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2016年8月の2件の記事

2016年8月22日 (月)

大阪や東京だ

前回はどんどん話題が変わってしまいましたが、「新しい」ということばは昔は「あらたし」と言いました。「あたらし」は「惜しい」という意味の別のことばで、いまでも「あたらチャンスをつぶす」という形で使います。それに対してニューの状態は「あらたに」なったわけですから「あらたし」です。それがいつの間にかゴッチャになって入れ替わってしまったんですね。問題はその「いつの間にか」です。いつ変わったのでしょうか。その境目では、両方使われていたのでしょうか。「ナウい」という「はやりことば」がしぶとく生き残って、これは定着するだろう、辞書にも載りだしたし…と思っていたら、「いつの間にか」消えていました。一方辞書には「ニコポン」ということばがまだ載っているのはなぜなんでしょうね。

最近よく聞くことばに「ほぼほぼ」というのがあります。「ほぼ」で十分なのに、二回繰り返して強調することで、何らかの意味の変化があるのでしょうか。「ほぼ」と「ほぼほぼ」はどう違うのでしょうか。「ほぼ」より確実度が高い? 昔から全く使われていなかったというわけでもなさそうですが、それにしてもこのところ急激に聞くようになりました。最初に聞いたのはテレビの画面から聞こえてきたものでしたが、身の回りでもよく聞きます。テレビから出てきたことばであるのなら「業界語」であり、シロートさんが真似をしていることになります。プラスの意味で使う「やばい」と同じですね。谷九教室に向かう電車の中でも、おばさん同士の(大声の)会話の中で「ほぼほぼ」と言っているのを聞き、「流行語大賞」にはこういうことばがふさわしいのでは、と思いました。誰かの思惑が感じられるような、政治がかった(全く流行ってもいない)ことばよりも、「ほぼほぼ」こそ、真に流行していることばです。

大阪のおばちゃんたちの「ほぼほぼ」を聞いたあと、谷九教室で事務のK本さんと話していると、なんたる偶然、「『ほぼほぼ』ってどうよ?」と言われました。もちろん、こんなギョーカイ人のような言い方はしませんが。かなり抵抗を感じているようで、ここに同志ありと嬉しく感じました。ことばに敏感な人はやはりこういう変化をキャッチしているのですね。ちなみに谷九教室の主任講師のO村先生も、このことばは使わないそうです。さすが漫才好きだけあって、ことばの感覚が鋭い、と思いきや、合格祝賀会では自ら漫才をやるくせに滑舌が悪く、「ぼ」の音が「も」になってしまうとか。その発音ではたしかに「やばすぎ」ですな。

もう一つ、最近よく見聞きするものに、「プライベートの名詞化」というのがあります。本来「プライベート」は形容動詞、「プライバシー」は名詞として使い分けていたはずなのに、「仕事とプライベートを区別する」のように、「私生活」とか「私事」の意味で名詞的に用いるようになってきました。ちなみに朝日新聞にも「プライベートを上司に相談する」とか、「マリリン・モンローの晩年のプライベートは質素で…」とか書かれていました。たしかに「プライバシー」は「個人の秘密」というニュアンスが強いので、「秘密」まで行かない「私生活」のレベルでは使いにくいようです。「デリカシー」と「デリケート」がきちんと使い分けられているのも、そういうニュアンスがないからかもしれません。

ところで「プライベート」や「デリケート」は、英語では「形容詞」と呼びます。「ビューティフル」なら、英語でも日本語でも「形容詞」なので、なんの問題もないのですが、日本語になおしたときに「…だ」の形になってしまうと、形容動詞という扱いになるのですね。「私ってデリケートな人だから」とか「私ってデリケートじゃないですか」とか、自分が知っていることは他人も知ってると思ってしまう「幼児化現象」が一時期大はやりでしたな。それはさておき、この形容動詞というのは厄介なことばです。「静かだ」は形容動詞で、「本だ」は名詞と断定の助動詞ということになります。「個人的だ」とか「微妙だ」も形容動詞だし、「ハンサムだ」「スマートだ」も形容動詞です。上に「とても」をのせると簡単に区別できます。「とても」は副詞で、用言(動詞・形容詞・形容動詞)を修飾するのですね。それに対して「とても本だ」がおかしいのは「本」が名詞だからです。

では、「健康だ」はどっちでしょうか。これは実は、このことばだけではわかりません。「彼は健康だ」という場合は「とても」を入れられるので形容動詞、「大切なのは健康だ」は「とても」を入れられないので名詞プラス断定の助動詞なのです。ではでは、「アホだ」はどうでしょう? 「彼は正真正銘のアホだ」は「の」が体言(名詞)を修飾する働きがあるので、名詞プラス断定ですが、「彼はアホだ」は? 「とても」をのせて意味が通じるので形容動詞? いえいえ、「正真正銘の」をとっぱらっただけですよ。さらに「彼は天才だ」は? 実に微妙ですね。だから形容動詞なんて認めない、という学者も多いそうです。

要するに「…だ」の形が問題なのですね。この「だ」はさかのぼれば、おそらく「…にてあり」でしょう。「本にてあり」つまり「本だ」と言っているわけですから。で、いい加減に発音するうちに「にてあり」の「に」が「ん」に変化します。「んてあり」ですが、「ん」は影響力が強くて下を濁らせるので「んであり」になり、やがて「ん」が落ちて「であり」。これがそのまま「である」にもなるし、「り」が落ちて「であ」になることもある。「であ」はさらに「ぢゃ」と変化して、ここで止まれば、じいさんばあさんのことばじゃ。さて、こいつが母音を重んじる上方では「や」が強く発音されようになるんや。田舎の関東では子音に力を入れて「ぢゃ」が「だ」になるんだ。

「ぢゃ」のような「ゃ・ゅ・ょ」のつく音を拗音と言いますが、拗音「ぢゃ」が「だ」のようになる「直音化」というのはよくあります。逆に「鮭」は「さけ」から「しゃけ」に訛ったのかもしれません。「雑魚」は「ざこ」と読みますが、「じゃこ」と同じですね。ただし、「だしじゃこ」「ちりめんじゃこ」とは言いますが、「だしざこ」「ちりめんざこ」とは言いません。「ざこキャラ」とは言いますが、「じゃこキャラ」とは言いません。「ざこ」も「じゃこ」も「小魚」とか「商品価値の低い魚」という意味でしょうが、「たいした人物ではない人」の意味で使うときには「ざこ」に限定されるようです。「モブキャラ」は、「群衆状態になったキャラ」ということで、ちょっとちがいますかね。

2016年8月 7日 (日)

変わる変わるよ話題は変わる

ほめることのないときのほめことばというか、短所が目につくとき、それを無理矢理長所として言いかえることがあります。地味すぎる服装を見て、「なかなかしぶいねえ」と言ったり、センスないなあと思うときに、「個性的な服装やねえ」と言ったりするようなやつです。性質でも、無愛想な人を「クール」と言ってみたり、頑固な人を「意志が固い」と言ってみたりすることもあります。「マザコン」と言ってしまえば身も蓋もありませんが、「母親思い」と言えば、とたんに感じよく聞こえます。「うるさく騒ぎまくる」子供も「なかなか元気があってよろしい」。「主体性がない」人は「協調性がある」わけですし、「能力がない」やつは「可能性を秘めている」のです。「下手な絵」ではなく「味のある絵」ですし、「ありがちな展開」のドラマは「王道」を行っており、「行き当たりばったり」は「臨機応変」です。「うさんくさい」人は「謎めいている」し、「無名」の作家は「知る人ぞ知る」です。「デブ」と言わずに「かっぷくがいい」と言いましょう。「腐った」ご飯は「熟成された」ご飯です。まあ、長所はうぬぼれると短所になり、短所は自覚すると長所になるわけで、表裏一体、結局は同じことです。プラスの表現をされれば、言われた本人はまんざらでもないでしょうし、お世辞とわかっていてもうれしくなるのが人間の常です。

いま「お世辞」と書きましたが、これは「おせじ」と読むのでしょうか。それとも「おせいじ」? 「世」の音読みとしてはたしかに「セ」と「セイ」があり、いわゆる呉音・漢音・唐音のちがいでしょう。要するに、時代によって発音が変わった、というやつで、いつ日本に入ってきたことばかということで区別するのでしょう。ふつう「お世辞」は「おせじ」のはずですが、たまに「おせいじ」と言う人がいます。郷ひろみは「けっしておせーじじゃないぜ」と歌っていました(古い!)。メロディの都合で長く伸ばしただけかもしれませんが。伸ばすかどうかで別の単語になるというのは英語にはないのでしょうか。「地図」と「チーズ」は日本語としては明らかにちがうもので、ちがう発音をしているつもりになっていますが、日本語を習いたてのアメリカ人なら、「地図」を「チーズ」のように発音するかもしれません。「角」と「カード」はちがいますし、「蔵」と「クーラー」もちがいます。もちろん外来語でなくても、「鳥」と「通り」は明らかにちがいます。「長音」という概念は英語にはあまりないのかなあ。発音記号で長く伸ばすというのは確かにありますが、「コンピューター」も「コンピュータ」のほうが発音に近いようです。最後の長音の表記がなくなったのは、昔のパソコンのスペックの低さのせいだとは必ずしも言えないかもしれません。一音のことばなら、関西人は長音化して、「目ェ」「手ェ」「毛ェ」と言うのですがね。

外国人の中にも、日本語の達者な人がいます。アーネスト・サトウは佐藤愛之助と名乗ったりもしていますが、れっきとしたイギリス人の外交官です。幕末史にはよく登場してくる有名な人物ですが、日本語がうまいですねと言われたときに、「おだてともっこにゃ乗りたくねえ」と江戸っ子口調で言ったとか。「もっこ」と言うのは縄や蔓を編んで作った、土を運ぶための道具ですが、死刑囚を刑場まで運ぶときにも乗せていったとか。「そうであるなら、なるほど、もっこにゃ乗りたくない」と三遊亭圓生が言っていました。ただ、アーネスト・サトウの発音がどれだけ流暢だったかは今となってはわかりません。デイブ・スペクターのほうがうまいかもしれない。

長年、日本に住んでいたり、何十年も日本語を話しているわりに、いつまでたっても発音がうまくならない人もいます。フランソワーズ・モレシャンなんて人は、外人タレントの走りでしたが、いかにもフランス人の話す日本語という感じでした。アグネス・チャンも片言っぽいですね。ひょっとしたら、二人とも本当はなめらか極まりない日本語が話せるのに、わざと「下手」をよそおっているのかもしれません。日本人は外国人が話す「片言の日本語」が好きなんですね。「完璧を好まない」という独特の美意識もあるでしょうし、「外人に日本文化がわかってたまるか」という「優越感と劣等感」もあるのでしょう。流暢すぎる日本語を操ったり、日本語のダジャレを言ったりしたら白けてしまいます。だから、デイブ・スペクターは嫌われるのですな。

もともと日本人は日本文化を世界に類を見ない独特のものだと思いたがる傾向が強いようです。たしかにコピーよりオリジナルのほうがいいに決まってはいますが、でも日本文化と言っても多種多様です。関西と関東でちがうし、京都と大阪でもちがう。もっと言えば、自分の家の流儀ととなりの家の流儀とではちがうことがあります。自分の家のやり方が世間一般だと思っていて、じつはそうではないことに気づいたときの恥ずかしさ、というのがよく話題になるぐらいです。すき焼きなんてのは家ごとにちがっていると言ってもよいかもしれません。納豆といえば、関西人のきらう最たるものでしたが、このごろでは納豆好きの関西人も多くなっています。子供のころ初めて食べた納豆には砂糖がはいっていましたが、あれは子供向きに母親がそうしたのでしょう。ということで、私はしばらくの間、納豆には砂糖を入れるものだと思い込んでいました。そのうちに唐辛子を入れるとうまいことに気づいたのですが、いやいや唐辛子ではなく、辛子でしょ、と言う人もいます。ひょっとしたらタバスコが一番と言う人もいるかもしれません。豆腐には醤油ではなく塩をかける人もいますし、ごま油と塩という人もいます。オリーブオイルに塩という、おしゃれな人もいます。

納豆と豆腐は入れ替わったという説がありますね。納豆のほうが豆の腐ったやつで、豆腐は豆をかためたやつですから、名前は確かに入れ替わっています。松虫と鈴虫もいつのまにか入れ替わったと言われています。「秋の野に人まつ虫の声すなり我かと行きていざとぶらはむ」という、よみ人しらずの和歌では、「ひとを待つ」と「松虫」の掛詞が使われていますが、この「松虫」は「鈴虫」だったということになります。でも、鈴虫は鈴の音のような鳴き声だから鈴虫と言うはずです。「あれ松虫が鳴いているチンチロチンチロチンチロリン、あれ鈴虫も鳴き出したリンリンリンリンリーンリン」という歌もありますが、どちらの音も鈴といえは鈴です。どんぶり鉢にサイコロをほうりこむ博打も「チンチロリン」と言いますが、これは関係ないか。いずれにせよ、入れ替わったのならそれはいつごろなのでしょうか。ある日を境にすぱっと入れ替わるわけではないでしょうから、入れ替わる境目のあたりでは両方の言い方が混在していたのでしょうか。どっちをさしているか曖昧で話が通じないということもあったかもしれません。まあ、松虫と鈴虫がそんなに話題に出てくるとも思えませんが。

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