぞと思って作ったんですね。無責任なおもしろがりです。

2016年4月10日 (日)

本がブックブックと沈む

前回「大リーグのマスコット」と書きましたが、この「大リーグ」ということばも死語になりつつあるのでしょうか。最近では 「メジャーリーグ」またはその省略形の「メジャー」という言い方しか聞かなくなりました。そのほうがおしゃれなのですかね。ところで、majorの発音は「メイジャー」のほうが近いはずです。「チーム」を「ティーム」と発音する、いたいアナウンサーでも、「メジャー」と言って「メイジャー」と言わないのはなぜでしょう。「メジャー」は昔は巻き尺の意味でしか使わなかったのに、いつのまにか「大きい」とか「数が多い」の意味で使われるようになりましたが、実は、さらに発音も平板化しているようです。巻き尺のときは「メ」にアクセントが置かれていましたが、いまのプロ野球の選手がアメリカに行きたいという意味で「メジャー」と言うときには、ダラーとした平板な発音になっています。

よくまちがわれる外来語(日本語として定着してはじめて外来語と言えるのでまだ「英語」と言うべきかもしれませんが)に、「スイート」というのがあります。もちろん「甘い」の意味で、日本語の中に無理矢理はめこんで使っていました。だいたい形容詞は外来語としては使いにくいのですね。いつのまにか「スイーツ」ということばも使われるようになり、これは「甘いお菓子」という意味のようです。さて、問題はホテルの「スイートルーム」の「スイート」です。これが「甘い」のsweetではなく、suiteと書き、「一揃い」という意味であることはけっこう知られています。要するに、寝室だけでなくリビングや応接間などがそろった部屋ということですが、新婚カップルが宿泊するための部屋だからsweetだと思っていた人が昔は多かったんですね。日本語には同音異義語が多いのですが、英語にもあります。

発音に関して言うと、「ベッド」を「ベット」だと思っていた人も多かったようです。「ベット」はドイツ語から来た可能性もありますが、おそらく「ド」で終わる単語が日本語では少ないために、「ト」の発音に変わったのではないでしょうか。「ティーバッグ」もいろいろなところで取り上げられていましたね。「バッグ」をまちがえて「パック」と言っている場合もありましたし、紅茶の紐付きの「ティーバッグ」とちがって、麦茶なんかのはいった紐なしのやつは「ティーパック」と言うんだ、とか。女性用の下着に「Tバック」というのも存在しました。ただ、老人は濁音より半濁音を好むのか、「ビートたけし」も最初のころは「ピートたけし」と言う人もいました。濁音そのものは日本語に存在するのですが、あまり好まれなかったのか、「山崎」や「中島」という苗字は西日本では濁らずに「やまさき」「なかしま」と言う、というのをこの前テレビでやってました。たしかに、「高田」はふつう「たかだ」ですが、ジャパネット「たかた」は九州です。ただ、東日本の訛りという問題があります。茨城県の人が、「茨城」は「いばらぎ」ではなく、「いばらき」が正しいと言うのですが、その発音がどちらも「えばらぎ」にしか聞こえません。「き」のつもりでも結局は濁ってしまうのですね。

濁るか濁らないかについては、その前の音によって決まる場合もあります。「一本」は「ぽん」、二本は「ほん」、「三本」は「ぼん」なので、促音「っ」のあとは「ぽ」、撥音「ん」のあとは「ぼ」になりそうですが、「四本」は「よんほん」になって、規則性がないように見えます。実は、「よん」は訓読みなので、他と条件がちがうのですね。「匹」「階」も「三」と「四」で変わってくるのはそういう理由です。ただ、そうすると、では、なぜ「四」は音読みしないのかという問題が起こってきます。たしかに「しほん」ならまだしも「しひき」「しかい」はわかりにくい。「死」につながるのだから避けたのだという説もあるようで、「九」も「く」が「苦」につながるので避けるのだとか。でも、「一二三…」と順に言うときの「四」は「し」で、「十九八…」と降りてくるときには「よん」になるということの説明にはなりません。

「一二三四…」を「ひいふうみいよう…」と読むときもあります。「一」とその倍の「二」が「ひい」と「ふう」、「三」と「六」が「みい」と「むう」、「四」と「八」が「よう」と「やあ」になって、それぞれ同じ行になるのは偶然か、なにか規則性があるのか。日本語と英語の単語が似ていても、それは偶然だろうとふつうは思います。「名前」と「ネーム」、「坊や」と「ボーイ」が似てると言われても、ああそうですか、と言うしかありません。「グッド・スリーピング」と「ぐっすり」とか、「ケンネル」は「犬寝る」で「犬小屋」だとか、「ナンバー」は「なんぼ」と似てるなんてのは、こじつけにすぎないし、ディクショナリーは「字引く書なり」、とか「石がストーンと落ちた」なんてのは単なるだじゃれです。「ブック・キーピング」を「簿記」、「シグナル」を「信号」としたのは音を意識して、日本語に訳したのだとも言われます。

いずれにせよ、日本語と英語では、系統的に見ても異なる言語ですが、古代の日本語と朝鮮語のレベルならどうなのでしょうか。同系統のことばだったのか、交流があったことからことばの行き来もあったのか。「ワッショイ」の語源は古代朝鮮語の「ワッソ」だというのも、否定的な見解がありますが、なんらかの関係があってもおかしくないような。ただ、古代朝鮮語自体がよくわからないようですね。今の韓国語では「国」という意味で「ナラ」と言いますが、だからと言って「奈良」と結びつくのか。韓国語で「母」は「オモニ」ですが、日本語の「母」も「母屋」のときは「おも」と読みます。偶然なのか、なんらかの理由があるのか。

聖徳太子の家庭教師は高句麗からやってきた恵慈という坊さんですが、二人は何語で話していたのでしょうね。恵慈は当然「高句麗語」でしょうから、聖徳太子は高句麗語を話せたのか。通訳を介してということはないでしょう。坂口安吾は聖徳太子は高句麗系だと言っていましたが、法隆寺の壁画を描いた曇徴はたしかに高句麗から来ています。でも、法隆寺には百済観音があるし、聖徳太子からもらった弥勒菩薩像で有名な広隆寺を氏寺本がブックブックと沈むとする秦河勝は新羅系だと言われています。新羅・百済・高句麗のことばと日本語はどういう関係だったのでしょうか。司馬遼太郎だったか、そのころはゆっくりと大声で話せば通じたとか乱暴なことを言っている人がいましたが、意外にそんな感じだったかもしれません。スペイン語とポルトガル語のちがいは、関東と関西の方言ぐらいの差だとよく言われます。そんなレベルだったのかなあ。

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