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2020年10月 4日 (日)

呉越同舟

昔はどこの学校にもあった二宮金次郎像はさすがになくなったようです。いかにもこれは時代にそぐわない。今だったら、歩きスマホを奨励するようなものです。戦前には必ずあった遙拝殿は当然なくなりました。御真影、天皇の写真を飾ってあるところですね。さすがに、これはダメでしょう。教育勅語を子供に言わせるところもあって、おおいに騒がれました。明治の頃なら、なんの問題もない内容だったのでしょうが…。これは井上毅の作ったものです。この人は大日本帝国憲法も起草しており、明治日本をつくりあげた一人として、なかなかの人物のようですが、なぜか評価が低いようです。軍人勅諭の作成にも関わっています。東条英機の戦陣訓というのも、その頃はあたりまえのものとして受け入れられたのでしょうか。「生きて虜囚のはずかしめを受けず」は日本人独特の観念のように言われますが、戦国時代の武士は平気で主君を変えていますし、もともと日本人の個性ではなかったような気もします。吉田松陰あたりの「死してのちやむ」のような過激な思想以降のことかもしれません。松陰の考えが昭和の軍人にもつながっていくのですね。

戦時中の「うちてしやまん」なんてことばは、当時の子供たちには理解できたのでしょうか。文語が今より身近な時代ではあったでしょうが。「やんぬるかな」みたいなことばも、文語の知識がなくても、見聞きすることが多いとだんだんわかってくるのでしょう。ちょっと前の子供だったら「ヤンバルクイナ?」と思うかもしれませんが、今の子供はそれも「?」かな。「万事休す」は今でも耳にすることがありそうですが、どうでしょうか。「神のみぞ知る」は「かにの味噌汁」と思ってしまう? そんな寒いだじゃれさえ思いつかない? 皇太子生誕を祝う「ひつぎのみこは生れましぬ」は理解できなかったようです。「あれましぬ」は「あれ、まあ、死ぬ」と思った、というのも「むべなるかな」です。「神ならぬ身の知るよしもなかった」のレベルならなんとかなりそうですね。

「てんこうせんをむなしうするなかれ」は唱歌にも出てくるので、意外に理解できていたかもしれません。児島高徳が実在したかどうかはあやしいそうですが、もとになった越王勾践は実在したでしょう。呉王闔閭を倒したあと、「臥薪」した息子の夫差に会稽において敗れます。そのあと家臣の范蠡の策をいれて二十年間「嘗胆」し、夫差を破ります。後醍醐天皇が島流しにあったときに行在所に忍び込んだ児島高徳が木に彫りつけたのが「てんこうせんを…」で、「ときにはんれいなきにしもあらず」と続きます。後醍醐は「味方する者がいるので安心してください」という意味だと悟ります。勾践がヒーローのように扱われるので、夫差やその父親の闔閭は悪役のイメージがありますが、闔閭はたしかにあくのつよい人物だったようです。なにしろ王位に就くために、従兄弟である先王を暗殺していますから。ただ良い家来を集めることには熱心だったようで、孫武を見いだしたのは闔閭です。いわゆる孫子ですね。呉の孫子と呼ばれた人はもう一人いたようで、孫臏と言います。武の子孫で、後の三国志の呉の孫家の祖です。闔閭のもとには、もう一人、伍子胥という人物もいます。孫武を推挙したのが、この伍子胥です。

伍子胥はもと楚の人です。父と兄と平王に殺されて出奔し、呉に身を寄せます。伍子胥と孫武を得て国力をのばした呉は、楚に侵攻し、都をおとします。そのとき伍子胥は、すでに死んでいた平王の墓をあばき、しかばねを鞭打って父と兄の仇をうちます。「死者にむち打つ」はここから出たことばです。ただ、その仕打ちを親友に非難されます。そのときに言ったことばが「日暮れて道遠し」です。「自分は年を取っているので時間はないのに、やるべきことはたくさんある。焦って非常識な振る舞いをすることもあるし、やり方など気にしておられない」ということでしょう。さて、伍子胥と同じように一族を讒言によって殺された男が、楚から呉に亡命してきます。伍子胥がこの男を推挙するときに、呉王闔閭に「信用できる男か」と問われます。伍子胥は、「同じ病を持つ者は、お互いに憐れみ合います。彼も私同様、楚に恨みを持つ者です。信頼できないわけがありません」と答えました。「同病相憐れむ」の由来ですね。

その後、闔閭の後を継いだ夫差の様子を見て、伍子胥はいつか呉は越に滅ぼされるだろうと思います。自分の子供は他国に逃がしたものの、先代の王から恩を受けた自分は呉を見捨てるわけにはいかないと思って戻ってきます。ところが、「同病相憐れむ」で推挙してやった男が夫差に讒言したために、伍子胥は夫差から剣を渡されます。つまり、自害しろということですね。伍子胥は「自分の墓の上に梓の木を植えよ、夫差の棺桶を作るために。自分の目をくりぬいて城門の上に置け、越が呉を滅ぼすのを見るために」と言い残して自ら首をはねます。夫差は怒って墓を作らせるどころか、遺体を革袋に入れて川に流します。その後、伍子胥が見切った通りに呉は越に滅ぼされました。夫差は「伍子胥の言葉を取り上げなかったために、こんな羽目になった。伍子胥に合わせる顔がない」と顔を布で覆って自決しました。このあたりも中学部の授業で取り上げていました。生徒たちは結構おもしろがってくれたものです。

越王勾践が夫差を油断させようとして送り届けた美女がいます。西施ですね。四大美人の一人ですが、みんな一つだけ欠点があったとも言われています。西施はどうも大根足だったらしく、いつも裾の長い着物を来ていたそうな。それがまた妙なことに、じつは足が美しかったのではないかという説も出てきます。西施の絵は足を出して川で洗濯をする姿がえがかれます。その姿に見とれて魚たちは泳ぐのを忘れてしまったとか。「沈魚落雁」と言います。「落雁」のほうはやはり四大美人の王昭君です。残りの貂蝉は月が恥じて雲に隠れ、楊貴妃はその美しさに花が気おされてしぼんでしまったので「閉月羞花」と言います。さて、西施には持病があり、胸元を押さえ、眉をひそめた姿はなんとも美しく、人々は大騒ぎをします。それを見たある醜い女が西施のまねをして、顔をしかめると、人々はすぐに戸を閉め、中には妻や子を連れて遠くに逃げた者もあったとか。これが「ひそみにならう」の元になった話です。呉と越にはいろいろなエピソードがあり、故事成語もたくさんあるわけですが、最も有名なのが、仲の悪い国同士というところから生まれた「呉越同舟」ということばですね。

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