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2024年3月の4件の記事

2024年3月24日 (日)

君の名は

武蔵が出会ったのは、なんと関口弥太郎だったのです。といっても、今では知らない人のほうが多いでしょう。柔術の達人です。この人の生まれた家は今川義元の一門で、家康の正室築山殿の親戚になります。今川氏が没落し、築山殿と息子信康の失脚によって、弥太郎の父の代で牢人になっていました。のちに紀州徳川頼宣に認められ、「御流儀指南」として仕えることになります。柔術と言えば関口流、関口流と言えば弥太郎、ということで、昔は相当有名でしたから、武蔵との絡みが出てくる話というだけで、お客は大喜びだったそうです。

講談という演芸の源流は、おそらく太平記読みでしょう。平家物語は琵琶にのせて語られるのに対し、太平記はリズミカルな口調で読み上げられるのですね。太平記は人気のある作品だったようです。大河ドラマでも吉川英治の『私本太平記』をとりあげていました。前に触れたとき、大塔宮を後藤久美子が演じたと書いたのですが、ちょっと気になって調べてみたら彼女が演じたのは北畠顕家でしたね。訂正してお詫びします。やっぱり調べずに適当にものを言うのは禁物ですね。さて、この「太平記」、ドラマ化は難しいと言われていました。敵味方がころころ入れ替わって、見ている人がついていけなくなると言うのですね。応仁の乱も同様で、『花の乱』でも、くっついたと思ったら離れ、またくっついたと思ったら裏切られ…ということで、わけがわからなくなるので、ときどき図解がはいっていたような…。江戸時代まで裏切りや主君を変えることには比較的寛容だったのかもしれません。とくに室町時代はそういうことがやむを得ない時代だったのでしょうか。

日本人の気質や美徳と言われるものは、じつは江戸以降に定まったのかもしれません。室町時代の日本人は、ひかえめでもシャイでもありません。宣教師を論破した話もあります。ザビエルが、洗礼を受けると天国に行けると言ったところ、じゃあ俺たちの先祖はどうなったと聞かれ、地獄に落ちたと答えました。そうすると、おまえたちの神は無慈悲で無能である、なぜ早く日本に教えを伝えなかったのだ、と反論されて、ザビエルは苦し紛れに、悪魔が邪魔をした、と答えたそうです。まぬけな答えです。当然、神が宇宙の創造者であるのに、なぜ悪魔をつくった、と問い詰められます。ザビエルは、神がつくったものはいいものだが、勝手に悪くなったのだ、そういう者に神は罰を与える、とさらにまぬけな答えをします。そんな残酷で恐ろしい神はいやだ、第一、はじめから完全でないものをつくっておいて罰を与えるのはおかしい、と言われてぐうの音も出なかった…という話があります。

この話はどうも嘘くさいのですが、当時の日本人は意外にこんな感じだったのかもしれません。和算というものがはやって、神社に額があげられたりしました。算額と言います。もともと算数の難問が解けたことを神様に感謝するものだったようですが、そのうちに、自分で作った問題を発表する場として利用されるようになり、人々が競って問題を解いたそうです。意外に日本人は論理好きだったようです。精神的・情緒的とはかぎりません。安土宗論というのもありました。浄土宗と法華宗の論争を信長が仕切ったというやつですね。論理好きと言うより、論争好きなのかもしれません。ただし、薩摩では「議を言うな」とよく言われたそうです。決定した物事について、あれこれ文句を言うな、ということだったのかもしれませんが、だれかが理屈を言い出すと、それを封じるときに使われることもあったようです。ひょっとして、こういう人たちのつくった明治政府のせいで、日本人は議論下手になったのでしょうか。

古代ギリシャの時代から、西洋では詭弁を含めて議論の訓練をしつづけてきたのですから、日本人は負けるに決まっています。それでも、訓練することで多少はうまくなるということもありそうです。政治家の演説も訓練です。田中角栄だって、麻生太郎だって、経験を積むことでうまくなったのでしょう。一方デパートなどでやっている実演販売はセリフとして覚えているので、アドリブはきかないかもしれません。ただし、「語り」の訓練を積んだ人ならいけるはずです。「語る」は「かたる」と読みますが、「騙る」も「かたる」なのですね。真実であるかのように思わせることが「語り」の本質なのかもしれません。

では「物語」の「物」とは何でしょうか。これ、ひょっとしたら「物の怪」かもしれません。「ものがつく」「ものにとりつかれる」という言い方もあるように、「もの」だけで妖怪や化け物を表すこともあります。ふしぎをかたるのが物語のはじめだったのでしょう。つまり、伝奇こそ本道です。犬が人を噛んでもニュースにならないが、人が犬を噛むとニュースになります。変わったことを語るのが物語であるなら、「私小説」が面白くないのは当然でしょう。にもかかわらず、ホームドラマが人気だったのはなぜでしょうか。「あるある感」かもしれません。おばちゃんに人気だったのは、おばちゃんは「あるある」が好きだからでしょう。それに対して男は「ワクワク感」を求めるようです。男が子供である証拠ですね。女性のほうがリアリストです。「永遠の少年」はいるけれど「永遠の少女」はいません。「ピーターパン・シンドローム」という言葉がありました。「シンドローム」つまり症候群ですから、これはけっしてほめことばではありません。一般人がピーターパンのように、いつまでも子供でいては困りますが、詩人には童心が必要です。素直に見て素直に感動する心が大切です。もちろん、裏を読み、本質を見ぬく力も必要でしょうが、岡本太郎のような「素直さ」も悪くはありません。でも、ああいう人が父親だったら、ちょっと困るでしょうね。ましてやバカボンのパパと同じレベルだったら、子供はつらいでしょう。

ところで、バカボンのパパの本名は何なのでしょう。バカボンという名前の人の父親と言っているだけで、菅原孝標女や右大将道綱の母みたいです。物語の登場人物ですが、光源氏も本名はわからないのですね。天皇の皇子で臣籍に下り、源姓を賜ったのですから「みなもとのなにがし」になったはずです。源氏になった人で光り輝くように美しい、と言っているだけで、「光る君」の本名はわかりません。主人公の名前がわからない物語、というのも考えたらすごいことです。

2024年3月17日 (日)

今こそ島への愛を語ろう⑥~竹富島~

司馬遼太郎が『街道をゆく』の中で、「桃源郷のような」とかなんとか(すみません、あやふやです)形容していた竹富島にどうにもこうにも行きたくなり、沖縄本島には目もくれず、一路竹富島へ向かったのは、もう十数年も前のことです。確かに、ただただもうひたすら美しいところでしたね。サンゴの石垣、サンゴの白い道、赤い瓦、色の濃いブーゲンビリア、巨大なヤドカリ、巨大なナメクジ。最後のものについては異論のある方もおられましょうが、現地で見たらべつにそんなグロテスクって感じでも、です。

泊まった民宿はネコが2週間ほど前に赤ちゃんを4匹産んだばかりで、「世界ネコ歩き」状態でもうたまらんのでした。ビーチで泳ぐよりネコの赤ちゃんをひざに載せてぼーっとしている時間の方が長かったかもしれません。ほかに何したっけなあ? 牧場で牛見ました。その近くで珍しそうな蝶見ました。なんとかフルーツのアイス食べました。オリオンビール飲みました。ほかは? うーん。

そんな感じで、思い出そうとするとふだんからぼんやりしている頭がますますぼんやりとしびれたようになってはっきりと思い出せないんです。桃源郷って、そういうことかもしれません。

2024年3月10日 (日)

今こそ島への愛を語ろう⑤~スラウェシ~

こんにちは、西川(中)※です。久しぶりの登場です。前に書いたのいつだっけと調べてみたら、もう1年半も前でした。この「今こそ島への愛を語ろう⑤~スラウェシ~」をちょっとだけ書いて放置していたのです。というわけで、遅ればせながら続きを書こうと思います。

※他に「西川(大)」「西川(翔)」という講師がいるため、やむなく「西川(中)」としています。

私はインドネシアに2度行っており、その2度目がスラウェシです。かつてセレベスと呼ばれていた島です。島っていってもずいぶんでかいですけどね。トアルコ・トラジャという有名なコーヒーの産地であるタナ・トラジャにちょっと変わった埋葬の風習があるというので興味を持ったんです。もちろん、調査に行ったわけではなく、ただの物見遊山です。

かなり内陸にある高地ということで、車をチャーターするしか行く方法がありませんでした。それで日本から現地の観光案内所的なところに電話して、片言どころではない、しどろもどろのインドネシア語で何とか予約しました。ほんとうに車は来るのか?って感じでしたけど、ちゃんと来ましたね。やるなあオレ。K君に教わった参考書で勉強した甲斐があったというものです(K君については④をご覧ください)。

そうそうK君といえば、去年ものすごくひさしぶりに会って旧交を温めました。岩手山に登った帰りに仙台に寄ったのです。K君は大学の先生で、出世して学部長になっていました。温厚で人間が出来ているためそういう役職が回ってきちゃうんですね。ほんとうはすごく変な人なんですけど。懐かしい研究室ものぞかせてもらい、いい思い出になりました。盛岡からバスで岩手山の登山口に向かう途中、焼走り溶岩流というところを通ったんですけど(名前のとおりごつごつした黒い溶岩が幅1キロ長さ3キロにわたって積み重なり広がっているところです)、「あそこ、昔いっしょに行かなかったっけ?」とK君に訊くと「そういえば行ったね」。大学三年生のとき同じ研究室のK君とN君とわたしで、山形の自動車学校に合宿免許を取りに行ったんですが、その後せっかく免許とったんだからということで、レンタカーでK君と東北旅行をしたのです。あまり明瞭な記憶は残っていませんが、『遠野物語』で有名な遠野の、カッパ伝説のある河童淵に行って「こんなせまくて浅い流れに河童がいるはずないね」とうなずき合い、小岩井農場では逃げる羊を追いかけて撫で回し、龍泉洞というおそろしく美しい地底湖のある鍾乳洞を見学し、といった具合で楽しかったですねー。K君と僕は虫が苦手という共通点を有しているのですが、国民宿舎に泊まったら部屋のカーテンにびっしりとカメムシがとまっており、ふたりともおそれおののくだけで何もできず、見なかったことにして眠ったら朝には消えていたとか、昔乗っていたボートが転覆したという恐怖体験を持つK君が左手に海が見えている道で右側車線を走ろうとするのでよけい怖かったりとか(水深百メートルの地底湖を見たときは「だめだ、恐怖のあまり飛び込みたくなる」と物騒なことを言ってました)、印象深いことがたくさんありました。

閑話休題。スラウェシの話でした。しかしここまで書いてきて、山形の自動車学校のことを思い出してしまいました。もしかすると以前にこのブログに書いたかもしれませんが、とんでもない教官がいたんです。仮免取ったあとの路上教習で、土砂降りのバイパスを走ってたら、追い越していった車にばしゃっと水をかけられたんですね。いやがらせです。絶妙のタイミングで水のたまった轍にタイヤを踏み込ませ、斜め後方にいた我々の乗る教習車のフロントガラスに、一瞬前がまったく見えなくなるぐらいの水をぶっかけはったのです。そしたら助手席にいた教官があろうことか「やりかえせ」と言うのです。そんなん無理です~と半泣きになっていると、「アクセルを踏め、もっと踏め、もっと」と要求し、件の車を追い抜いた瞬間横からハンドルをつかんでくいっと少しだけ右に回してまた元に戻さはりました。そしてふり向いて「やったった、やったった、ざまあみろ」と叫ぶのでした。怖かったなあ、あの教官。

閑話休題。スラウェシの話でした。タナ・トラジャは遠かった。愛想の悪い運転手のおじさんとふたり、黙ったまま何時間も車に揺られました。そうしてたどり着いたホテルはヤモリだらけでしたが、実はヤモリはかなり好きなのでそれはまったく苦痛ではありませんでした。沖縄の竹富島に泊まったときもヤモリが多くて、部屋のドアをバタンと閉めると、天井からヤモリの赤ちゃんがぽてぽて落ちてくるのがかわいかったです。でも、ヤモリはかわいいと思うんですが、イモリはかわいくない。なんでですかね? 滋賀の比良山系に八雲ヶ原という高層湿原があり、ときどきテントを張りに行くんですが、もうイモリだらけで。小さな流れで水を汲もうとしたらイモリイモリイモリ、イモリが山もりです。この水は飲めるのか?と頭を抱えてしまうのでした。ま、湧き水とちがって川の水はどんなに清いようでも煮沸すべきですけどね。

タナ・トラジャには大きくぱかっと開けた洞窟があり、いたるところにシャレコウベが置かれています。そういう埋葬の風習なんですね。あれだけたくさんあると、かえってちっとも怖くない。なんだか、からっとした雰囲気です。たくさん写真撮りましたけど、心霊写真的などろどろどよーんとした写真は1枚もありませんでした。中国のウイグル自治区の博物館に何十体ものミイラが展示されている部屋があって、他にだれもいないので一人で見て回りましたけど、やっぱりまったく怖くありませんでしたね。あ、一体だけ、まぶたを閉じたミイラがあり、これだけ妙にリアルで不気味でした。まぶたを閉じているせいで、逆に今にもまぶたを開けてこちらを見るんじゃないかっていう妄想がわいてくるのでした。

タナ・トラジャから下りてきてウジュン・パンダンという街で食べたチマキがおいしかったです。

2024年3月 3日 (日)

ちょうど時間となりました

三遊亭圓朝作の怪談『牡丹灯籠』も、中国の話に原典がありそうな気もしますが、どうでしょう。もう一つ、圓朝作の有名な怪談に『真景累が淵』というのがありますが、「真景」は「神経」とかけた言葉になっています。幽霊というのは神経の作用で見えるものだ、ということで、ずいぶん科学的な見方をしています。明治時代には、この「神経」というのが一種の流行語になっていた、と、圓朝の流れをくむ圓生が『累が淵』のマクラで語っていました。

圓生もなくなって久しいのですが、Youtubeなどで見ることができます。うますぎて鼻につく、というか、どうだうまいだろう感がつよすぎるときもありますが、やはりうまかった。最近の上方落語では桂吉弥がいい、と前に書きましたが、吉弥と桂春蝶、春風亭一之輔の三人会を見たことがあります。梅田芸術劇場、シアター・ドラマシティというところでやったのですが、客席は満杯でした。吉弥は『愛宕山』というネタをやりました。山登りをする一行の中に舞妓さんが登場するのですね。そのときにこめかみのあたりに手をやって動かして、「これ、舞妓さんのビラビラ」と言って笑いをとるところがあります。吉朝ゆずりのネタですが、その師匠の米朝もちゃんとやっていました。「ここ、笑うとこよ」というやつですね。確かに客席はドッと受けていました。

なぜここが笑うつぼになって、おかしみを感じるのか。そこまでやらんでもええやろ、というところにあえてこだわるのが面白みなのでしょうか。『地獄八景亡者戯』で、やる人はみんなの閻魔の顔真似をしますが、これは断片となっていたものを米朝がととのえた話ということもあるのか、やはり米朝の顔が一番笑えます。このタイトルが芝居風で、歌舞伎と同様、漢字七文字になっており、これで「じごくばっけいもうじゃのたわむれ」と読みます。「八景」はどこから来たのか。地獄のいろいろな情景、という意味でしょうが、「近江八景」から来たのかもしれません。「日本三景」と言って、日本全体には三つしかないのに、近江には八つもあるというのが、なんだか変です。八つもでっちあげようとしたせいでしょうか、無理矢理感も漂います。「比良の夕照」なんて、夕焼けがきれいだという、どこにでも当てはまりそうなものを持ってきています。

大阪で夕陽が美しいところと言えば、そのまま地名になっている夕陽丘でしょうか。地名そのものもなんだか美しい感じがします。日本を愛する外国人たちの感想で、美しい言葉として「木漏れ日」をあげた人がいます。勿論、こういう現象はどこの国にもあるわけですが、それをこんな風に名付けるセンスがすごい、とほめちぎっていました。他にも、雨を表す語彙の多さに感動する、という人もいます。音読みする熟語以外にも、にわか雨、むら雨、こぬか雨、やらずの雨とか、「雨」という言葉がはいっていなくても、しぐれ、卯の花くたし、きつねの嫁入りとか、いろいろあります。「虎が雨」という妙な言葉もあります。夏の季語にもなっており、旧暦五月二十八日に降る雨のことです。「虎が涙雨」とか「虎が涙」とか言うこともあり、虎御前が泣く涙だということになっています。これは曾我兄弟から来ているのですね。だから「曾我の雨」と言うこともあります。曾我兄弟の兄のほう、十郎が死んだことを、恋人の虎御前が悲しみ、泣きはらした涙だというわけです。

今では曾我兄弟も荒木又右衛門も忘れられ、日本三大仇討ちも忠臣蔵だけが残っていますが、昔は曾我兄弟は有名だったのですね。源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎・五郎の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件です。伊東一族の領土争いが発端で、いろいろあってややこしいのですが、三谷幸喜脚本の大河ドラマでは非常に面白く描いていました。兄弟が父の仇討ちを行うと見せかけて、頼朝を暗殺しようとする、という設定ですが、頼朝の寝所にたまたま工藤祐経が寝ていたのを襲ってしまう、まぬけな展開になります。義時は「仇討ちを装った謀反ではなく、謀反を装った仇討ち」だと言い、兄弟は父の無念を見事はらしたという美談に仕立て上げます。そして、「この話は後の世にまで語り伝えられるだろう」と言うのです。事実、三代仇討ちの一つとして後世にまで伝わりました。

現代からの視点で見れば、義時の言葉どおりになるわけで、こういうとらえ方は「真田丸」のラストにもありましたが、この大河ドラマでは伏線回収のうまさが際立っていました。と言うより、実は毎回のちょっとしたエピソードをそのままにしないで、後になってうまく活かしていたのかもしれません。長い年月をかけて書かれる大長編小説ともなると、そういったエピソードが活かしきれず、場合によってはミスにつながることもあります。吉川英治の『新書太閤記』に、わりと早い段階で藤吉郎と光秀が出会う場面があり、それはそれで面白いエピソードだったのですが、後年になって光秀が信長に仕えたとき、秀吉とは初対面だという設定になっていました。作者自身が昔に書いたことを忘れてしまったのでしょうが、読む側は一気に読んだりすることもあるので、矛盾に気づきます。

ただ同じ時代に生きていたのであれば、どこかでめぐりあっても不思議はないわけです。講談の神田伯山が、どんな話でも宮本武蔵が出てくるとお客が喜ぶ、と言っていました。別の話であっても、多少時代がちがっても、「あの」宮本武蔵がちらっとストーリーにからめて出てくるだけで、話が「豪華」になるのですね。伊坂幸太郎の連作で、ちがう人物の視点で書かれているのに、どの作品にも同じ人物が登場してくる、というのがありました。連作でなくても、ある作品の人物が、別の作品に脇役としてチラッと登場することもあります。読者サービスと言ってもよいでしょう。同じ作者のものを掘り下げて読んでいく人だけに与えられた楽しみと言ってもよいかもしれません。

講談の「武蔵伝」には、武者修行をしている武蔵が狼退治をする話があります。そのときに知り合った駕籠屋の親父が強いのなんのって、並みの男ではありません。狼をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、はてには一番大きな狼をビリビリと引き裂いてしまいます。では、何者だったのかというと、うーん、残念。ちょうど時間となりました。続きは次の口演にて。

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