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2018年8月の3件の記事

2018年8月31日 (金)

「ダチ」って?

一人で落語を聞いたら無反応な人でも、寄席で周りが大笑いしていたら、つられることがあります。映画館でも、みんなの笑いにつられて笑ってしまいます。他人の笑いや涙は、こちらの感情も増幅させてくれるのでしょうか。これと反対になりそうですが、新幹線の豚まんは迷惑だ、という話題がありました。食べている本人にはいい匂いでも、食べていない他人にはいやな匂いになる、というのは不思議と言えば不思議です。「王将」の匂いもそうですね。食べてきたのがまるわかりです。脂の匂い、ニンニクの匂いが他者には不快なのはなぜでしょうか。まさか自分が食っていないひがみではないでしょうが…。においの種類によるのかなあ。カレー屋の匂いにはそそられるのに、町角のラーメン屋の前を通りかかっても、よい匂いと思うことは意外に少ないようです。むしろ不快に感じる店もあります。コーヒーの香りは魅力的ですが、万人にとってもそうであるかは不明です。人によるちがいはあるでしょう。ガソリンの匂いを好む人もいますから。匂いも美醜と同じで、主観やそのときの状況によって、快・不快が変わるのかもしれません。

「イケメンゴリラ」というのがありますね。これは人間にも共通する美醜なのか、ゴリラにしてはイケメンなのか。どういう観点からのことばなのでしょうか。たぶん後者だとは思いますが、人間の中にはゴリラと甲乙つけがたい顔の人もいそうです。「大きなゾウ」という表現も、よく考えると、文脈によって二通りの意味が考えられます。「大きな動物であるゾウ」なのか「ゾウの中でもとくに大きなゾウ」なのか。「とくに大きな」と言っても、どれぐらいなら「大きい」のかはなかなか難しい問題です。トイプードルは一匹二匹と数えますが、ふつうのプードルなら一頭二頭と言いたくなります。大きさのちがいなのでしょうが、どこで線を引くのか。「作」と「造」のちがいも大きさによる、と授業では説明するのですが、どこで線を引くのか難しい。「庭をつくる」は、どっちを使えばよいのでしょう。ふつうは「造」です。「造園」ということばもありますね。ところが、いやなことに「作庭」ということばもあります。弱ったものです。

熟語の組み立てを教えるときに、A=B、A←→B、A→B、A←Bなどと簡略化して示すことがあるのですが、「創造」は「A=B」か「A→B」か、つまり「創」は「はじめて」「つくる」のどちらでしょうか。熟語そのものが「はじめてつくる」という意味なので、困ってしまうのです。「創始」であれば「A=B」になりそうですが…。「整地」と「耕地」も卑怯な問題です。上に動詞が来て、下に名詞が来る場合は、下の漢字に「に」や「を」を補って上にひっくり返って読む、という組み立てになるのがふつうです。たまに「売店」のように、「店を売る」ではなく、「売る店」になることもあります。「整地」は「地を整える」ですが、「耕地」はどうでしょう。「地を耕す」と考えるのが自然です。ところが熟語としての意味を考えると、「整地」は「地を整える」という意味で使い、「整地する」と言えますが、「耕地」は「耕地する」とは言えません。「耕した地」という意味で、「耕地面積」のような使い方をします。ということは、「整地」は「A←B」、「耕地」は「A→B」という構成になって、二つを区別しなければなりません。しかし、これは小学生にはなかなか厳しい問題ですね。じっさいに入試で出した学校もあります。

三字熟語の場合は、「松竹梅」のように三字バラバラのパターンもありますが、たいていの場合「一字+二字」または「二字+一字」のどちらかになります。「新幹線」は「新しい幹線」なので前者、「在来線」は「在来の路線」なので後者になります。では「愛読者」はどうでしょうか。「愛読」「読者」のどちらも二字熟語として使えますが、熟語の意味から考えて「読者を愛する」というのは変ですね。「美少女」を「美の少ない女」と考えるレベルのまちがいです。こういう切り方は意外に難しく、「一衣帯水」は「一・衣帯水」だし、「五里霧中」は「五里霧・中」です。「清少納言」は清原の一族の「清」と「少納言」という官職名の組み合わせですから、「清・少納言」のはずですが、そういう切り方をして発音する人はほとんどいません。みんな「清少・納言」です。漢字四文字の場合、「一・三」「三・一」とするより「二・二」にしたほうがリズムとして安定感があるのでしょうね。

外来語の省略語が四音から三音に変化しつつあるとよく言われます。「メルアド」から「メアド」のように。これはリズムなのか省力化なのか。リズム的には「メルアド」が言いやすい気がします。「メル・アド」のように、二音+二音が安定するのは、熟語の音読みの影響もありそうです。ただ、長年使っているうちに、陳腐化してきて、新鮮味を出したくなって三音にしようとするのかもしれません。「ミスタードーナツ」は「ミスドー」が本来の形でしょうが、長音を省きたくなるのでしょう、「ミスド」です。これは関西だけか。でも、「テレホンカード」なども「テレカー」ではなく「テレカ」なので、まあ「長音省略」はありそうです。撥音や拗音の省略というのもあります。「撥音」というのは「ん」、「促音」というのは「っ」ですね。「スマートホン」が「スマホン」にならずに「スマホ」、「ポテトチップ」は「ポテチッ」ではなく「ポテチ」です。たしかに「ポテチッ」では発音しにくい。「ブラッド・ピット」も当然「ブラピ」です。「コミケ」は「コミック・マーケット」が「コミケット」になって「コミケ」になったのでしょうか。「パワーポイント」が「パワポイ」にならずに「パワポ」になったのは、やはり言いやすさかもしれません。

ことばの前半・後半からそれぞれとってきて略語にするのではなく、最近は頭文字三字をとって省略するパターンも増えてきています。「エステ」とか「コーデ」とか「アクセ」とか。こう並べるとファッション関係ですね。「ガムテ」は前半・後半系か頭文字系か微妙。「あと5キロ」とか言うときの「キロ」は「グラム」「メートル」のどちらでしょうか。「ケータイ」と同じように、頭文字系は判断に迷うものがあり、略語としてはあまりかしこくないのですが、おしゃれに感じられるのかもしれません。頭文字系とは逆に語尾のみとってくる省略形もあります。「池袋」を「ブクロ」とやるパターンですね。「ダチ」とか「ゾク」とか、こちらはヤンキー関係に多いような。これも本来「ダチ」だけではよくわかりません。おそらく「友達」なんでしょうな。まさか「公達」? そんなわけないでしょう。

2018年8月15日 (水)

圓生は寝られる

途中で歌い出さないまでも、芝居独特の口調というのがあります。歌舞伎などの古典劇や、宝塚のようなやや「特殊」なものでなくても芝居口調というものが存在します。一昔前の小劇団はそれが顕著でした。野田秀樹の芝居など、セリフのことばそのものも現実から遊離したものですが、さらにそれを独特の「節回し」で語るものだから、「つくりもの感」が強すぎて抵抗がありました。三宅裕司のところはさすがにふつうのくだけた口調に近いものでしたが、やたら歌いたがるのがミュージカル志向で困ったものでした。とにかく舞台でやる芝居には独特の口調があり、冷静に聞くとおけつがこそばゆい。ジャルジャルのコントでもやっていました。ザッツライト。「ザッツライト」って、なんのことかわからないでしょうね。芝居を見に行き、影響を受けて帰ってきたやつらの会話です。「さあ、質問だ。腹が減ったときに食うものは?」「カルボナーラだ」「ザッツライト」みたいな。

外国ドラマの吹き替えもクセがすごい。これはなだぎ武がやってました。アニメの声優もくせのあるしゃべりをする人がいます。ただし、こっちの方は発声そのものも独特の「アニメ声」になっています。現実にこういう声で、こういう話し方をするやつがいたら、きらわれるでしょうな。逆にリアリティありすぎも、ひいてしまいそうです。いわゆる任侠映画がすたれたあと、「仁義なき」のシリーズが出てきましたが、台詞回しもリアルすぎました。「三匹の侍」にしても、東映時代劇の歌舞伎の延長上の殺陣をぶちこわして、斬ったときの音や血しぶきのリアルさを追求しました。そこに様式美はありません。

歌舞伎の殺陣なんて、次々に来る相手を左右に切り分けたり、触れもしないのにやられた方がきれいに一回転したりする、というようなばかばかしいものです。ばかばかしいけれど、「様式美」として認められてきたわけですね。今の時代には通用しにくくなっていますが。漢文口調というのも通じなくなっているようです。「柳生一族の陰謀」のオープニング・ナレーションで「裏柳生口伝にいわく、闘えば必ず勝つ、これ兵法の第一義なり。人としての情けを断ちて、神に会うては神を斬り、仏に会うては仏を斬り、しかる後に初めて極意を得ん。かくの如くに行く手を阻むもの、悪鬼羅刹の化身なりとも、あにおくれをとるべけんや」と言っていましたが、いまどき「あにせざるべけんや」なんて意味不明でしょう。ただし、韻をふんだラップは受け入れられています。七五調にしても消えていくかと思いきや、「たとえこの身がほろぶとも」のように、まだまだすたれていません。

時代がたって残るものもあれば消えゆくものもあるというのは当然ですが、落語でもよく出てくる「質屋」のシステムも知らない人が増えています。「質流れ」と言ってもわかってもらえません。質屋に借りたお金を返さないまま期限が切れて、所有権が質屋に移ることですね。「遊山船」という落語があります。大川に夕涼みに来た喜六、清八の二人連れが橋の上から大川を見ていると、碇の模様の浴衣を着た連中が派手に騒いでいる船が通りかかる。「さてもきれいな碇の模様」とほめると、そのうちの一人の女性が「風が吹いても流れんように」と答えます。「おまえとこの嫁さんは、あんな洒落たこと、よう言わんやろ」と言われて清八は長屋に帰り、嫁さんにきたない浴衣を着せて、行水のたらいの中に入ります。屋根にのぼった清八が、ほめようと思ったら、浴衣のあまりのきたなさに思わず「さてもきたない碇の模様」と言うと、嫁さんが「質に置いても流れんように」。

この意味、わかるかなあ。「三ヶ月たったら流れるもの、なあに」というなぞなぞがありました。そんなものにさらりと答えられるはずかしさ。「質屋蔵」という話は上方にも江戸にもあります。質屋の蔵にお化けが出るという噂が町内に流れ、質屋の旦那が番頭に蔵の見張りをさせようとします。こわがりの番頭は、出入りの職人の熊五郎に応援を頼みますが、この熊さんもじつはこわがりで、二人でブルブル震えながら見張りをしていると、蔵の中から櫓太鼓の音が聞こえます。羽織と帯を質入れした相撲取りの気が残ったのか、羽織と帯の精が相撲を取っているのです。そのあと、横町の藤原さんが質に入れた天神さまの掛け軸がスルスルと下がって開き、天神さまが現れます。「この家の番頭か、藤原方へ利上げせよと申し伝えよ。また流されそうじゃ」利上げというのは、流れる前に利息だけ払って質流れを防ぐことですが、この話も通用しなくなっているのかもしれません。菅原道真が流されたことぐらいは知っていると思うのですが…。

落語と歌舞伎は相性が悪くないようで、お互いに影響しあっています。「文七元結」のように、落語のネタが歌舞伎になったり、歌舞伎のパロディを落語が取り入れたり、「コラボ」しています。野村萬斎の「コラボ三番叟」は舞踊ですが、レーザーを取り入れたりしていますし、中村獅童と「初音ミク」の共演というのもありました。「ワンピース」が歌舞伎の題材になったり、能でマリーアントワネットをやったりしています。いわゆる「大衆演劇」はそういう意味での進化形かもしれません。

大衆演劇でよく言われるのが「ペーソス」というやつで、ホロリとさせる部分ですが、こういうのは本当に必要なのでしょうか。喜劇王チャップリンの映画には必ずこの「ペーソス」が盛り込まれていました。対照的なのがバスター・キートンで、この人はペーソス排除派ですね。北野たけしでさえペーソス好きです。浅草出身で、やむをえないところもありますが。

最近のマンザイは昔とかなり変わってきました。どこで笑うか予想が難しいものがあります。一つ一つ積み重ねていって、最後にドカーンというやり方では、今のお客にはまどろっこしすぎるのでしょう。細かいギャグをちりばめているのですが、話の流れと無関係になることもあるようです。もちろん、一行とか一文だけでも笑えるものがあります。筒井康隆の好きな「一匹狼の大群がやってきた」などはたしかにおもしろい。まあ、ツボにはまればなんでもおもしろくなるんですけどね。

寄席の順番で、だんだんあたたまっていって、最後のトリで大いに笑わせます。これを逆にして、ベテランが最初からガンガン笑いをとりにいって、客席をあたためておけば、トリは新人でもどっかんどっかんうけるかもしれません。周囲のお客の笑い声も「暖める」要素になりますから、その点スタジオ録音というのは難しい。お客の反応もわからないのですから、やりにくいでしょうね。圓生はたくさんの録音を残していますが、えらいですねぇ。ただし笑いのあるネタよりもじっくり語るネタが多かったようです。圓生全集を毎晩のように寝る前にかけ、聴きながら眠ったものです。圓生はよく寝られる。

2018年8月 4日 (土)

路上母子②

《ダイエーに行く親子》

岡本教室前、男の子はたぶん年中さんぐらいです。

母「さあ、ダイエーに行くよ」

子「何買うん?」

母「えーと・・・・・・」

子「あっ! ハンバーグ!?」

母「ゆうべ食べたやん!」

すみません、夏期中で余裕がないので今日はこれだけで。

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