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2018年2月の2件の記事

2018年2月25日 (日)

クマと私

はーるばるーきたぜー函館~。

函館とは何の関係もありませんが、入試が一段落したので、何か少しでものんびりしたことがしたい!と思い、家でゆっくりDVDを観ました。何年も前に買ったきり本棚に眠ってるのがいくつもあって、いつもちらちら横目でタイトルだけ眺めては、「うーむ」と唸っているのです。今回観たのは『蜂の旅人』というギリシャ映画で、アンゲロプロス監督の作品ですが、希学園には知っている人があまりいないと思われます(知っているのは国語科の齋藤先生だけかもしれません。この人はけっこう映画を観ていて、以前に私が「タイだかベトナムだかの『光りの墓』って映画観たかったんだけどとっくの昔に上映終わってたわ~」と愚痴ったら、「ブルーレイ持ってますよ~」なんて言って貸してくれました。かっこいいですね。甲田直美の本を持っていったきりなかなか返してくれなかったトミー・スマイリー氏とは大違いです。『光りの墓』というのは、タイのアピチャッポン=ウィーラセタクン監督の作品ですが、この監督の名前がなかなか覚えられなくて苦労しました。でもとにかくなかなか良い映画でした。だいたい題がいい。思わず観たくなる題です。こういう題の映画は良いと相場が決まっているのです。話がそれまくってますね、『蜂の旅人』の話でした)。主演はマルチェロ=マストロヤンニで、この人はアンゲロプロスの『こうのとり、たちずさんで』にも主演しています。たくさんの映画に出演されていますが、映画に詳しくないのであまり知りません。エットーレ=スコラの『マカロニ』に出ていたのは覚えています。これもおもしろかったなあ。泣けました。エットーレ=スコラを知っている人がこのブログの読者にどのくらいいるのかわかりませんが(もしご存知の方がいらっしゃれば何かの機会にぜひ声をおかけくだされ)、いい監督だと思うんです。はじめて観たのは高校生のときで、『バッション・ダモーレ』という映画でした。いろんな見方があり、いろんな感想をお持ちの方がいらっしゃると思いますが、私は悲しい映画だと思いました。です。主人公のイケメンの将校(ベルナール=ジロドー、ダニエル=シュミットの『ヘカテ』に出ていた二枚目ですな)が、骸骨みたいな顔の女性(上官である大佐の姪)に恋されて往生するという筋立てで、私が語るとまったく悲しい感じがしませんが、悲しいんです。この悲しさをきちんと説明できない自分が残念です。わかってくれる人と語り合いたいと熱望しているんですが、そんな人とは会ったことがありません。それはともかく、ええと、『蜂の旅人』の話でした。音楽はいつものエレニ=カラインドルーで、サックスはやはりヤン=ガルバレクが演奏していました。一時期ガルバレクにはまってよく聴いていましたが、カラインドルーとのコンビが一番いい気がします。ああいう、とりとめのない感じの曲が好きなのですが、ガルバレクが自分でやっているときは、けっこう俗っぽい、安っぽいポップさが前面に出てしまうことがあって、ちょっと不満です。

さて、私がどんな映画や音楽が好きかなんてどうでもいいですね。でもとにかく映画はいい!ですねえ。ぜひ子どもたちにも映画を見せたいなあと思います。子どもたちというのは、すなわち塾生ですね。あるいは今後塾生になるかもしれないお子たち。これは国語的見地です。みんな勉強のし過ぎじゃないでしょうか。いや、させているのは私らなんですが。受験学年になるとなかなか難しいけれど、小2~小5にはぜひ見せてあげたい。問題は何を見せるかですが、上述したように私も映画に詳しいわけではないので、ぱっと思いつきません。観てついていける映画は学年によってちがうと思うので、そんなことも含めて研究が必要ですね。それこそ小5だったら『マカロニ』ぐらい観てほしいところですが、低学年には不可能でしょうね。チャップリンの『独裁者』は無理でも、『キッド』ならどうでしょう。映画ではありませんが、NHKでやっている『超入門!落語ザ・ムービー』でしたっけ、これなんていいなあと思っています。NHKはいいですよ~。『歴史にドキリ』もいいですね。社会を選択していない人ほど見てほしいと思います。常識のない子は文章読めないですからね。

前回(はるか昔ですが)のブログ記事をアップした後、希学園の某職員から、「ブログ見ましたよ」と声をかけられました。ほめてくれるのかと思ったら、「クマが出てこないとつまんないですね」とのことでした。それで、よしわかった、クマについて書いてやろうじゃないかと思って書き始めたのですが、構成ミスによりクマの話にたどりつく前に力つきてしまいました。というか、よく考えたら、もはやクマについて書くことは何も残っていないのでした。そうそうクマに遭うことないですからね。

2018年2月 6日 (火)

三谷センセイはさすが

長いこと書いていませんでしたが、読み返すと「思い込み」について書いていたようですね。で、話を「思い込み」にもどすと、思い込みを裏切られる快感というのも存在します。期待を外されてしまいながらも、「そういうことか」という「発見の喜び」があります。推理小説の意外な犯人というのもそうですし、トリックを見破れずに、まんまとひっかかったりするのも楽しいものです。

クイズでもよくありますね。たとえば、生年月日も同じで、顔もそっくり、名字までいっしょという2人に「ふたごか」とたずねると、そうではないと言う。なぜでしょう、という問題です。答えはみつごのうちの2人だった、というもの。あるいは、交通事故にあった見知らぬ子供を助けて、病院に連れて行ったら、「なんということだ、これは私の息子だ」と医者が言った。子供は意識があるので、「この人はおとうさんか」と聞くと「ちがう」と言う。なぜか。答えは、お母さんだった、というもの。こういう場面では、なんとなく男の医者を想像してしまうものですが、女医であっても不自然ではないはずです。これも思い込みですね。でも、いじわるクイズとはちがって、答えを聞いたときに、なるほど、と思います。「スッキリ!」と言って、ボールを投げ込みたくなります。何のこっちゃわからん人も多いと思いますが。

答えを聞いたら快感というのは、視点を変えたり、発想の転換をしたりすることで解決策が見えてくるからですね。トイレの消臭剤というのがありますが、私はあれが気にくわない。あれは、匂い消しではないのですね。妙に甘ったるい匂いで、トイレにこもった匂いをごまかそうとしているのですが、なんというか、「甘ったるいウ○コの匂い」になってしまうのですね。強烈な匂いを、より強烈な匂いで消そう、という発想では解決できないのではないか。匂いの成分はインドールとかスカトールというやつですから、こいつらと化学反応させて別の無臭の物質(もちろん無毒でなければなりませんな)に変えてしまうような消臭剤というのが開発できないのでしょうか。これぐらいのことはだれでも思いつきそうなので、すでに開発済みなのかもしれませんが…。「上書き」ではなく、別物にすることで匂いを消す、というのは「発想の転換」なのですがね。

発想の転換どころか、逆転の発想というのもありますね。落語の『地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)』の中で、三途の川をわたる途中、「川にはまるなよ」と注意される場面があります。そこのせりふが「おぼれたら生きるぞ」というやつ。ジワジワとおもしろい。『煮売屋』という落語の中でも、店の主が売っている酒について説明するところがあります。「村さめ」「庭さめ」「じきさめ」という酒で、その店で飲むとホロッと酔いが回って何ともいえない気持ちになるのですが、村を出外れるころにさめるので「村さめ」、店で飲んで庭へ出るとさめるのが「庭さめ」、飲んでる尻からさめるのが「じきさめ」。「酒の中に水を混ぜるんやろ」と言われて、主は「そんなことしやせん、水の中へ酒混ぜます」「水くさい酒やなあ」「酒くさい水です」。

イヌイットに冷蔵庫を売る方法というのもありました。北極に住んでいて天然の冷凍庫を持っている彼らに、「凍らないから食材をおいしく保てます」と言って売るという有名な話です。アフリカに靴を売りに行くセールスマンという話もありました。そのころのアフリカでは誰も靴をはいておらず、はだしで歩いていたという設定です。二人のセールスマンが、それぞれ自分の会社に報告をするのですが、一人は「みんなはだしなので、アフリカには靴のニーズがありません」、もう一人は「みんなはだしなので、アフリカは大きなマーケットになります。ビッグチャンスです」と言った、という話。酒飲みが飲みかけでおいたままの酒ビンを発見して、「ああ、もう半分しか残っていない」ととらえるか、「やった、まだ半分残っている」ととらえるか、というのもありました。これはどちらに焦点をあてるかということで、老婆に見えるか若い娘に見えるかというような「だまし絵」もそうですね。

同じ条件でもどちら側から見るかによって、大きく印象が変わっていきます。幕末史など、その典型かもしれません。会津方から見るか、朝廷側、薩長側から見るか。推理小説でも、探偵側からではなく、犯人の側の視点に立つ「倒叙型」のストーリーもあります。「刑事コロンボ」とか、コロンボを真似た「古畑任三郎」とかですね。3分の1は、1を3等分したものなのか、3つに分けたうちの1つと見るのか。0は何もないということを意味するのか、0という状態が存在しているということを意味するのか。あるいは0はすべてがなくなったのか、それともこれから何かが生まれるのか。解釈次第で変わるのなら、プラスになる方向でとらえたいですね。ただし、プラスを極限にまで推し進めるとマイナスになることもあるので厄介です。吸血鬼がすべての人間の血を吸って、みんなが吸血鬼になったら、吸血鬼の天下のように見えますが、実は吸える血がなくなってしまいます。うそつきが100パーセントうそをつけば、真実の情報を伝えることになり、結局うそがつけなくなってしまう。シェークスピアも言っています。「きれいはきたない、きたないはきれい」と。

ちょっとちがいますが、一つのストーリーを逆から組み立て直すというのもあります。たとえば桃太郎の紙芝居があったとして、絵を最後の一枚から順に出していって意味の通るストーリーにする、というやり方です。家にある宝物が邪魔なので、鬼ヶ島に行って無理矢理鬼に押しつけた桃太郎ですが、帰る途中、家来たちに愛想を尽かされ、犬・猿・雉はきびだんごを餞別に渡して去って行きます。家に帰った桃太郎はなぜかどんどん小さくなっていき…、とここまではなんとかなるのですが、最後に桃太郎をどうやって桃に押し込むかが問題です。

同じ逆パターンでも、桃太郎側の視点ではなく鬼の視点からストーリーを組み立てることもできるでしょうし、これは何人かが試みているようです。芥川龍之介も「性悪な桃太郎が楽園で暮らす鬼たちを理不尽に襲う話として描いていますが、こういう設定もありでしょう。こんな風に反対側の視点からとらえてみると新鮮な見方ができます。大河ドラマ「真田丸」の終わりのほうで、幸村の守る真田丸に攻め寄せてくる井伊勢を見た幸村が「我ら同様、あちらにもここに至るまでの物語があったにちがいない」というような台詞を言うシーンがありました。もちろん、次に「井伊直虎」をやることがすでに決まっていましたから、その含みを持たせたさりげない「予告」になっているわけで、さすが三谷幸喜、いろんなところで遊びがありましたな。

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