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2023年12月の2件の記事

2023年12月17日 (日)

こんばんみー

『時の娘』は、二人の甥をロンドン塔に閉じ込めて殺害したと言われるリチャード三世の「容疑」がはたして真実かどうかを探る、という歴史推理小説です。「時の娘」というタイトルは「真実は時の娘」ということわざから来ています。「真実は時間がたつことで明らかになる」という意味でしょう。この小説の日本版を書こうとしたのが高木彬光の『成吉思汗の秘密』です。名探偵神津恭介が入院中に「義経成吉思汗説」の推理をするという設定で、「ベッド・ディテクティブ」とか「アームチェア・ディテクティブ」というやつですね。「アームチェア・ディテクティブ」とは「安楽椅子探偵」ということで、現場に行かずに人の話や書類などの手がかりだけをもとにして推理を展開するものです。

『時の娘』も『成吉思汗の秘密』も現在の事件ではなく、歴史上の事件を扱っていますが、松本清張も歴史好きだったようで、ノンフィクションの『日本の黒い霧』や『古代史疑』などを書いています。古代史への興味を小説の形にした『火の路』というようなものもあります。大河ドラマで「実朝暗殺」が描かれていましたが、真犯人はだれかという「歴史推理」も、永井路子が『炎環』で三浦義村説を出しました。小説の形で書いているわけですから、単なる思いつきのようにとられても仕方のないところですが、歴史学者の中には好意的に取り上げる人もいました。

「実朝暗殺」と書きましたが、あれはなぜ「暗殺」なのか。この言葉は定義が難しいようです。まず対象が政治的、社会的になんらかの影響力を持つ人物でなければなりません。一般のサラリーマンやお店のおっちゃんは「暗殺」されないのですね。動機も政治的、思想的な立場の違いが前提になります。暴力団抗争などで「親分」が殺害された場合も「暗殺」と言うことがありますが、その「世界」で影響力を持つ人物が対立する組織によって殺害されたわけなのであてはまりそうです。殺害方法についてはなんでもよいのですが、「暗」の意味から見ても「秘密裏」でなければならないと思うのです。「非合法的」という要素も必要でしょう。たとえば政敵をつかまえて強引な裁判で死刑にしても暗殺とは言えないでしょう。安倍さんは白昼堂々と銃撃によって命を奪われましたが、「銃撃」という「非合法」の要素はあるので「暗殺」と言えるのかなぁ。さらに言えば「暗殺する」とは言えるのに「殺人する」と言えません。これも不思議です。

「する」という動詞は名詞のあとについて「サ変複合動詞」を作ります。「運転する」「読書する」などですね。ところが、「殺人する」は複合動詞として使うことはないようです。名詞の中の漢字に動詞的要素があって、全体が「~すること」という意味であれば複合動詞にしやすいはずなのですが…。名詞に使われている漢字に動詞的要素がなければ「する」をつけると妙な感じがします。「時間する」「世界する」「他人する」などなど。「する」をつけて動詞化できる名詞を「サ変名詞」と言うこともあるようです。二字熟語とはかぎりませんし、外来語でもあてはまるものがあります。では、「お茶する」はサ変複合動詞と見なせるでしょうか。「お茶」は「名称」であって、動詞的要素はありません。「インストールする」とは言えても「パソコンする」とは言えません。今のところ「お茶する」はまだ口語的表現、ややくだけた言い方、という位置づけでしょうか。

「駅前でヤンキーたちがたむろっていた」というような表現を見たことがあります。これは使い方としてはどうでしょう。「たむろった」と言えるなら、終止形は「たむろう」になりそうですが、そんな言葉はありません。「屯」と書いて「たむろ」と読み、「たむろする」と言うのが正しいことになります。「う」がついて動詞になる名詞といえば「歌」がありますが、これは昔から「歌ふ」という形で使われています。では、ひょっとして「たむろる」? 名詞のあとに「る」をつけると動詞になることがあります。たとえば「牛耳る」「事故る」「サボる」「ミスる」。「江川る」「アサヒる」「小沢る」なんてのもありました。「口」をひっくり返して「チク」、それに「る」をつけた「チクる」、「告白」の「告」から生まれた「コクる」、新しいところでは「ググる」「ディスる」「バズる」…。でも、「さすがに「たむろる」は聞きません。活用させて「たむろらない・たむろります…」というのも聞いたことがない。「ななめってる」というのも、言わんとすることはわかりますが、「ななめる」という動詞は今のところ存在しません。

こういう言い回しは、たしかに文法的にはおかしいのですが、使う人が多くなれば日本語として定着していくのでしょう。ただし、「わかりみが凄い」とか「やばみ」などは定着するか微妙ですね。それでも、これらの言葉は「ま」とか「ちな」に比べるとまともです。「まじ」は江戸時代からすでに使われていたので、「まじめ」の省略かどうかは微妙なところですが、「まじ」を省略して「ま」とか、「ちなみに」の略で「ちな」、これらはあまりにも省略しすぎです。「ちな」とか、「とりあえずまあ」が「とりま」っていうのはまだ文脈でわかることがありますが、相手の言ったことに対して「ま」では意味不明。「それ本気?」の省略形「そま?」みたいな使い方はほとんど幼児語です。さすがに流行語みたいな感じで、もはや「古い」という扱いになっているようです。これらに比べると、「やばみ」はまだ今までの造語パターンをある程度ふまえています。「やばい」を名詞化するなら「さ」をつけて「やばさ」ですが、あえて「うまみ」「ありがたみ」のように「み」で名詞化したのでしょう。「うれしみ」も同様ですが、「わかりみ」はちょっと違います。これは動詞に「み」なので無理矢理感が強いようです。逆にそれが面白いから若い人たちは使うとも言えます。「もはや、わかりみしかない」という使い方は定着するでしょうか。いや、すでに死語かもしれません。

定着するかしないかの基準はむずかしいようです。桂太郎以来の「ニコポン」はいまだに辞書に載っているのですが、おそらくだれも使わないでしょう。「ギャル」も一世を風靡しましたが、もはや死語です。「ナウい」は定着しかかったのに消えて、「なう」の形で復活しました。そして、また「なう」も消えています。はやっていたころに、国語のテストで「損なう」の読み方を出題したら、SNSをやりすぎの人が「そこなう」と書かずに、「そん、なう」と答えたかもしれません。

2023年12月 5日 (火)

時をかける娘

「戦争を知らない子供たち」とは、いわゆる「団塊の世代」のことですね。戦争が終わって帰ってきた兵士たちのもとで生まれた子供たちです。堺屋太一という人のネーミングですが、言葉としてすっかり定着してしまいました。別の言い方をすれば、この人たちは「戦争がなければ存在しなかったたかもしれない世代」ということになります。終戦という社会の変動に伴い、一つの大きな集団ができあがり、前後日本の方向を決定づけました。

戦争というのは大きな影響力をもちます。人類が繁栄するのはよいことですが、人口が多すぎると集団の維持に却ってマイナスになることもあります。原初の人類は、天敵と呼ばれるような動物によって人口が調整されていたのかもしれません。天敵をしのぐような力をつけた人類に対して、自然は病気をはやらせ、多くの人が命を失いました。ところが人類は科学を発展させ、病を克服していきます。そうすると、新たな病が生まれます。自然は次から次へと病気をはやらせるのですが、追いつかなくなっていきます。そうすると、人間は不思議なことに戦争をするのですね。人間はそれなりに理由を付けて戦っているつもりなのですが、実は知らないうちに自然に操られているのかもしれません。そして、もっと大きな威力を持つもので人口調節をはかろうとしたものが世界大戦だ、という残酷な説を唱える人もいます。人口の調節だけでなく、科学は戦争が終わったあとも深刻な後遺症をもたらすこともあります。

古田武彦の『失われた九州王朝』という本の中で、筑後の『風土記』に、九州のある土地で、体になんらかの欠損を持っている人間が多いと書かれている記事を紹介していました。いわゆる「磐井の乱」のあとで、死んだ磐井の祟りか、と書かれているのですが、実は戦争でそういう障害を負ってしまったのではないか、と推理していました。古田武彦は「磐井の乱」を単なる反乱ではなく、九州王朝対大和朝廷の一大決戦だったと考えているので、戦争の影響はとてつもなく大きかったと考えたのでしょう。妙な言い伝えだと思っていたら、実は史実の反映だった、と言うのですね。

戦争まで行かないような、ちょっとした出来事でも、そのあとの歴史に影響を及ぼすことはよくあるのかもしれません。平凡な日々の繰り返しだと思っていたら、実は歴史の分岐点だったということもつねにあると言ってよいでしょう。「そのとき歴史が動いた」というのは、些細な出来事がきっかけになっているかもしれません。あのとき、もし、こうしていたら…と後になって思うことは、個人でも社会でもよくあることです。それが「IFの世界」や「パラレルワールド」につながっていくと、そこに一つの物語が生まれます。関ヶ原の合戦のとき、もし、こうなっていたら…とか、太平洋戦争でもし山本五十六が…というような小説や漫画もあります。

「義経成吉思汗説」や「豊臣秀頼薩摩落ち」「西郷隆盛生存説」のように、死んだことになっていた英雄が、もし生きていたら、というパターンも人気があります。逆に、実は家康は死んでいた、というのもあります。話を聞く側は、もし生きていたら、もし死んでいたら歴史がどう変わったかを楽しむわけで、これも「IFの世界」です。小松左京の小説は、ほとんどが「IF」からの発想と言ってもよいでしょう。「もし日本が沈んだら」「もし首都が消えたら」「もし上杉謙信が女だったら」のように、「もし」という設定そのものがテーマになっています。スティーブン・キングの小説にも、「もし過去に行ってオズワルドを止めることができたらケネディ暗殺は防げたか」というのもあり、これはキングの筆力でなかなか読ませます。

ただ、過去に行くとパラドックスが起こることもあるのですね。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も、そのあたりの面白さがメインになっていました。『JIN-仁-』の結末も微妙に歴史が変わってしまいました。「パラドックス」なので、なぜそうなるのか、理屈はどうなっているのかは、考えれば考えるほど、訳がわからなくなってきます。それでも、やはり面白いのですね。タイムスリップものは、なかなか衰えず、いまだに人気があります。とりあえず現代人を過去に行かせるみたいな設定は安易すぎるのですが、面白い。歴史上の人物が現代に現れたりするのもワクワクします。半村良の『戦国自衛隊』、筒井康隆の『時をかける少女』のような「古典的」なものから、『テルマエ・ロマエ』『アシガール』『サムライせんせい』『信長協奏曲』『テセウスの船』…思いつくだけでも相当あります。中には「光源氏」が現代にタイムスリップするという、訳のわからないものもありました。

北村薫の三部作はたいへん面白いシリーズでした。『スキップ』は、女子高校生がふと目覚めたら、何十年も後の世界にいて、夫も子供もいる高校教師になっており、中年の女性としてどう生きていくか、という作品。タイムスリップというより記憶喪失もの、と言ったほうがよいかもしれません。『ターン』は、主人公が事故にあうのですが、気づくとその一日前の世界に戻っています。事故の時間になると、また一日前に戻っている、という繰り返しの世界にとじこめられる話。ループものと呼ばれるジャンルですね。『リセット』は戦時中と戦後を結ぶ転生ものという位置づけでしょうか。

ループものというのは、話の中で主人公が同じ期間を何度も繰り返すというパターンで、『時をかける少女』はループものの代表と言われます。その後、「オタク」と呼ばれる人たちの好むジャンルとなり、アニメやラノベ、ゲームで盛んに登場してきます。ケン・グリムウッドの『リプレイ』は非常に有名です。主人公は死ぬたびに記憶を保ったまま過去に戻って人生をやり直すのですが、戻る時間がだんだん短くなっていくという設定が面白い。恒川光太郎『秋の牢獄』も短編ですが、なかなか味わい深いものがあります。ロバート・F・ヤングの『たんぽぽ娘』はタイムマシンが登場するSF小説ですが、タイトルどおりのロマンチックなお話でSF臭はなく、女性に人気の作品です。おっさんの読むようなお話ではありません。一方ジョセフィン・テイの『時の娘』は、ど直球のSF小説のように思えますが、なんと推理小説なのが面白い。

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