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2024年6月の2件の記事

2024年6月23日 (日)

落ち着かない話

室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの」で始まる有名な詩『小景異情 その二』の中に、「よしやうらぶれて異土の乞食となるとても」というフレーズがあります。「乞食」は、ここでは「かたい」と読むのですが、このたった一語のために、この詩全体が埋もれてしまうのはだめでしょう。しかしながら、少なくとも教材として使いにくいのが現状です。実際には犀星そのものが読まれなくなっていますが…。文豪と呼ばれた作家でも、今の時代、名前も出なくなった人が結構います。武田泰淳はまだ読む人がいるかもしれませんが、武田麟太郎はもはや「知られざる作家」でしょう。芹沢光治良もだめかな。里見敦は兄貴の有島武郎がかろうじて残っているので、そのつながりで読む人がいるかも? 幸田露伴や国木田独歩のレベルでも、名前は知っていても作品は読んでいない人が多いでしょう。これは現代作家も同じで、「死んだら終わり」ということなのでしょう。

ベストセラー作家が少なくなったわけではありません。村上春樹は言うまでもなく、東野圭吾や浅田次郎、百田尚樹、伊坂幸太郎、重松清など結構健在です。女性作家でも、宮部みゆき、湊かなえ、有川浩、角田光代、辻村深月、原田マハ、江國香織、高田郁などなど。しかしながら、紙媒体はじり貧になっているようです。かといって電子書籍への移行もそれほどうまくいっているわけではなさそうで、読書離れは否めないところです。テレビ離れも加速しているようで、倍速ムービーやダイジェストムービー、「何分でわかる○○」がはやるのも「タイパ」追求の時代では、さもありなん、ということです。実際に、たとえば『源氏物語』を読み通した者はそれほど多くないでしょう。私も最後まで読んだのは谷崎潤一郎の現代語訳だけで、原文はもちろん、他の人の現代語訳もつまみ食いです。

最後まで読み通したものでは、『暗夜行路』は面白く感じなかったなあ。『夜明け前』も苦痛に近いものを感じました。読み出して数ページで、読む意欲をなくしてストップ、また日を改めて、同じことのくり返しでした。「自然主義」って、本当に面白くないなあ。行動力のない作家の狭い体験など、魅力的ではありません。かといってSFでもないのに、トンデモ設定の「純文学」もだめですね。奇をてらっているだけの感じがして、芥川賞作品の中でも食指が動かないものがあります。直木賞も最近のものはつらいかもしれません。

司馬遼太郎など、やはり今読み直しても面白い。本の大整理をしたときに一挙に捨ててしまいましたが…。吉川弘文館の『国史大辞典』全15巻のセットとか、箱入りの学術本などは、さすがに捨てるのがつらかった。古本屋で引き取ってもらえそうな小説なども、段ボールに詰めたまま捨てました。キング、吉川英治、山岡荘八、横溝正史などは文庫本ですが、ほぼ全巻揃っているものを「一気捨て」。つらいけれど、あっても読まない可能性が高く、この際「断捨離」をして納戸を広くすることにしました。それでも残っている『相棒』のノベライズシリーズは、現在進行形で刊行されているからです。山本周五郎も新潮文庫の全巻揃いでしたが、青空文庫でも読めるから、ということでおさらばしました。著作権保護の期間が死後五十年から七十年に延びたため、青空文庫にはいりそこねた人が多いのは残念でしたね。三島由紀夫を筆頭として、内田百閒、子母沢寛や木々高太郎など、無料で読めていたかもしれないのになあ。川端康成も没後五十年たったのではないかしら。

YouTubeの朗読動画で、面白そうな作品がたくさん取り上げられています。ところがプロではなく、「趣味」レベルの人なのか、「痛い」のが少なくありません。漢字の読み間違いがあったり、発声が悪かったりするのは論外ですが、聞いていて心地よいリズムが感じられないのは、何が違うのでしょうか。元NHKアナウンサーの松平定知の「最後の将軍」の朗読はさすがでした。おなじ司馬遼太郎の作品をとりあげているラジオ朗読の番組があります。毎週土曜の夕方、竹下景子のナビゲートで、司馬遼太郎の短編小説の朗読をしているのですが、こちらは「演技過剰」です。声優による朗読なので、アナウンサーとは違ってくるのでしょう。アニメも含めて声優は声で演技をしなければならない分、どうしてもオーバーになってしまうようです。「朗読」ではなく「朗読劇」と言うのなら抵抗はないかもしれません。

昔のラジオドラマには面白いものが多かったようです。森繁久彌と加藤道子の二人でやっていたものが西田敏行と竹下景子に変わりましたが、これは高い評価を得ている番組です。三谷幸喜の『笑の大学』は三宅裕司主演のラジオドラマもあります。これもなかなか面白かった。YouTubeの動画で森繁久彌の『ステレオ怪談』というのがあります。NHKのFMで放送されたものですが、かなり怖い。YouTubeには小松左京の『くだんのはは』の朗読劇もありますが、これは構成がよくなくて、原作そのままを読むほうがずっといい。小松左京という人はとにかくすごかったんですね。かなり早口で聞き取りにくいときもあるものの、しゃべりはうまく、タレントとしても一流でした。非常にエネルギッシュな人だったので、年を取ってからのやせこけた姿とかすれた声はどう見ても別人でした。小松左京のことだから、入れ替わっていても不思議はないと思ってしまったぐらいです。

ただ小松左京は子供向けのショートショートはイマイチでした。テキストに載せていますが、オチも弱い。その点、星新一は、シチュエーションの発想からどのようにオチにつなげるかをしっかり考えて、指定された枚数に合うようにストーリーを考えたのではないかと思います。その分、あっと驚くオチではなく、読んでいる途中である程度予想できるものもありました。だからこそ、安心して読める、というメリットもありそうです。それに対して小松左京は、「もし…」という発想から話を広げていくタイプなので、ひょっとしたらショートショートでもオチを決めずに書き始めていたのかもしれません。話によっては別にオチがなくても、時間が来たら「わあわあ言うております。おなじみ××、半ばで失礼させていただきます」と言って高座からおりる場合もあります。まあ途中でゲラゲラ笑えればそれで十分なんで、オチまでいかなくても文句は言えませんが…、と言いながらオチの付かない話を落ち着かない話と言います、というしょうもないオチでしめくくるのはいかがなものか。

2024年6月10日 (月)

言語流転

「見立て殺人」がなくても、迷宮入り事件というのは当然あるわけで、「帝銀事件」なんて、松本清張も『日本の黒い霧』の中で推理していましたし、小説にも書いています。坂口安吾の推理も有名です。横溝正史の『悪魔が来たりて笛を吹く』にも、この事件をモデルにした話が登場します。京極夏彦の作品の中にも登場していますし、永瀬隼介の『帝の毒薬』という小説も面白かった。

何か大きな事件が起こったとき、作家や元刑事の推理が新聞に載ることがよくありますが、あれは当たっているのでしょうか。作家は自分でストーリーやトリックを組み立てて、登場人物に「推理」させます。これは現実の事件を見ぬく力とはちがうでしょう。神戸で連続殺傷事件が起こったときに犯行声明が出ました。我々国語科の講師陣はみんな、「これ子供やね」と言っていました。あの字と文面を見たときの直感であり、経験に基づくものですが、何も根拠はありません。新聞では「相当の知性」とか「大学生か」などと書かれていたように思いますが、あの字や内容のもっているふんいきは子供のものでした。「小学校高学年から中学生、高校生ならかなり幼稚な子」という結論でした。警察が私たちに聞きに来てたら事件の様相も変わっていたかも…。

まあ、「専門家」と称する人たちの意見は、外すことが案外多いようです。コロナのときもそうでした。あれは、未知のウィルスだったわけですから、「専門家」と言っても確実なことはわからないはずです。医者でさえ意見がいろいろ分かれていたのに、「評論家」が論外なのは言うまでもなく、「コメンテーター」なんて人たちは話になりません。

コロナはさすがに「大事件」でしたが、大事件の真相はしょうもないことだった、なんてことも世の中には結構あるかもしれません。平安京遷都など、学校で習ったのは奈良の寺院勢力から逃れるための政治的理由ということでしたが、天智系の桓武天皇が天武系の奈良を嫌った、という単純な「感情」が根本にあるかもしれません。長岡京を捨てたのは、早良親王の祟りから逃れるためでしょうから、「政治的理由」よりも「感情的理由」で奈良を捨てた、と考えるのは意外に正解かもしれません。ソ連が崩壊したのはマクドのせいだというのも、ひょっとしたら正しいかもしれません。モスクワのマクドナルドで、アメリカ発のハンバーガーを手に入れるために大行列に並び、何日か分の給料に匹敵するだけの料金を払った人々は、憧れのアメリカ文化に触れる喜びを感じていたはずです。

「陰謀論」という言葉も最近よく聞きます。アメリカの大統領選挙のとき、不正があったのではないかとトランプ陣営から指摘があり、「バイデンジャンプ」なんて言葉も生まれました。「やりすぎ都市伝説」も、本当に「やりすぎ」と思うようなこともありますが、面白いことは面白い。オカルトとともに、こういうのには一定数のファンがおり、根強い人気を保っています。いったん消えたネタがときどき復活することがあるのも面白い。ツチノコなど、その代表です。アマビエは消えましたが、ツチノコの賞金はまだ生きているのでしょうか。そういえば、ネッシーは完全否定されたのでしょうかね。一つの「夢」として、存在の可能性を残してほしいものですが…。「ついに発見された」というニュースがイギリスの新聞に載ったことがあります。ただし、四月一日の記事で、ジョークだったのですね。こういうウソ記事を載せるときには、読者に対するヒントとして、たとえば発見者の名前を「オネスト・ジョン」にする、なんてこともあるそうです。日本語にすれば「正直太郎」という感じですから、逆にウソ記事であることがわかる、ということですね。

ネットの世界で、たまに見る偉人らしき絵に付いている名前で、「バカカ・コイツァー」「ネゴトワ・ネティエ」「ショー・ボーン」「エーカゲン2世」「ソノアンニ3世」「モーネ・ミッテラン内閣総理大臣」みたいなのがあります。もちろん、実在しない名前です。昔からある「骨皮筋右衛門」「石部金吉」も実在しません。「骨川スネ夫」も実在はしないでしょう。『警視庁・捜査一課長』というドラマの設定がばかばかしく、内藤剛志(この人は星光学院出身ですね)扮する捜査一課長が電話をとるところから始まり、「なに? 餃子を耳に突っ込んで、両手に靴を履いた御遺体を発見? わかった、すぐに臨場する」みたいな、わけのわからない不思議ワールドが展開されます。そんな「ご遺体」の説明で「わかった」と言えるわけがない。登場人物の名前もオールダジャレになっていました。ナイツの塙は「奥野親道(おくのちかみち)」で、なぜか「奥の細道」ですが、土屋はサイバー事件のエキスパートで役名が「谷保健作(ヤホー検索)」になっていました。毎回の登場人物も、たとえば医者なら「綿志賀直弼」、患者なら「伊賀井太陽」みたいな感じで、もうムチャクチャです。

これは笑いを狙ってはいるのでしょうが、一つには現実ばなれした名前にしておいて犯人と同姓同名の人からクレームが来ることを前もって防ぐ、ということもあるかもしれません。「実在のものとは関係ありません」とか「食べ物はスタッフがおいしくいただきました」というテロップが出るのは、そういうつまらないクレームの予防ということです。『不適切にもほどがある』というドラマでは、「このドラマでは不適切なシーンや表現があります」とわざわざ断りを入れることを「ギャグ」としておちょくっていたのも、「クレーマー」対策に見せかけながら、そういうクレームを逆批判していたのでしょう。

「漢字狩り」とか「言葉狩り」とかいうものがあります。たしかに差別はよくないのですが、差別につながりかねないから、と言って、この言葉を使うな、とか、この漢字はだめだ、と言って騒ぎ立てる人がたくさん出て、世の中から消えた言葉があります。「差別はだめだ」という正論が出発点になっているので、逆らいがたいのですが、何にしても行き過ぎはだめでしょう。昨今のポリコレと呼ばれるものも行き過ぎてしまった結果、今揺り戻しが来ています。それがまた行き過ぎると、ろくでもないことになりかねません。人為的に変えようとしなくても、自然にことばは変化していくものなのですが…。

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